第六章 カッサパ三兄弟
翌日の朝、仏陀は森の中で歩きながら観の瞑想をしていました。すると何やら悩みがありそうな若者がいましたので声をかけました。
「そこの若者、何か悩みでもあるのですか?」
「はい、私は長者の息子でヤサと申します。家が金持ちなので、夜な夜な大勢の踊り子達と宴会をしていましたが、昨日の夜ふと目をさますと踊り子の女達が見苦しく乱れて眠っている様子を見てもうこんな生活はいやになり家を飛び出して来ました。しかし家を飛び出したもののこれからどうしたものかと思い悩んでおりました」
「私もあなたと同じように家を飛び出して出家修行をしました。そし真理に目覚め、解脱を達成しました」
「解脱とは伝説ではなく本当に達成できるのですか?」
「はい、私が解脱を達成したのですから間違いありません。あなたも私の元で修行すれば必ず解脱を達成することができます」
「本当に私のような放蕩者が解脱を達成できるのですか?」
「はい、必ず解脱できます。なぜなら私達は生まれながらに仏だからです。ただ自分が人間であるという妄想があるためにそのことに気付くことが出来ないだけなのです」
「わかりました。私も出家修行をしたくなりました。ご指導よろしくお願いします」
このようないきさつでヤサは6人目の比丘と成りました。
ヤサが比丘と成るとヤサの父母と妻が始めての在家信者と成りました。またヤサの友人達も出家を願い出て比丘と成りました。
仏陀達が托鉢のために街を歩いてまわっていると、多くの人達が布施をしようと集まって来ました。
食べ物を布施しながら三十路くらいの男が仏陀に話しかけました。
「立ち居ふるまいからお察ししますと、さぞかしご高名な修行者様とお見受けします。どのような教えを説かれているのでしょうか?」
「私は解脱を達成した仏陀です。この世のあらゆる苦しみから解脱する道を説いています」
「おお、何と素晴らしいことだ! 解脱とは伝説だと思っていました。本当に解脱された聖者様にお会いできるとは、ありがたや」と言うと男は仏陀を拝みだしました。
「拝んだり、祈ったりしても何にもなりません。苦しみから解脱するには仏道修行を行うことが唯一の道です」
「私のような者でも解脱できるのでしょうか?」
「誰でも解脱できます。しっかりと修行をすれば解脱できない者はいません」
「それなら是非とも私を弟子にして下さい」
「わかりました。あなたも今日から私達の仲間です」
「ありがとうございます」と言うと男は出家して比丘と成りました。
少し離れたところに食べ物を持って布施をしようとしている二十歳くらいの若者がいました。仏陀が若者に近づいて行くと若者は逃げ出したので仏陀は大きな声で若者に呼びかけました。
「どうして逃げるのですか?」
「私は不可触民なので近寄るとあなた様達が穢れてしまいます。だから、こうして遠くから布施をする気持
ちだけでも表しているのでございます」
「私の僧伽はバラモン教ではありませんから身分の差別はありません。逃げる必要はありません」
「身分の無いところがあるなんて、そんなこと信じられません!」
「本当です。本当に私の僧伽には身分の差別はありません」と言いながら仏陀は若者に近づいて行きました。貧乏な為にほんの少ししか布施できないことを申し訳なさそうに若者はわずかばかりの食べ物の布施をしました。
「食べ物の多い少ないは関係ありません。布施をしようという気持ちが大切なのです」と仏陀が言いました。
「そう言って頂けるとありがたいです。私は不可触民ですから、さすがに一緒に修行させて頂くわけにはまいりませんので、わずかな食べ物を布施することくらいしかできません」
「私の僧伽には身分の差別はありませんから、あなたも修行する意志があるのなら私達の仲間です」
「私のような者でも受け入れて頂けるのですか! 何と素晴らしい僧伽だ! よろしくお願いします」
解脱を達成した仏陀が托鉢をして回っているという噂が広まり、次からつ次へと入門希望者が集まって来てあっという間に60人くらいになりました。
仏陀達はかつて苦行を行い、仏陀が悟りを開いたウルヴェーラに戻って来ていました。すると火の神アグニを崇拝する教団を率いているカッサパという名前のバラモン僧に出会いました。カッサパという名前は当時のインドにはよくある名前であり、後に仏陀の十大弟子となり、頭陀第一と称されたマハー・カッサパとは別人です。
彼の教団は大きく、約500人が周辺に粗末な小屋を作って暮らしていました。カッサパは既に高齢でありましたがキビキビとしており、ヴェーダ聖典に精通していました。カッサパは仏陀の話しを聞くと、これはただ者ではないと感じ、今夜は泊まってもらい、また明日話の続きをすることにしました。
翌日カッサパは仏陀と話すうちに彼が間違いなく解脱を達成していることを確信しました。
「どうか私を弟子にしてお導き下さい」とカッサパは仏陀に懇願しました。
「解りました。しかし、あなたの500人の弟子達はどうするのですか?」
「弟子達と話をして来ます。しばらくお待ち下さい」と言うとカッサパは弟子達を集めて仏陀の弟子になることを告げ、弟子達にどうするか問うと、弟子達のほとんどはカッサパ師が弟子入りしたいと思うほどの者なら私達も共に弟子入りしたいと言いました。こうして、仏陀の弟子は一気に500人近くに膨れ上がりました。
カッサパには2人の弟がいて、カッサパと同じように火の神アグニを崇拝する教団を率いていました。カッサパは2人の弟に使者を出して仏陀の弟子になったことを伝えたところ、驚いた2人は早速やって来ました。そして、話し合いの結果2人の弟達とその弟子達のほとんどは仏陀の弟子になることになりました。ナディー・カッサパには300人 、ガヤー・カッサパには200人の弟子がいて、そのほとんどが仏陀に帰依したので、仏陀の教団は一気に900人の大所帯となりました。
ガヤーシーサー山の山腹で町を見下ろす場所に大勢の比丘を集めて仏陀は大岩の上に立って説法されました。
「全ては燃えている。苦しみがあるのは煩悩の炎で焼かれ燃えているからです。不安・心配・悲しみ・病・老い・死の苦しみがあるのは汝自身も汝の世界も燃え盛っているからです。煩悩は細かく分けると108ありますが、代表的なものは3つです。その3つとは貪・瞋・癡です。この3つを三毒と言います。貪はむさぼることです。瞋は怒ることです。癡は真理を知らないことです。煩悩の炎に焼かれないためにはむさぼることを止めて質素な生活をし、他人に対しては怒ることを止めて慈悲の心を持ちましょう。そして仏道修行、つまり止観の瞑想修行をすることで悟りを開き真理に目覚めることが最も重要です。その真理とは【五蘊】は我ではないという真理です。【五蘊】とは人間を構成する5つの要素である【色・受・想・行・識】のことです。【色】とは肉体のことで、【受】は感受作用、【想】は表象作用、【行】は意志作用、【識】は認識作用のことです。私達はこれら5つの要素をまとめて人間であると思い込んでいますがそれが間違いなのです。【五蘊】が我でないという真理に目覚め、人間であることから解脱できれば、もう煩悩の炎に焼かれることはありません。この煩悩の炎が吹き消された状態を【涅槃】と言います」
この説法を聞いた大勢の比丘達は自分達が本当に解脱への道を歩き始めたことに歓喜しました。
カッサパ3兄弟の900人が加わった後も入門希望者が次々とやって来て教団は1000人くらいにまで増えていました。これだけの大所帯になるとウルヴェーラでは托鉢で生命を維持できる量の食料を得ることは難しい為、もっと大きな町に移動することになりました。仏陀の一団はマガタ国の首都であるラージャグリハを目指して移動しました。
ラージャグリハの都の郊外に棕櫚の木が多く繁っている森があり、その森にウルベーラ・カッサパの知り合いの寺があり、その寺を一時的に拠点にすることになりました。