あとがき
拙著を最後までお読み頂き誠にありがとうございました。
仏陀の生涯というと通常は入滅までですが、その後どのようにして私達に教えが伝わっているのかまで書くことで、単なる昔の偉人ではなく、現在の私達の生き方に大きな影響を及ぼしている仏陀の生涯の真価を感じて頂きたいと考えました。
仏陀の生涯の出来事については諸説あります。
例えば、シッダールタ王子が出家してすぐにビンビサーラ王に会った時に出家を思いとどまるように諭した説と、広大な領土を分け与えるからマガタ国で指導者になって欲しいと嘆願した説があります。後者は悟りを開いた後ならわからないでもありませんが、まだ出家したばかりの修行者にこのようなことを言うはずがないと思い本作では前者の説を採用しました。
また、苦行を共にしたコンダンニャ達5人はスッドーダナ王がシッダールタの身辺警護の為に派遣したという説があります。しかし、この5人はシッダールタが苦行を捨てた後はシッダールタを落伍者とみなして無視していました。昔の国王は強い権力を持っていたであろうから、国王の命令に背くことはないと思い、本作では採用しませんでした。
また、シッダールタが菩提樹の下で坐禅をしていると魔王と美女が現れて坐禅の邪魔をしようとしたと経典に書いてあるそうですが、シッダールタはウッダカ・ラーマプッタ師の元で瞑想修行をしている時にすでに非想非非想処という高い瞑想の境地に到達していましたから、そのような瞑想の達人の心に魔が生じることはあり得ないので本作では採用していません。
また、仏陀が悟った後、真理を説いても誰も信じないだろうと思わて説法することをためらわれていた時に、バラモン教の最高神である梵天が仏陀に跪いて真理を説くように懇願したと経典に書いてあるそうですが、梵天という神が実在するはずはなく、バラモン教の最高神が反バラモンの教えを説いてくれと懇願することもあり得ません。この話は経典作者が仏教はバラモン教より優れていると主張したいために捏造した話であることは明らかですから本作では採用していません。
また、初転法輪で仏陀の説法を聞いたコンダンニャがその場で悟ったという説があります。しかし、悟りを開く為には見性体験をすることが条件ですから、話を聞いただけでその場でコンダンニャが悟ることは有り得ないと考え、本作では採用していません。
また、マールキヤプッタ比丘の「宇宙には果てがあるのでしょうか? もし有るのであれば宇宙の果てはどのようになっているのでしょうか?」という問に答えない理由を「毒矢のたとえ」で仏陀が語られたという説があります。しかし、仏陀が答えられなかったのには「第十二章 考えてはいけない」で説明したように明確な理由があるのですから、このようなたとえ話をされるはずがないと考え、本作では採用していません。
また、南伝経典には仏陀が入滅された後にマハーカッサパが仏陀の教えを確認する結集を開いたと書いてあります。しかし仏陀は「川を渡り終わったら筏を捨てるように、私の言葉も捨てなさい」とおっしゃったように教えに固執し、妄信することを禁じられています。そして遺言では自灯明法灯明の教えを説かれました。自灯明法灯明とは瞑想修行で体験した真理だけを拠り所とし、他のものを拠り所としてはならないという意味です。自灯明の自とは自分の身体に集中する瞑想のことであり、法灯明の法とは意識の対象という意味ですから、あらゆる意識の対象に集中する瞑想のことを指しています。このような教えを説かれた仏陀の直弟子達が経典を編纂するための結集を開くはずがありません。結集の話は経典作者が自分の書いた経典の根拠を捏造するための作り話だと考え、本作では採用していません。
更に、南伝経典には仏陀が輪廻転生があると説き、輪廻転生から解脱することが悟りであり、仏教の目的であるという記述があるそうです。しかし輪廻転生とはアーリア人が先住民を支配するためのカースト制度を根拠付けるためにでっち上げた嘘なのです。前世の行いが悪かったから低い身分に生まれたことは自業自得なのだと。もちろんこの話は嘘です。だから輪廻転生のような嘘を仏陀が説かれるはずがありませんし、また輪廻転生があるから苦しんでいる人が現在の日本にいるとも思えませんし、輪廻転生から解脱することであらゆる苦しみから解放されるとも思えませんから本作では採用していません。当時のインドではバラモン教が大きな勢力を持っていましたから、南伝経典を書いた分別説部はバラモン教の影響を強く受けて輪廻転生を取り入れたものと思われます。
古い時代に書かれた経典などを読む場合は、迷信などが含まれていますから、当時の時代背景などを考慮して有用な教えなのか迷信なのかをよく見極めることが大切です。
仏陀の僧伽では修行の中心は止観の瞑想でした。現在の日本の宗派では天台宗・臨済宗・黄檗宗・曹洞宗では止観の瞑想を行っていますが、浄土宗や日蓮宗は止観の瞑想を行っていないように思われています。しかし浄土宗や日蓮宗では誰でもが簡単に止観の瞑想が行えるように進化した宗派なのです。止観の瞑想は誰でもが簡単に行えるものではなかったので、止観の瞑想で呼吸に意識を向ける代わりに念仏や題目に意識を向けることで雑念を消しているのです。これはインドの呪文を唱えることに集中するマントラ瞑想をヒントに考案されたものと思われます。つまりまるで別のことをしているようで実は同じような瞑想修行をしているのです。
仏陀の教えはとても深遠であり、膨大な教えを説かれたと一般的には思われています。しかし、仏陀が本当に説きたかったことは実はシンプルなのです。仏陀の説かれた教えを簡単にまとめると、諸行(行為の積み重ねによって形成された世界)は無常であるゆえに苦である。苦しみを滅するには諸行無常で生死のある迷いの世界から解脱することであらゆる苦しみから解放されます。解脱を達成するには迷いの世界は心の働きによって形成された世界であるから、瞑想を極めて滅尽定に入ることで心の働きを止めれば真理を実際に体験(見性体験)することができるので、その体験によって悟りが開けて解脱することができます。そして人々を瞑想修行に導くために四諦・八正道の教えを説かれました。
生死があり、諸行無常である迷いの世界から解脱するという仏教の根本思想は、実は皆さんお馴染みのいろは唄で説かれています。
「色は匂えど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ」までが諸行無常である迷いの世界のことです。
「有為の奥山 今日越えて」が悟りを開いて諸行無常である迷いの世界から解脱するという意味です。
「浅き夢見じ 酔いもせず」は自分は人間であり、生死があるという妄想から目覚めたという意味です。
解脱すると生死を超越することが出来るのは、私達は本当は人間ではなく仏だからです。仏と言うと悟った人のことだと勘違いしている人もいると思います。しかし仏は人間ではない本当の自己のことです。曹洞宗の内山興正老師は仏とは何かをとてもわかりやすく図で現されました。
ナマに生命体験する自己とは凡夫が自分だと思い込んでいる人間としての自己です。この人間部分だけが自己であるとみなすことは【有身見】という間違った見方です。
ナマに生命体験される世界とは「今ここ」で実際に体験されている世界のことであり、この体験されている世界こそが本当の自己であり、仏教では仏と呼んでいます。
内山老師が「生命体験」と呼ばれるのは、肉体が生きていることが命ではなく、体験そのものが本当の命であり、仏教ではこれを仏の命と呼びます。
道元禅師は人間の部分が本当の自己ではないことを「身心脱落」、大きな丸が本当の自己であることを「万法に証せらるるなり」と表現されました。