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第十八章 日本の仏教

 日本に仏教が公式に伝えられたのは飛鳥時代です。西暦538年欽明天皇の時代に百済くだらから公式に仏教が伝えられました。それ以前にも私的に仏教は伝えられていたと考えられていますが、記録が無い為538年が仏教の伝来となっています。


 奈良に国内最古の飛鳥寺が建立され、更に聖徳太子によって大阪に四天王寺、奈良に法隆寺が建立されました。



 奈良時代になると南都六宗なんとろくしゅうが栄えました。6つの宗派は三論宗さんろんしゅう成実宗じょうじつしゅう法相宗ほっそうしゅう倶舎宗くしゃしゅう華厳宗けごんしゅう律宗りっしゅうの6つです。三論宗はナガールジュナ(龍樹)の中観派の論を研究する宗派であり、法相宗はマイトレーヤ(弥勒みろく)の唯識学を学ぶ宗派であるなど、これら6宗は仏陀の時代の瞑想修行を主体とする仏教ではなく、中観・唯識学などの哲学的な教理を研究する仏教でした。なお現在まで存続しているのは法相宗・華厳宗・律宗の3つだけです。



 日本には戒律を授ける戒師がいなかった為、唐から著名な戒師である鑑真がんじんを招きました。しかし5回渡航に失敗し、6回目に日本にたどり着いた時(753年)には両目を失明していました。

 鑑真は東大寺に戒壇かいだんもうけて多くの僧侶に小乗具足戒を授け、在家者には大乗菩薩戒を授けました。そして5年後、唐招提寺とうしょうだいじを建立しました。鑑真が開いた宗派が南都六宗の1つである律宗です。律宗は戒律を研究し、実践する宗派です。



 8世紀になると聖武天皇が国家鎮護のため全国に国分寺を建立し仏教は日本全国に広まりました。奈良の大仏で有名な東大寺は総国分寺と呼ばれ、全国の国分寺の総本山と位置付けられました。



 奈良仏教の僧侶の力が大きくなり過ぎた為、桓武天皇はみやこを平安京(京都市)に遷都せんとしました。


 平安時代は最澄さいちょうが開いた天台宗と空海が開いた真言宗が栄えました。

 天台宗は法華経を重視する宗派ですが止観の実践や難解な仏教哲学、念仏、更には密教までも取り入れ、天台宗の本山である比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじは仏教の総合大学となり、後に栄西・道元・法然ほうねん親鸞しんらん・日蓮といった鎌倉仏教の開祖達を輩出しました。


 最澄以前の僧侶が授けられる戒律は小乗具足戒でしたが、大乗仏教なのに小乗の戒律を採用するのはおかしいと考えた最澄は日本で初めて僧侶に大乗菩薩戒を授けました。


 天台宗では六道輪廻の六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)は心の状態であるとして輪廻転生を否定しました。六道に声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖ししょうを加えて心の状態を十の状態に分類しました。これを【十界じっかい】と言います。


「一念三千とは何でしょうか?」とある僧が最澄に質問しました。

「私達の心には瞬間瞬間に念が生じています。この瞬間的に生じた一念の中に世界の全てがあるという悟りのことです」と最澄は答えました。

「ええっ、そっ、そんなことが! ということは私達は自分の外側に世界があると思っていましたが、それは間違いで、本当は私達の心の中に世界があるということですか?」

「その通り。鏡に映った世界に実体がないように、心に映った世界にも実体がありません。実体がないことを【くう】と言います。そして心に映った世界は仮に創られたものだから【】とも言います。また【空】にも【仮】にもとらわれないことを【ちゅう】と言います。この【空】【仮】【中】という3つの性質がけ合うように融合しているという真理を【三諦円融さんたいえんゆう】と言います。しかし、このようなことをただ頭で考えただけでは意味がありません。一心三観いっしんさんがんの瞑想で体得することが大切です」




 真言宗はバラモン教の陀羅尼だらに・真言や加持祈祷を取り入れた中期密教でありました。真言とは、一例として空海が悟りを開く為に唱えた虚空蔵菩薩真言は「ノウボウアキャシャギャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」という呪文です。この意味の解らない呪文をひたすら繰り返し唱えて三昧に入り、三昧状態を何日も継続することで見性体験が起こり悟りが開けます。


 空海が高野山に金剛峯寺こんごうぶじを開いて真言宗の総本山としました。


「『阿字本不生』とはどういう意味でしょうか?」と修行僧が空海に質問しました。

「『阿字』は宇宙の真理であり、『本』は本来、『不生』は不生不滅。つまり私達は自分が肉体を持った人間であり、生まれては死ぬものであると思い込んでいます。しかし真理は全く違うのです。私達は本当は人間ではなく宇宙(仏)そのものであり、生まれることもなければ死ぬこともないという真理、それが『阿字本不生』です。しかしこのようなことを知っても何にもなりません。即身成仏して体得しなければ意味が無いのです」と空海は答えました。

「『即身成仏』とはどういうことでしょうか?」と僧が空海に更に質問しました。

「『即身成仏』とは三密(身密・口密・意密)の修行により、この世でこの身のまま仏になることです。身密とは手で印を組むことであり、口密とは真言を唱えることであり、意密とは阿字観あじかんなどの瞑想を行うことです」と空海は答えました。



 鎌倉時代になると最澄が開いた延暦寺で学んだ法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)・栄西(臨済宗)・道元(曹洞宗)・日蓮(日蓮宗)らが誰でもが救われなければならないという大乗思想から、シンプルで民衆にもわかりやすい仏教を説いて、新しい宗派を興しました。これらのシンプルな教えは民衆が受け入れ易く、その勢力を大きく伸ばし、現在の仏教の主流になりました。浄土宗・浄土真宗・日蓮宗は一見すると仏陀の教えとは大きく違っているように見えます。しかし開祖の法然・親鸞・日蓮は延暦寺で止観の瞑想をマスターし、一念三千や円融三諦といった難解な天台教学を習得した当時の仏教界のスーパーエリートです。その彼らがシンプルな宗派を起こしたのは仏教の不要な枝葉を切り落として本当の真髄である瞑想を文字も読めない民衆が行いやすい形に変えて多くの民衆を仏道に導き救済するためでした。つまり、鎌倉時代になってやっと仏陀が本当に説きたかった仏教が実現したのです。

 


 まず最初に新宗派を開いたのは平安時代末期に浄土宗を開いた法然でした。天台宗の教えは難解な仏教哲学と止観の瞑想に念仏や密教までも取り入れた膨大なものでありましたから、文字も読めない多くの民衆がこれらをマスターすることは不可能でした。そこで法然はなんとか多くの民衆を救う方法はないかと考えていた時に、唐時代の高僧である善導大師の『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』の中の「一心に念仏を唱えることに専念し、いつでもどこでも何をしている時でも怠ることなく念々に継続することは正定聚しょうじょうじゅ(正定聚とは必ず悟りを開いて仏になることが(まさ)しく定まっているともがら(聚)のこと)と成る業因である」という一文を読まれて、難度の高い天台止観でなくても、誰でもが簡単に実践できる念仏で同じ効果があると知り、念仏こそ全ての人々が救われる教えであると確信しました。そして、称名しょうみょう念仏が特徴である浄土宗を開きました。称名念仏とは「南無阿弥陀仏」と声に出して唱えることです。


「念仏を唱えると阿弥陀様が必ず極楽往生させてくれるぞ! さあみんな一緒に唱えよう! 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…………」と法然は民衆を前に説法をしました。


 法然は念仏者の心得として『三心』を説きました。「三心」とは「至誠しじょう心」(偽りのない心)・「深心じんしん」(深く信ずる心)・「廻向えこう発願心」(自分が修めた善根功徳を他にも振り向けて、自他ともに極楽浄土に往生しようと願う心)のことである。



 法然の弟子であった親鸞は浄土宗の教えを信じようとしない人達も何とかして救いたいと思い、阿弥陀仏が必ず救って下さることを信じることにより重点をおいて浄土宗の教えを更に発展させて浄土真宗を開きました。浄土真宗を開きましたと書きましたが、実は親鸞には新しい宗派を作る意図はなく、法然の教えを広めることを目指していましたが、親鸞の死後に弟子達が親鸞を開祖とする浄土真宗を開きました。


 浄土宗が「念仏を熱心に唱えることによって、だれでも往生できる」と教えを説いているのに対して、浄土真宗では「阿弥陀仏の救いを信じるだけで、善人はもちろん悪人のほうこそ当然往生できる」と教えを説いている点が、大きく違います。つまり阿弥陀仏の本願を信じることで極楽往生は決定しているのだから、その恩に感謝して念仏を唱えるのです。そして悪人のほうが善人よりも自分の「悪いところ」を自覚しているので、より阿弥陀仏にすがる気持ちが強いことから、悪人こそが救われるとしています。



 勿論、浄土系宗派が説くように本当に阿弥陀仏が救ってくれるわけではありません。浄土の教えは方便の教えと言って、念仏瞑想をすることで念仏三昧となり、更に極めることで滅尽定に入って見性体験をすることで悟りが開けることを文字も読めない民衆に説明しても理解できないので、「阿弥陀様が救って下さる」と表現されたのです。



 栄西は延暦寺で学んだ後、中国(南宋)に渡り禅の法をいで帰国して京都に建仁寺けんにんじを建て、臨済宗を開きました。

 臨済宗は鎌倉時代は執権の北条氏の帰依を受け、室町時代には足利将軍の帰依を受け、鎌倉と京都を中心に発展しました。


 室町時代初期には臨済宗向嶽寺派を開いた抜隊得勝ばっすい とくしょう禅師が活躍しました。

 禅師は坐禅堂に集まった修行者達に提唱ていしょうと呼ばれる公案の解説や取り組み方を説法されていました。

「そもそも、今目に色を見、耳に音を聞き、手を上げ足を働かせている主とは何物なのか? そう考えてみると、それらは皆自分の心がそうさせているのだとは思っているけれど、本当のところは何もわかっていない。目耳手足を働かせている主である心は、そんなもの無いと言っても、実際に自在に働いていることは明らかだ。ところが有ると言おうとしても、心の姿かたちなど見たこともない。納得できないままに考えあぐねて

どうしようもなくなってしまう。そういう状態が、実はとても良い禅の工夫というものだ。そういうとき怠けることなく、いよいよ不思議に思って疑っていると、深い疑いの思いが徹底する。疑いの思いが徹底したとき、自分の心が仏だということが疑いなくはっきりわかり、生きることも死ぬことも嫌な事ではなくなり、何も求めるものは無くなる。この世界がただ自分の心のみとなる。これを源に還るとも言い、安楽世界に生まれるとも言う」と禅師は話され、更に続けられました。

「しかし、これは少し修行が進んだ状態で、坐禅をしていれば誰にでも起こることだ。これを本当の悟りと誤解せず、更に深く疑い続けなければならない。自分の体を見れば幻のようなものであり、自分の心を見れば虚空のようなもので形もない。それなのに耳に音を聞いて、それを知覚している主は、さて何物か? そうやって少しもごまかさずに深く疑うばかりになって、理屈は何一つなくなってしまい、自分の体があることも忘れはてるとき、以前の安楽世界の境地も絶え果てて、そうして疑いが十分になったとき、本当に悟る。それは桶の底が抜けると中の水がすっかりなくなってしまうようなもの。あるいは枯れた木にあっという間に花が咲くようなもの。もし、そうなったら自由自在の大解脱の人になる。今、全ての音を聞く主は何物なのか? これを悟ったら、この心は仏や人間全ての根源である。自分の心を悟ろうと思ったら、まず思いが起きる根源を見よ。寝ても覚めても、あらゆる立ち居振る舞いにも、『自分の心とは何物か?』と深く疑って、自分の心を悟りたいという願いが深いのが修行というものだ。このように自分の心とは何物かと疑っているのを坐禅と言うのだ。また、参究を行う時には、このような事、このような道理を一つも心の中に置くことなく、ただ自分の心はいったい何かというだけになりなさい。またたった今、あらゆる音を聞いている主人は何物かと、これを悟るならば、この心は、もろもろの仏や衆生たちの本源(本来の根源)である。観音菩薩は、音をきっかけにお悟りになったので、観世音という名になったのである。ただ、この音を聞いている者は何物かと、立ったり座ったりするときもこれを見つめ、座禅してもこれを見つめるとき、聞いている者も知られず、参究もまったく絶え果ててしまい、心が茫然となるとき、そうした中でも音が聞こえることは絶え間ないが、いよいよ深くこれを見つめる時、茫然とした様子も尽き果てて、晴れ渡った空に一片の雲もないようになる。ここにおいて、自分というべき物はなく、音を聞いている主人も見当たらず、この心は十方じっぽうの虚空と等しいものであり、しかも虚空と名付けるべきところもない。このような状態のとき、これを悟りだと思うのである。この時また、大いに疑わねばならない。ここにおいては、誰がこの音を聞くのだろうかと。一念も生じないところを極めて進んでゆくと、虚空のごとく一つの物もないと知られるところすら絶え果てて、全く味わいもなく闇夜のようになるところについて退く心を起こさず、そうしてこの音を聞く者は、いったい何者であるかと力を尽くして疑いが十分になるとき、疑いが大いに破れて、死に果てた者が蘇るようになる時、これがすなわち悟りである」

 提唱を聞いていた修行者達は皆禅の奥義おうぎを垣間見た感動で言葉もありませんでした。


 臨済宗の僧侶で一番有名なのは一休禅師でしょうか。抜隊禅師の少し後の室町時代に活躍されました。

 その一休禅師がまれた「見るほどに みなそのままの姿かな 柳は緑 花は紅」という歌があります。本当に見えているのは緑色と紅色なのに、私達はそれを柳だ、花だと本当は在りもしない仮想現実をでっち上げていることを詠まれました。


 江戸時代に沢庵たくあん禅師が『剣禅一如けんぜんいちにょ』を説き、剣道に大きな影響を及ぼしたのを始めに、茶道や華道も禅の精神をいしずえとし、日本人の高い精神性の礎となりました。



 道元は延暦寺で学んだ後、栄西の弟子である明全みょうぜんのもとで禅を学び、更に中国(南宋)に渡って禅の修行を行い、帰国すると福井に永平寺を建てて曹洞宗を開きました。曹洞宗の禅は臨済宗のように悟り(見性体験)を目指すことなく、坐禅修行をすることがそのまま悟りであるとし、『ただ坐わりなさい』【只管打坐しかんたざ】と指導しました。


 道元禅師が修行僧達に説法しています。

「仏道を習うということは自己を習うことです。自己を習うということは、自己を忘れることです。自己を忘れるということは万法まんぼうしょうせられることです。万法に証せられるということは、自己の身心および他己の身心を脱落させることです」

 道元禅師は仏道とは自己を忘れることだとおっしゃいました。自己を忘れるとは「身心脱落」だとおっしゃった。これは仏陀が「有身見は間違った見方」だと悟られたことを道元禅師は「身心脱落」と表現されたのです。

 要するに、自分の心あれは他人の体などと分別することをめると万法(あらゆるもの)が本当の自己であると悟ります。山を見たら山が本当の自己であり、池の蛙が飛び込んでポチャンという音を聞いたらポチャンが本当の自己なのです。このように万法が本当の自己(仏)であるということを【山川草木悉有仏性】あるいは【山川草木悉皆成仏】と大乗仏教では表現しています。




 日蓮は「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えると救われるという日蓮宗を開きました。


「お題目を唱えるとどういう原理で救われるのでしょうか?」とある僧が日蓮に質問しました。

「仏は過去に亡くなったものでも、未来に出現するのを待つべきものでもない。【一念三千】と言われるように、仏は私達の一念の中で生き続けている。それ故、私達は『南無妙法蓮華経』と唱えることによって我が心に受け止め、我が心に活かすことができるのだ。そうすることで私達は仏と一心同体の境地に至れる、これが『南無妙法蓮華経』と唱えることで果たされる『成仏』である」と答えました。要するに、唱題することで心の雑念を払えば【正念】という私達の心に宿る仏が現れるということです。



 鎌倉時代中期に一遍いっぺん上人は時宗を開きました。時宗は念仏を唱える浄土系の宗派であり、念仏を唱えながらおどりを踊る踊り念仏が特徴です。時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説きました。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈です。


 開祖の一遍上人がまだ悟りを開いていない時、なんとかして悟りを開きたいと思っていると、臨済宗の心地覚心禅師(法灯国師)の元で多くの僧侶が悟りを開いたといううわさを聞き、心地覚心禅師に参禅しました。

 公案を頂いて禅と念仏の修行に打ち込み、禅師に修行の成果を短歌にして示しました。

「唱ふれば仏も我もなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして」

「よく修行をしていい所まで来ているが、まだ徹底していない。更に工夫して来なさい」と禅師は一遍の悟りを認めませんでした。


 その後数ヶ月間、一遍は寝食を忘れるほど修行に没頭していると念仏を唱えている私の肉体も心も消えせ、ただ念仏の声だけが無意識のうちに自然に自動的に続いている不思議な体験をしました。一遍はその体験で悟ったことを再度禅師に短歌にして伝えました。

「唱ふれば仏も我もなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」

と詠ったところ、禅師は大いに認められました。「声ばかりして」というのではまだ声を認識している自我が残っているから禅師は認められなかったのです。


 一遍上人は後に、語録のなかで「我体を捨て南無阿弥陀仏と独一なるを一心不乱といふなり。されば念々の称名は念仏が念仏を申すなり」と仰せになっています。我が身を捨てて南無阿弥陀仏ひとつになる、それが一心不乱だというのです。私が念仏を称えるのではなく、念仏が念仏を称えるのだと仰せになっているのです。



 これらの新しい宗派は多くの民衆に受け入れられました。しかし多くの民衆が本当に悟りに到達できたわけではありませんでした。本当に民衆が悟りに到達できる仏道は明治時代になるまで待たねばなりませんでした。



 明治の初め、幕末の三舟(勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟)と言われた山岡鉄舟と高橋泥舟は自由民権運動の指導者である政治家中江兆民と話していました。

わしは剣の道を極める為に禅をやろうと思っている」と山岡鉄舟は言いました。

「剣の道と禅は何か関係があるのか?」と中江兆民は鉄舟にたずねました。

剣禅一如けんぜんいちにょという言葉があるように剣の奥義おうぎを極めるには禅の奥義も極めねばならぬのだ」

「禅の奥義となるとお寺の坐禅会に参加する程度では難しいぞ」

「問題はそこなんだ。寺の修行道場は僧侶に成る者専用だから、一般の在家者は修行することができないのだ。そこで一般の在家者のための修行道場を作ろうと思うのだが指導をしてくれる禅の老師をどうやって見つければ良いのかがわからずに行き詰まっているのだ。兆民、悟りに到達された禅の老師を知らんか?」

「私が困った時によく相談している今北洪川いまきたこうせん老師に頼んでみるか」

「禅の老師を知っておるのか! 儂も一緒に頼みに行くぞ!」

このようないきさつで山岡鉄舟達はのちに鎌倉にある臨済宗円覚寺派の大本山である円覚寺の管長となる今北洪川老師に頼み込んで、一般の人々を対象とした本格的な禅の修行ができる坐禅道場「両忘会」を始めました。「両忘会」は一時期中断していましたが、今北洪川老師の流れをむ釈宗活老師が「両忘協会」として復活されました。釈宗活老師の法をいだ立田英山老師が昭和24年に「人間禅」と名を改めて今日に至っています。そして多くの一般在家者が悟りに到達しています。多くの一般在家者が悟りに到達できるのは摂心会という一週間程度の泊まり込みの坐禅会があるからです。見性体験をする為には一週間程度【正念】の状態を継続することが条件ですが、在家者の日常で一週間も【正念】を続けるのは不可能ですから、どうしても道場に泊まり込む必要があるのです。また、摂心会では老師から公案を頂いて本格的な禅の修行が行われています。


 スーツ姿の中年男性である高橋は初めて人間禅の坐禅会に参加しました。坐禅会は18時30分から始まり、坐禅を30分間した後に15分間休憩してから再度坐禅を30分間した後に禅の書籍の輪読があり、最後に質疑応答があり20時を少し過ぎて終了しました。

「初めて坐禅会に参加されたにしてはしっかりと結跏趺坐けっかふざ(正式な坐禅の脚の組み方)で坐れていましたね」と指導者が話しかけました。

「この日のために3ヶ月前から毎日練習していたんです。坐禅は始めはうまくいってたのですが、途中から雑念がかなり出てきました」と高橋は答えました。

「始めは誰でもそんなものです。上達する秘訣は真剣にやることと、毎日必ず45分間坐禅をすることです。絶対に1日たりとも欠かさないという覚悟が大切です」

「真剣にやることと、絶対に1日たりとも欠かさないことですね。肝に銘じておきます」

「そういう覚悟で老師の指導を受けながら坐禅修行をするなら必ず悟りは開けます」

「例えば十人が真剣に坐禅修行をしたとして悟りが開けるのは何人くらいでしょうか?」

「真剣に坐禅修行をして悟りを開けなかった人は当道場にはいません。つまり老師の指導を受けながら真剣に坐禅修行をすれば必ず悟りを開くことができます」

「必ずということは私なんかでも悟りを開くことができるのでしょうか?」

摂心せっしん会に参加して本格的な禅の修行を真剣に行えば必ず悟りを開くことができます」

「摂心会というのは何ですか?」

「摂心会とは一週間の泊まり込みの坐禅会です。悟りを開くためには雑念が無い状態を一週間くらい継続する必要がありますが、日常生活の中でそれは不可能に近いですから、道場に一週間泊まり込みで坐禅会を行います。摂心会は年に4回あり、1ヶ月後に今年2回目の摂心会があります。1日だけとか半日だけの参加もできますからいかがですか?」

「是非参加させて下さい。始めてなので1日だけで、午前10時から最終まで参加します」

「わかりました。ではまた摂心会で会えることを楽しみにしてます」


 1ヶ月後の午前10時、高橋は人間禅の摂心会に参加するために道場にやって来ました。

 修行者達はちょうど午前中の作務さむ(庭の草引きや掃除などの作業)が終わったところでした。

 次は坐禅です。45分間の坐禅の後15分間休憩をして更にもう一度45分間の坐禅を行います。高橋も結跏趺坐けっかふざで坐りました。坐禅の最中に席を立って行く者がいて、しばらくして帰って来るとまた別の人が席を立って行きました。彼らは老師から公案という悟りを開く契機となる問題を与えられており、老師の部屋に1人づつ入って公案の見解を老師に判定してもらっていました。これを参禅と言います。

 坐禅が終わると昼飯です。禅修行の食事は大変質素なものかと高橋は思っていましたが、普通の家庭の食事と変わりませんでした。食事中も禅の修行ですから雑念を払い箸の動作や味と食感などに集中して食べるように指導がありました。食事の最後は沢庵漬を1切れ残しておき、食器にお茶を注いで残しておいた沢庵漬で食器を洗い、お茶は飲み干します。布巾で食器を拭いて、その布巾で食器を包んで布巾の四隅を結び、棚に直します。

 食事の後は少し休憩してから午後の作務です。高橋はほうきで畳の床を掃除しました。もちろん雑念を払い一挙手一投足に全集中して掃除をします。

 掃除の後は坐禅です。45分間の坐禅を休憩を挟んで2回行います。

 坐禅が終わると夕食です。お釈迦様の時代は1日に1食でしたが、この道場ではちゃんと3食食べれます。

 食事が終わると老師の提唱ていしょう(老師による公案の解説)です。高橋は老師の話を真剣に聞いていたけれど難しくて良くわかりませんでした。唯一わかったのは「公案を自分の外において対象とするのではなく公案に成りきりなさい」というところだけでした。

 提唱が終わると坐禅です。45分間の坐禅を休憩を挟んで2回行います。

 坐禅が終わると真向法と呼ばれるストレッチ体操をして摂心会は終了です。体操する時ももちろん雑念を払い一挙手一投足に全集中して行います。

「初めての摂心会はいかがでしたか?」と古参の修行者が話しかけました。

「皆さんの修行に対する真剣な覚悟がビシビシ伝わって来て、早く自分もそうなりたいと思いました」と高橋は答えました。

「それは有意義な1日になりましたね。またお会いできる日を楽しみにしています」



 また、大正9年には「釈迦牟尼会」という同じような臨済宗の坐禅道場もできました。



 更に、昭和29年には曹洞宗の法を嗣ぐ老師が「三宝禅」という坐禅道場を開きました。この道場は曹洞宗でありながら、臨済宗の公案を取り入れることで、より早く修行者を悟りに導くことに成功しています。



 仏陀の時代にはかなわなかった、一般の民衆の多くが悟りを開き解脱げたつを達成できる仕組みは近代になってようやく完成しました。


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