第二章 出家修行
シッダールタ王子はヤショーダラー妃に話しかけました。
「バラモン教の真理である【梵我一如】を悟ると業が消滅して輪廻転生から解脱しあらゆる苦しみから解放されると言うが、【梵我一如】と輪廻転生にどういう関係があるのか良く解らないんだ。解らないと言うより、関係無いのではないかと疑っているんだ。一人でこのようなことを考えていても仕方がないから高名な師匠に入門しようと思っているんだ」
「そろそろそうおっしゃると思っていました。あなたなら必ず解脱の方法を見つけ出すと信じています」
「ヤショーダラーありがとう。君は最高の妻だよ」とシッダールタ王子は言うとチャンナという馬の世話係に、今夜馬の用意をして同行するように頼みました。
真夜中になり、皆が寝静まった頃、シッダールタ王子と馬の世話係のチャンナは馬に乗ってこっそりとカピラバストゥを出ました。
シッダールタ王子の馬はカンタカという名の見事な白馬でした。白馬に乗ったシッダールタ王子はアノーマ河の辺りまで来ると馬を降りて剣で髪の毛を切ろうとしました。
「王子様はふかふかの寝台でしか寝たことがないのに木の根を枕に寝るような修行生活ができるはずありません。どうかお考え直しを」とチャンナは言いました。
「チャンナよ、私の意思は固い。多くの人達を苦しみから解放する為にはどうしても解脱を達成する方法を見つけなければならないのだ。解ってくれ!」とシダールタ王子は言うと剣で髪の毛を切って、チャンナに剣と髪の毛と身に付けていた宝石類を渡し、白馬と一緒に王宮に届けてくれるように頼みました。
翌朝、チャンナがシッダールタ王子の出家を報告するとスッドーダナ王は予期していたこととはいえ大きなショックを受けられ、数日間寝込まれてしまいました。
シッダールタが歩いていると糞掃衣という拾い集めたボロ布を縫い合わせて作った修行着を着た男が弓矢で鹿を狙っているのを見かけました。修行者が狩りをするはずないので不思議に思ったシッダールタは男に声をかけました。
「あなたは修行者なのですか? それとも猟師なのですか?」
「俺は猟師だ。修行着を着ていると獲物が油断するから近づきやすいんだ」
「私は出家したばかりでまだ修行着がありません。この服と交換してもらえないでしょうか?」
「それ絹の高価な服だろ? 本当にこんなボロと交換するのか?」
「はい。私は出家しましたからもう高価な服は必要ありません。私にはその修行着が必要なのです」
服を交換して糞掃衣を着たシッダールタは師匠を探して歩き出しました。
出家したシッダールタが森を歩いていると修行者がやって来たので尋ねました。
「私は今日出家したばかりで師匠を探しています。アーラーラ・カーラーマ師かウッダカ・ラーマプッタ師の道場の場所を知りませんか?」
「アーラーラ・カーラーマ師とウッダカ・ラーマプッタ師の道場の場所は知りません。それより、私の苦行の師であるバッカバ仙人の道場に行ってみませんか? 苦行の世界では名の知れた偉大な師匠です」
「解りました。案内して下さい」とシッダールタは答えました。シッダールタは苦行ではなく瞑想の師匠を探していたのであるが、苦行についてもっと知っておくのも良いと考えたのでした。
ヴァッジ国の商業都市ヴァイシャーリーにバッカバ仙人の道場はありました。バッカバ仙人は白髪高齢の老人であり、苦行の為に痩やせてはいるが、眼光鋭くただ者ではない雰囲気をまとっていました。
「私はシッダールタと申します。今日出家したばかりで師匠を探しています。苦行の様子を見学させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「ああ、かまわんよ。苦行の目的は良い業カルマを積むことで輪廻転生して天上界に生まれ変わることにある。あなたも天上界に行きたければ苦行をしなさい」
シッダールタはバッカバ仙人の弟子達が苦行をしている様子をしばらく観察していました。片足で立って眠らない苦行をしている者、断食をしている者、呼吸を止める苦行をしている者などがいました。しかし、シッダールタは輪廻転生には懐疑的であり、来世で救われるのではなく、今生で救われる道を探していた為その場を去ることにしました。
シッダールタがしばらく歩いていると修行者がやって来たので話しかけました。
「私は今日出家したばかりで師匠を探しています。アーラーラ・カーラーマ師かウッダカ・ラーマプッタ師の道場の場所を知りませんか?」
「ウッダカ・ラーマプッタ師の道場は知りませんが、アーラーラ・カーラーマ師の道場はマガタ国のラージャグリハにあります」
「ラージャグリハですか、ありがとうございます。早速ラージャグリハに向かいます」
とシッダールタは言うと急いでマガタ国の首都ラージャグリハ(現在のラージギル)に向かいました。
シッダールタ出家の一報はマガタ国の若き王ビンビサーラの耳にすぐに入りました。
「ご報告申し上げます。シャカ国の王子シッダールタが修行する為に出家し、ラージャグリハ(王舎城)に入りました」と近衛兵長が報告しました。
「何、それは本当か?」
「はい、間違いありません」
「すぐに出かけるぞ」とビンビサーラ王は言うと、手勢百騎ほどの騎馬隊を率いて王宮を出ました。そして騎馬隊を四方八方に散らしてシッダールタ王子を探させました。
「申し上げます。それらしい修行者を発見致しました」
「よし、すぐに案内しろ」と言うとビンビサーラ王はシッダールタのもとへと向かいました。
「そこの修行者の方、あなたはもしやシッダールタ王子ではありませんか?」とビンビサーラ王は声をかけました。
「はい、私はシッダールタですが、もう王子ではありません」
「申し遅れましたが、余はマガタ国の王ビンビサーラである。シッダールタ王子よ、出家を思いとどまることはできませんか? 王子たる者、国王を補佐して良い政治をすることこそが真に国民の為になると思います」
「ご意見ごもっともです。しかし、私は出家修行を止めるわけにはまいりません。解脱に至る方法を見つけ出して多くの苦しんでいる人達を救わなければならないのです」
「ご決心がお堅いこと、よくわかりました」とビンビサーラ王は言うと潔くその場を去りました。
アーラーラ・カーラーマ師の道場に着くと、穏やかな表情であるがただ者ではないと感じさせる雰囲気をまとった白髪の老人がいました。シッダールタはきっとこの方がアーラーラ・カーラーマ師に違いないと思い、早速挨拶をしました。
「初めまして。私はシッダールタと申します。昨日出家したばかりです。是非先生のもとで修行をさせて頂きたいと思い訪ねて来ました」
「瞑想の経験はありますか?」
「9才から瞑想を始め、20年間ほぼ毎日1時間から2時間やっています」
「20年もやっているならかなり期待できそうじゃな。儂の瞑想で到達できる境地は【空無辺処】と言って、物質的存在が無い三昧の境地じゃよ。これは欲界・色界を越えて無色界に入る究極の境地だ。さっそく今から坐ってみなされ」
「では、さっそく坐らせて頂きます」とシッダールタは言うと師から指導を受け、坐禅を始めました。
約1ヶ月後、【空無辺処】の境地に到達したシッダールタはアーラーラ・カーラーマ師に暇乞いをしました。
「師匠から教えて頂いた瞑想で【空無辺処】の境地に到達することができました。ありがとうございました」
「おおっ、もう【空無辺処】に到達したと言うのか。恐るべき才能だ。儂はもう年じゃ。儂の跡を継いでこの道場で修行者を指導してもらえないか?」
「【空無辺処】の境地に到達しても解脱は達成されませんでした。私は解脱を達成するまでは、求道の修行を止めるわけにはまいりません。先生に教えて頂いたご恩は決して忘れません。では失礼致します」と言うとシッダールタは新たな師を求めて歩きだしました。
翌日、シッダールタはたまたま出会った修行者からウッダカ・ラーマプッタ師の道場の場所を教えてもらい、師の道場に向かっていました。道場に着くと、慈悲深そうでありながらただ者ではないと一見してわかる白髪の老人がいたので、きっとこの方がウッダカ・ラーマプッタ師だろうと思い挨拶をしました。
「はじめまして。私はシッダールタと申します。瞑想の師匠を探しています。もしよろしければ弟子にして頂けないでしょうか?」
「瞑想の経験はおありか?」
「はい、9才から20年間、毎日1時間から2時間しております」
「それはかなり経験を積まれているいるようですね。よろしい、この道場に入門を認めよう」
「ありがとうございます」
「儂の瞑想は【非想非非想処】といって想いが有るのではなく想いが無いのでもないという、有るとか無いという二元の世界を超越した三昧の境地であり、無色界の中でも最高の境地に到達できる瞑想だ。ではさっそく始めなさい」
「はい、ではさっそく始めさせて頂きます」とシッダールタは言うと師から指導を受け、坐禅を始めました。
約1ヶ月後、シッダールタはウッダカ・ラーマプッタ師に話しかけました。「先生のご指導のおかげで【非想非非想処】に到達することができました。しかし、解脱には至りませんでした。解脱に到達できる瞑想の師匠を探して旅立とうと思います」
「なんと、もう【非想非非想処】に到達したのか。恐るべき才能だな。ここに残って儂の跡を継いではもらえんか?」
「ありがたいお申し出ですが、私には解脱を達成して多くの苦しんでいる人達を救うという目的があります。このまま行かせて下さい」
「儂は長年瞑想の世界におるが儂以上の瞑想の師匠がいるという話しは聞いたことがない。【非想非非想処】こそが究極の境地なのだよ」
「では独力で解脱を達成してみせます。ご指導ありがとうございました」と言うとシッダールタは道場を後にした。すると、コンダンニャ、アッサジ、マハーナーマン、バッディヤ、ヴァッパの5人がシッダールタを追いかけて来て、シッダールタに話しかけました。「君の才能は素晴らしい。是非俺達も一緒に修行させてくれ」
「ああ、かまわないよ」とシッダールタは返事をしました。
「で、どんな修行をするつもりですか?」とコンダンニャは尋ねました。
「ウッダカ・ラーマプッタ師以上の瞑想の師匠はいないそうだから、苦行をやってみようと考えています。マガダ国を流れるニーランジャナ河のほとりのウルヴェーラに苦行林があります。そこに行って修行しょうと考えています」
「なるほど、あそこは苦行の聖地みたいな所だから、苦行をするならウルヴェーラの苦行林だよな」とコンダンニャが同意したので、一行はウルヴェーラの苦行林に向かって歩きだしました。
その後、6年間苦行林での苦行は続きました。片足で立って眠らない苦行、断食、強い直射日光に長時間当る苦行、呼吸を止める苦行、茨の褥に横たわる苦行などありとあらゆる苦行を徹底的に行いました。
6年後の12月1日の朝、シッダールタはあまりにも激しい苦行の為に骨と皮だけのような状態になり、あまりに激し過ぎる苦行では体力も気力も衰え過ぎて、とても解脱することはできないと判断し、苦行を止める決心をして5人の仲間達に別れを告げて、ニーランジャナ河に向かって歩き出しました。
ニーランジャナ河に向かう途中、苦行による衰弱があまりにも酷かった為にシッダールタは行き倒れてしまいました。そこにスジャータという村長の娘が通りかかり、酷く衰弱したシッダールタを見るとスジャータは木の精霊にお供えする為に持っていた乳粥をシッダールタに食べさせました。
「ありがとうございます。あなたが助けてくれなければ私はあのまま死んでいたでしょう。あなたは命の恩人です。このご恩は一生忘れません」とシッダールタは礼を言うと、ニーランジャナ河で沐浴して身を清めると次なる修行の地に向かって歩きだしました。