第十六章 入滅
シャカ国滅亡の翌年、仏陀は80才になられ最後の旅に出られました。最期は生まれ育った所で迎えたいと思われ、ラージャグリハの東北にある霊鷲山(グリドラクータ)を出発して約300km先にあるカピラヴァストゥを目指されました。高齢であることに加えて体調も悪かったにもかかわらず歩いての旅であり、お供はアーナンダただ1人です。
仏陀の旅は、それまでもそうであったように、旅先の各地でさまざまな人々に法をお説きになりながらのものでした。ラージャグリハからカピラヴァストゥへ向かう途上、ガンジス河を渡って病に苦しみながらもヴァイシャーリーに着きました。
ヴァイシャーリーに着くと仏陀の病気は少し良くなったので、仏陀は托鉢に出られました。托鉢から戻って食事を済ませた仏陀はヴァイシャーリーの景色を見てアーナンダに話されました。
「アーナンダよ、世界は何て美しいのだろう! 人生は甘美である!」
「世尊、人生は一切皆苦ではなかったでしょうか?」
「それは解脱する前の話です。悟りを開いて解脱を達成すればあらゆるものがとても美しく見えます。私が菩提樹の下で悟りを開いた時、目にするあらゆるものがまるで生まれて初めて見るように新鮮で美しく見えました。私達は見ているようで本当の姿は何も見えていなかったのです。それだけではありません。解脱すると深い安堵と圧倒的な至福に満たされます。あまりに素晴らしい感覚だったので、そのまま菩提樹の下で何週間もその感覚を味わい続けました。人生は本当に甘美なのです。アーナンダも早くこちらの世界に来なさい」
「はい、精進します」
ヴァイシャーリーを出発してマッラ国のパーヴァーというところに着いた時のことです。チュンダという鍛冶屋から柔らかい野豚の肉とキノコを何種類もの香辛料で香り高く調理した「スーカラ・マッダヴァ」という料理の供養を受け、法を説かれたのですが、その食事が原因で食中毒になられました。激しい出血性の下痢と腹痛に苦しみながらも旅を続けられ、その後カクッター川に辿り着いて沐浴した後、近くのマンゴー樹の林で休み、さらに歩みを進め、ヒランニャヴァッティー川を渡り、カピラヴァストゥまであと少しであるマッラー国の都クシナガラのサーラ林に着き、そこで力尽きた仏陀は、二本のサーラ樹(沙羅双樹)の間に頭を北に右脇を下にして両足を重ねて静かに横になられました。
「アーナンダよ、チュンダが自分の出した料理のせいで私が病気になったと気に病んでいるといけないので『無上の悟りを得るために食べたスジャータによる食事と、完全な涅槃に至るために食べたチュンダによる食事、この二つは等しく徳のあるものである』と私が言っていたと伝言して下さい」
「わかりました。必ずチュンダに伝言します」
横臥しても仏陀は説法をやめませんでした。 四諦・八正道・止観・十二因縁などの法を説かれ続けました。
仏陀の死を目前にしたアーナンダは「あぁ、私はこれから学ばねばならぬ者であり、まだ為すべきことがある。 ところが、私を導いて下さるわが師は涅槃に入られるであろう」と、物陰に去って独り泣いていました。
アーナンダが嘆き悲しんでいることを耳にされた仏陀がアーナンダに話されました。
「アーナンダよ、悲しむなかれ、嘆くなかれ。私は物質世界が実体ではないことを悟り、肉体が有るという思いや我が有るという思いは妄想であることを見抜いて生死を解脱しました。例えば歩いている時は実際に体験されているのは足の感覚と流れ去るように動いて見えるまわりの景色などであり、肉体を持った人間としての我が歩いていることは実際には体験されていません。つまり肉体を持った人間としての我とは、行為の集積が心の形成作用によって形成されたもの(諸行)なのです。だから私は常々形成されたもの(諸行)から解脱しなさいと言ってきたのです。常に【正念】の状態を維持することで形成されたものである生死を越えることができるのです。【正念】の状態では《今ここ》しか無いのですから。つまり生死という観念は雑念でしかないのです。アーナンダよ、気合いを入れて呼吸を意識することで雑念を消して【正念】になりきりなさい。そうすれば嘆き悲しむ必要などないのです」
仏陀の入滅がいよいよ今夜に迫ったと聞いて、仏弟子やマッラー族の人々が続々と集まって来ました。また、スバッダという遍歴行者もやってきて教えを受け、最後の弟子となりました。 最期の時が近づき、集まった比丘たちを前にして、滅後の教団の在り方などについて教戒を与え、なお仏道の実践に関して何か疑問がないかと三度お尋ねになりましたが、誰一人として質問することはありませんでした。
「自らを灯火とし、自らを拠り所としなさい、他を頼りとしてはならない。法を灯火とし、拠り所にしなさい、他の教えを拠り所としてはならない。教えの要は自ら修行をして心を修めることです。そうすれば必ず悟りが開ける、それが仏法です」と仏陀が話されたところでアーナンダが質問しました。
「自らを拠より所とし、法を拠より所とするとはどういう意味ですか?」
「アーナンダよ、昨日話したではないか。肉体が有るという思いや我が有るという思いは妄想であると。歩いている時は実際に体験されているのは足の感覚と流れ去るように動いて見えるまわりの景色などであり、肉体を持った人間としての我が歩いていることは実際には体験されていないと。このことを見抜くために
自らの一挙手一投足(自)に集中し、見えるものや聞こえる音(法)に集中するように繰り返し指導してきたではないか」
「わかりました。自らの体の感覚に集中し、心に映るあらゆるものに集中すること、要するに止観の瞑想をしっかりとやり、瞑想体験以外は何も拠り所としてはいけないということですね」
「その通り。《目覚めの道》は瞑想修行の道なのですから瞑想によって体験したことだけを拠り所にしなければなりません。バラモン教のヴェーダ聖典のようなものを書いてそれを盲信するようなことをしてはいけないということです。全てのものは現れては消えて行く。このことが本当に分かるようになるまで弛まず努めなさい」と、悲しまれるお弟子たちに最後の法話をされました。
比丘たちの理解が思っていた以上だったことに安心されたのか、とてもやすらかな表情で目を閉じられました。享年80才でした。
遺体は仏陀の後継者であるマハーカッサパの到着を待ってから荼毘に付され、遺骨は8つの部族に分けられ、それぞれ仏塔に納められて大切に祀られました。
マハーカッサパがいつまでも泣いているアーナンダに話しかけました。
「アーナンダよ、いつまでも泣くな」
「はい、でも涙が溢れて止まりません。世尊は生死を超越したとおっしゃっていたのに、どうして入滅されたのですか?」
「アーナンダはまだ悟っていないから解らないのだ。肉体は【空】、つまり実体ではないのだ。実体の無いものが生まれたり死んだり輪廻転生するはずがないのだ。例えばアーナンダが寝ている時に世尊が入滅された夢を見たとしても実際には何も起こっていないだろう?」
「当たり前です。夢なのですから」
「それと全く同じことなのだ。私達が現実だと思い込んでいる現実世界は実在しないのだから」
「現実世界が実在しないということは以前に世尊から聞いたことがあります。しかし全く実感を伴った理解には至っていません」
「それはアーナンダがまだ【見性】体験をしていないからだ。【見性】体験をして悟りが開ければ物質的な現実世界が実在しないことがはっきりと解るのだ。そして実際にはただ体験だけがあるのだ。体験する主体も無ければ体験される客体も無いのであり、この一切の価値判断が生じる前の純粋な体験こそが真の自己であり、世尊はこれを【正念】と呼ばれたのだよ。そして悟りが開け人間であることから解脱すると本当に生きているのは我ではなく、《今ここ》が生きていると悟るのだ。アーナンダも早くこっちの世界に来い。止観の瞑想を気合いを入れて真剣に行い続けることで必ず不死の門を開くことができるのだから」
「わかりました。早く不死の門が開くように、今まで以上に気合いを入れて精進します」
「ところで、世尊は最期に何かおっしゃったか?」とマハーカッサパがアーナンダに質問しました。
「はい、世尊は『自らを灯火とし、自らを拠り所としなさい、他を頼りとしてはならない。法(心に映るあらゆるもの)を灯火とし、拠り所にしなさい、他の教えを拠り所としてはならない。《目覚めの道》は瞑想修行の道なのですから瞑想によって体験したことだけを拠り所にしなければなりません。バラモン教のヴェーダ聖典のようなものを書いてそれを盲信するようなことをしてはいけないということです。教えの要は自ら修行をして心を修めることです。そうすれば必ず悟りが開ける、それが仏道です。全てのものは現れては消えて行く。このことが本当に分かるようになるまで弛まず努めなさい』とおっしゃいました」
「そのようにおっしゃったか……」と言うとマハーカッサパは仏陀の最期の言葉を噛みしめていました。そして少し間をおいてから話しました。
「アーナンダよ『全てのものは現れては消えて行く』という言葉をどう理解した?」
「諸行無常のことをおっしゃったのだと理解しました」
「諸行無常は大切な教えだが、仏教の基本だ。最後の最期にそのような基本を今さら説くだろうか?」
「では、一体どういう意味なのですか?」
「例えば、アーナンダが道を歩いているとしよう。すると、向こうから人が歩いて来ました。その人はアーナンダの横を通り過ぎ、見えなくなりました。この時、アーナンダはこの人は見えてないだけで私の後ろを歩き続けていると考えるだろう。しかし世尊はそうではないとおっしゃったのだ。見えてないのではなくて存在しないのだと」
「ああ、そういえば止観の瞑想について世尊が説法されている時に、正念とは今ここで実際に体験した事実に基づく念であり、それ以外は全て雑念であるとおっしゃっていました。通り過ぎて見えなくなった人は実際には体験されていないのですから、その人がいると思うことは雑念なのですね」
「その通り。しかし、アーナンダはまだそのことを頭で理解しただけだから、見性体験をして本当にそのように感じられるようになるまで弛まず努める必要があるのだ」
「はい、わかりました」




