第七章 十二因縁
仏陀が比丘達を集めて説法を行いました。
「【四諦】について【苦諦】【滅諦】【道諦】については比丘の皆さん達は良く理解してくれているようですが、【集諦】については理解が充分でない者もいるようですから、今日は【集諦】を十二段階の因縁連鎖で説明します。これを【十二因縁】と呼びます。【十二因縁】は【無明】→【行】→【識】→ 【名色】 → 【六入】 → 【触】→【受】→【愛】→【取】 → 【有】→ 【生】 → 【老死】 という無明が原因で老死に至る十二段階の因縁連鎖のことです。次に語句の意味を説明します。【無明】 とは真理を知らないことです。どのような真理かと言うと、この世界は実際に存在しているわけではなく、心の働きによって形成されたものであり、物質的な実体は存在しないということです。この物質的な実体は存在しないということを【空】と言います。物質的な実体が存在しないということは私の肉体も存在しません。つまり、私は存在しないということです。これを【無我】と言います。では私たちは肉体でないなら何だと思いますか?」と仏陀は比丘達に質問しました。
しかし誰も答える者はいなかったので、仏陀は更に説明を続けました。「本当にあるのは今ここの体験、つまり正念だけです。体験だけがあり、体験以外は何もありません。次は【行】(サンスクリット語でサンスカーラ、パーリ語でサンカーラ)です。【行】とは行為の積み重ねが認識に影響を与えること、つまり、いろいろな行為や体験をすることで認識に影響を与える《潜在的印象》のことです。ある行為をすると必ずその後の認識に影響を与えます。例えば犬に吠えられる体験をすると犬は怖いと自分では気づいていない潜在意識に印象付けられます。また、『あなたは人間という生き物だ』と教えられればそのように感じるようになります。そのように体験が積み重ねられることで認識された世界である【識】が形成されます。更にそのようにして形成された現象世界のことを【諸行】と言います。【諸行無常】とはそのようにして形成された世界は無常であり、苦であるということです。無常とはわかり易く言えば生老病死の苦しみがあるということです。例えば、生まれたての赤ちゃんは行為の積み重ねがありませんから、ありのままを観ることができます。何かを見てもそれを物だとか人間だとか思わないし、私が見ているとも思いません。このように本当は名前を付けて分別する前の純粋な体験があるだけなのに、私達はこれは物であるとか、これは人間であるとか、私が見ていると言った思慮分別を行って迷いの世界を形成しているのです。つまりこの世の全ての苦しみは自分で作り出しているのです。次の【識】は【行】によって形成された世界のことである【六識】のことです。つまり眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識のことです。眼識が生じると本当は無我なのに私が見ているという意識が生じます。この私という意識が生じると、私の心・私の身体という意識が生じます。これが【名色】です。 次の【六入】とは体が在るという意識が生じると眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官が在るという意識が生じます」と仏陀が説明したところでウルベーラ・カッサパが質問をしました。「無明が原因で生じる一連の因縁連鎖ということは目や耳が在るという意識が間違いだとおっしゃっているのでしょうか?」
「その通り。間違いです。カッサパよ、今ここで実際に目と耳が在ることを体験していますか?」
「確かにただ見えているだけであり、目で見ていることを直接には体験はしていません。つまり【正念】ではなく雑念だということですね?」
「その通りです。【正念】でないものは全て雑念です。言葉を変えると妄想です」
「おっしゃることは解ります。しかし、だからといって目や耳が在ることが間違いだとはどうしても思えないのです。目も耳も無い私はもはや人間ではないということにならないでしょうか?」
「その通りです。人は誰でも本当は人間ではありません。人間だと思い込んでいるだけなのです。この自分が人間であるという妄想を【有身見】と言います。【有身見】が間違いであると悟ると生死を超越(解脱)することができるのです」
「人間ではないなら私は一体何なのですか?」
「カッサパよ、今ここで実際に体験していること以外に何かありますか?」
「前に止観の説明の時に、今ここで実際に体験していないものは存在しないと聞きましたから何も無いのですよね?」
「その通りです。体験していないものは何も無いということは体験だけがあるということです」
「では私は人間ではなくて、ただの体験だということですか?」
「その通りです。しかし、ただの体験ではありません。私・他人・動物・物などと名前を付けて分割される前の純粋な体験です。これが【正念】です。つまり私達は本当は人間ではなく【正念】なのです。本当の自分が人間ではなく【正念】であると目覚めることを悟りを開くと言います。そして、悟りが開けると生死のある現象世界である【諸行】から解脱できるのです。だから【正念】であり続ける為に止と観の瞑想修行を行うのです」と仏陀は答えると十二因縁の説明に戻りました。
「次は【触】です。【触】とは六つの感覚器官に、それぞれの感受対象(色・声・香・味・触・法)が触れることです。そして、感覚器官が感覚を感受することを【受】と言います。感覚を感受すると好き・嫌いというような感情が起こってきます。そして、喉が渇いた者が水を貪り飲むように好きなものは貪欲に手に入れようとします。これが【愛】です。解りやすく言うと渇愛です。渇愛が生じると所有したくなり、執着が生じます。これが【取】です。執着すると本当は【空】(実体が無いこと)であるから物質的な実体は何も無いのに物が存在する物質世界が実在するという感覚が生まれます。これが迷いの世界であり【有】と言います。次は【生】です。物質世界が実在するという思いが生じると肉体が実在するという思いが生じます。これが迷いの世界に生まれることです。つまり人間として生まれ生きていると思い込むことです。これは【有身見】という間違った見方です。そして、人間として生きているという妄想から【老死】という妄想が生じます。つまり、年老いて死ぬと思い込んでしまうことです。このようにして、あらゆる苦しみは生じるのです。この無明が原因であらゆる苦しみが生じる十二の因縁の連鎖を止める為には悟りを開いて無明を解決しなければなりません。悟りの体験をする為に瞑想修行を徹底的に行い、行為の集積が世界を形成する作用を停止しなければなりません。これが真理を実際に体験して解脱を達成する唯一の方法なのです」
「なるほど良く解りました。苦しみが生じる原因が解れば苦しみを滅する方法も解る。誠に世尊の教えは素晴らしい」とウルベーラ・カッサパが賛嘆しました。
「このように行為の集積が心の働きによって形成した迷いの世界(サンスカーラ)が生死のある無常の世界であり、苦しみの世界であることは先ほど言った通り【諸行無常】と言います。そして【無明】とは無我という真理を知らないことでした。無我という真理はあらゆるものに当てはまりますから【諸法無我】と言います。更に【諸法無我】を悟って【諸行無常】である迷いの世界から【解脱】を達成した境地を【涅槃寂静】と言います。【諸行無常】【諸法無我】【涅槃寂静】の3つを三法印と言って、仏教の教えの特徴を表す仏印とします。良く覚えておいて下さい」