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第五章 止観

 仏陀に5人が弟子入りしたことで小さな僧伽サンガ(仏教の出家修行者である比丘びく比丘尼びくににより形成される組織)が成立しました。5人の弟子達は仏陀のことを、この世で最も尊い者という意味で世尊せそんと呼ぶことにしました。

 仏陀達は次の日から早速さっそく修行生活に入りました。

「仏道修行の基本は【止観しかん】という瞑想修行です。【止】は呼吸に集中する瞑想、つまり坐禅のことです。【調身・調息・調心】と言って背筋をままっすぐに伸ばして結跏趺坐けっかふざし骨盤を立てて坐わります。このように姿勢を整え、呼吸を整えると心が整います。【止】の瞑想が【八正道】の【正定】の修行です。【観】は坐禅の禅定を動いている時でも維持することです。坐禅をしている時と同じように雑念を消し、呼吸に意識を向けながら今やっていることに集中して心を【正念しょうねん】だけで満たします。この【観】の瞑想が【八正道】の【正念】の修行です」

「瞑想と言えば静かに坐わる坐禅のことだと思っていました。動く瞑想があることを初めて知りました」とアッサジが言いました。

「悟りの体験をする為には条件があります。その条件とはある一定期間ずっと正念を継続けいぞくし続けることです。一定期間とは私の場合は7日間でしたが、人によってはもう少しかかるかもしれません。その一定期間中ずっと坐禅をし続けることができない人もいるでしょう。そこで坐禅をしていなくても正念を維持できる方法を考案しました。これが観の瞑想です。ではまず坐禅から始めましょう」

「坐禅の最中さいちゅうに雑念が出てしまう時はどうしたら良いのでしょうか?」とヴァッパが質問しました。

「私は幼少期より剣術などの武術を習っていました。この武術の気合いが瞑想にも大いに効果があったから私は人並み外れて上達が早かったのです。ヴァッパも気合いを入れてやってみて下さい」

「しかし、坐禅をする時は力を入れてはいけないのではないでしょうか?」

「その通りです。坐禅をする時は体には力を入れてはいけません。体には一切力を入れずに気合いを入れて呼吸を数えるのです。どうすれば気合いが入った坐禅ができるのか試行錯誤しながら工夫してみて下さい」

「解りました。工夫してみます」



 一時間後、坐禅が終わり、仏陀が話されました。

「坐禅が終わったら、坐禅で入った禅定を動いている時でも維持します。坐禅の呼吸を続けながら歩く場合なら一歩一歩に集中します。決して雑念を起こしてはいけません。正念だけで心を満たして下さい」

5人の弟子達が観の瞑想を行いながら歩く練習をしています。

「初めのうちは意識的に一歩一歩に注意を向けます。しかし、いつまでも意識的にやっていてはいけません。呼吸に自然と意識が向き、一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくに自然と集中しているようにならねばなりません。勿論もちろんそんなにすぐにはできないと思います。普通の人なら1年くらいかかるかもしれません。しかし、あなた達は修行の熟達者です。3ヶ月以内に無意識のうちに自然に自動的に全ての行動が観の瞑想になっていることを目指して下さい」



 観の瞑想をしながら歩くことに少し慣れた頃、仏陀が口を開きました。「観の瞑想にも少し慣れてきたようですから、観の瞑想をしたまま托鉢に出かけましょう」

「はい」と5人は返事すると自分の托鉢椀を持って歩き出しました。托鉢とは、出家修行者が鉢を持って歩き、在家信者に食をうて回ることです。



 6人の威厳に満ちた比丘びくの托鉢に食べ物を布施ふせしようと町の人達が集まって来ました。当時のインドではバラモン僧や修行者に布施をすると善いカルマを積むことになり、来世は善い世界に輪廻転生できると信じられていました。

 


 托鉢が終わり、仏陀が口を開きました。

「では、頂いた食べ物を6人で平等に分けて食べましょう。食べる時ももちろん観の瞑想を行いながら食べます。坐禅の呼吸をしながら【今ここ】で実際に体験している事実、つまり【正念】だけで心を満たす為に、完全に集中して食べます。決して雑念を起こしてはいけません。まるでこの一口一口に自分の人生がかかっているかのごとく真剣に、そして全身全霊を傾けて食べて下さい。そして1日の食事はこれ1回きりです」

「俺達は苦行をしていた時は10日間くらい何も食べなかったこともあったから、たとえ1食でも毎日食事ができるとは極楽だな」とマハーナーマンが言いました。

「そういうことも考えてはいけません。完全に雑念を消し、正念だけで心を満たして下さい」と仏陀は言いました。



 食事の後は仏陀の説法せっぽうが始まりました。

「まず最初に説法を聞く時は背筋を真っぐに伸ばして、坐禅の呼吸をしながら、決して雑念を起こさないように聞いて下さい」と仏陀は話すと更に続けました。

「観の瞑想について捕捉ほそく説明をします。観の瞑想を行っている時はあらゆる思考や価値判断をしてはいけません。例えば、歩く瞑想をしている時に『私が歩いて移動している』と考えてはいけないということです」

「八正道の正見は正しくありのままに見ることでした。実際に人間が歩いて移動しているのにそう考えてはいけないとはどういうことですか?」とコンダンニャが質問しました。

「本当に人間が歩いて移動しているのかどうかを確認してみましょう。コンダンニャが歩いてみて、今ここで実際に体験している事実を全て口に出して言ってみて下さい」

コンダンニャは少し歩くと話し出しました。

世尊せそんと4人の仲間が移動しているように見えます。その向こうに木が6本見えます。更にその向こうに白い雲が浮かんだ青空が見えます。鳥のさえずりが聞こえます。鼻から息が出入りする感覚があります。手を振っている感覚があります。あしを動かしている感覚があります。足の裏が大地に着く感覚があります」

「それだけですか?」

「はい、それだけです」

「今の言葉の中には人間であるコンダンニャが歩いて移動しているという事実はありませんでしたね?」

「そう言われれば確かにありませんでした。鼻と手と足の感覚はありました。しかし体全体は体験されていません。でもこれはただ単に体験されてないというだけで体全体が無いということにはなりませんよね?」

「コンダンニャが体験した世界は何でできているか解りますか?」

「地・水・火・風・空です」

「それはバラモン教の教えですが、正しくありません。この世界は心で出来ています。コンダンニャが手の感覚を心で感じたから感覚があるのです。解りますか?」

「何となく解ります」

「この世界が心で出来ていることはいずれ実際に体験できるでしょう。瞑想をして心の働きを停止することで世界が消失することを実際に体験することができます。その体験をすれば世界が心で出来ていることがはっきりと解ります。そしてこの世界が心で出来ているということは体験されなかった体全体は実際には存在しないということです。考えてみて下さい、夜眠っている間に見る夢の世界に、例えば山の向こう側のような見えていない外側の世界が存在すると思いますか?」

「いいえ、夢の世界に外側なんてあるはずありません」

「その通りです。それと全く同じように私達が現実だと思い込んでいる世界も外側や見えていない部分は存在しません」

「現実だと思い込んでいた世界が実は心の中に形成された世界であり、在ると信じて疑わなかった自分の体の全体が本当は存在しないなんて、何だかきつねにつままれたような気がしています」

「すぐには納得できないことは仕方がありません。私達は長らく自分が人間だと信じて生きて来たのですから。しかし体だけでなく心も実際には存在しないことをこれから説明します。体の断片的な部分の体験の集積を【色蘊しきうん】と言います。また心の働きである受・想・行・識の4つの働きについての体験の集積をそれぞれ【受蘊】【想蘊】【行蘊】【識蘊】と言います。これら5つの体験の集積をまとめて【五蘊】と言います。つまり【五蘊】とは肉体と心に関する体験の集積であり、私たちはこの【五蘊】を自己であると間違って認識しています。【五蘊】を自己であると思うことは、言い替えると自分が人間であるという間違った見方です。この間違った見方を【有身見うしんけん】と言います。この【有身見】が生老病死の苦しみの原因です。私たちは本当は人間ではなく体験そのものであり、自己の本性が体験そのものであることに目覚めた者を仏と呼びます。仏は体験そのものなのですから生まれることも無ければ死ぬことも無く輪廻転生することもありません。つまり私達は本当は人間ではなく仏であると悟ることが仏教の【解脱げだつ】です。そしてこのように肉体も心も実在しないことを【無我むが】と言います」と仏陀は説明すると更に続けました。

「更に、鼻・手・足・木・雲などと名前を付けて分別することも雑念です。【正念】とは名前を付けて分別する前の純粋な体験なのです。つまり、観の瞑想をしている時は鼻・手・足・木・雲といった名前を思い浮かべることもいけないということです」

「それは難しいです。見た瞬間に無意識的にもう名前が付いていますから」

「その無意識の連鎖れんさを断ち切るつるぎを身に付ければよいのです。その剣の名前は【三昧さんまい】と言います」

「三昧ならすでにウッダカ・ラーマプッタ師のもとで修得しました」

「三昧を既に修得しているなら話が早い。坐禅で三昧に入っている時は純粋に呼吸の感覚そのものに成りきっていますから、その感覚が呼吸であるとか、私が呼吸をしているという想いは完全に消え去っています。その坐禅中の三昧を動きのある中でも維持します。歩く時は歩行三昧、食べる時は食事三昧といった具合です。更には朝起きてから夜寝るまでの間、ずっとこの三昧を継続し続けるのです。その為には全身全霊の気合いが大切です」

「なるほど、解りました」

「それと、移動しているのはコンダンニャではなくて私達のほうでしたね」

「確かに移動して見えたのは世尊せそん達5人でした。しかし、これは私が移動しているから、移動していない世尊達が錯覚的に移動して見えているだけですよね」

「いいえ、それは違います。錯覚的に見えるというように体験に解釈を加えてはいけません。それはありのままではないからです。移動して見えたのは移動していると判断を加えたからであり、本当は心が変化しているだけなのです。そして、自分が移動することは決してありません。なぜなら、常に【今ここ】にいるのですから」

「なるほど、体験は常に【今ここ】でしか生じないですね」

「もう解りましたね。実際には自分が歩いて移動していることは体験されていません。つまり雑念だということです。このように常に雑念を消して正念だけで心を満たしていると、思い込みによって形成された世界である【諸行】(サンスカーラ)から解脱げだつすることができ、諸行という迷いの世界は生老病死といったあらゆる苦しみがある世界ですから諸行から解脱することであらゆる苦しみから解放されます」

「本当にあらゆる苦しみから解放されるのですね?」

「はい、間違いありません。私が実際に解脱を達成して証明したのですから」

「しかし頭では解った気がするのですが、どうも納得がいっていない自分がいます」

「頭で納得する必要はありません。私が菩提樹の下で体験した悟りの体験をすれば疑いようのない事実であることがはっきりと解ります」

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