追記 仏教に強い関心を持ちながら多くの人達はどうして悟ることができないのか
仏教に強い関心を持っているのに多くの人達が悟ることができないのは決して悟りを開くことが到達不可能に近いほど難易度が高いからではありません。実際に社会人として仕事に従事しながら禅の修行をして悟りを開かれた人はたくさんいます。
悟れない人は仏教を哲学だと勘違いして本や経典を一生懸命に勉強します。熱心な人はサンスクリット語やパーリ語を勉強して自分で原典を読む人もいます。
しかし残念ながらそのような努力は悟りには何の役にも立ちません。本作で仏陀がどのような修行をして悟りを開かれたのかを紹介しました。仏陀は決して書物を読んで悟りを開かれたわけではありません。仏陀は菩提樹の下で坐禅をして悟りを開かれました。坐禅とは言葉と思考と雑念を徹底的に消す修行です。ところが本や経典を読むと言葉と思考がフル活動するので、坐禅でせっかく消した言葉と思考が復活してしまい、坐禅の効果が帳消しなります。アクセルを踏みながらブレーキを踏んでいては自動車が進むはずがないように、坐禅修行も進むはずがなく、悟りを開くことなんてできるはずがありません。
なぜ言葉と思考と雑念を徹底的に無くすと悟りが開けるのか?
この問いの答えは言葉と思考と雑念が人間特有の誤った認識パターンを形成するからです。誤った認識パターンで物事を見るからありのままの真理を見ることができなくなります。
人間特有の誤った認識パターンとは具体的には
「物質世界は実在する」
「物質世界はいろいろな物が集まって出来ている」
「あらゆる物は生じては滅する」
「私たちは肉体を持った人間だ」
「生物には生死がある」
「自分と他人は別の人間だ」
といったようなことです。
このような誤った認識パターンを通して物事を見るからこの世は無常であるように感じられ、本当は有りもしない苦しみが生じます。
仏陀が説かれた仏教は坐禅や瞑想の修行によって心の働きを停止することで誤った認識パターンの世界から解脱する道です。だから見性体験を通して悟りを開くまでは本を読むことは最小限にとどめなければならないのです。
達磨大師が「廓然無聖」とおっしゃったように心を空っぽにした先に悟りがあるのですから経典に書いてある無駄知識は悟りには何の役にも立たないだけでなくかえって悟りの邪魔にしかなりません。
最澄・空海・栄西・道元といった日本仏教の宗祖達は悟りを開かれた師を求めてはるばる中国まで行って仏道修行をしました。彼らは経典を取り寄せて学ぶだけではダメだから本物の師の元で修行するために中国に行きました。悟りを開かれた師について仏道修行をすることはお釈迦様の時代からずっと継承されて来たことです。
ところが近年は仏教学者達が修行をしないで経典などの文献研究だけをする影響を受けたのか、修行をしないで本や経典を読むだけで仏教をやっていると勘違いする人が増えてしまいました。仏教学者達がやっているのは仏教そのものではなく仏教関連の文献研究です。仏教とは坐禅や瞑想(念仏瞑想や題目瞑想を含む)の修行をすることであり、決して文献研究ではありません。
このように仏教を本当に理解したいなら本を読むのではなく、悟りを開かれた師を探しましょう。幸い日本の禅宗には悟りを開かれた老師と呼ばれる師がたくさんいらっしゃいます。老師は悟りを開いた後、更に20年くらい悟後の修行を積まれて究極の悟りの境地に到達されています。そのような師について坐禅修行をするなら社会人として仕事をしながらでも悟りを開くことができます。
坐禅や瞑想を本を読んで独学でされる方がいます。しかし坐禅や瞑想は単純なようで奥が深いものです。独学では悟りを開くどころか三昧に入ることもできないでしょう。
仏陀は修行時代はアーラーラ・カーラーマ師とウッダカ・ラーマプッタ師の2人の高名な瞑想の師匠の元で修行をされました。坐禅や瞑想は必ず悟りを開かれた高いレベルの師につくことが重要です。悟りを開いていない人に習っても、自分が悟れない人が他人を悟りに導くことなどできるはずがないからです。
仏陀は鹿野苑で初めて説法をされた時「耳ある者どもに不死の門は開かれた」という有名な言葉に続いて「信仰を捨てなさい」と説かれました。これは仏陀の説く《目覚めの道》は何か教義を盲目的に信仰する宗教ではなく、坐禅や瞑想の修行をすることで真理を実際に体験すること(見性体験)で悟りを開く道だと説かれているのです。
仏教の真理は悟りを開かない者には理解することができない深遠なものですから本物の師について坐禅修行することが本当に悟りを開くためにはどうしても必要なのです。




