第十一章 カピラバストゥ
仏陀は成道後約6年が経った頃、生まれ育ったカピラバストゥへ比丘300人を伴って向かっていました。出家してカピラバストゥを出てからはもう12年もの年月が経っていました。カピラバストゥの南5kmのところまで来た時に日が暮れたので、ニグローダ樹の園で木の根を枕に一夜を明かすことにしました。
翌朝、1時間ほど坐禅をした後、カピラバストゥに向かって出発しました。歩く時も勿論禅定を崩さないように呼吸に意識を向けながら一歩一歩に全身全霊の集中をして歩きます。雑念を起こさず、一切の価値判断をしないで、ただありのままを観ます。
城門を通り、カピラバストゥの町の中に入ると、皆が一斉に托鉢を初めました。しばらくすると、この比丘の集団はシッダールタ王子が悟りを開いて解脱を達成し、仏陀と成って教えを説いている僧伽であることが知れわたると、仏陀を一目見ようと人々が集まって来ました。
仏陀がカピラバストゥで托鉢をしていることはすぐにスッドーダナ王の耳にも入り、スッドーダナ王はすぐに重臣のマハーナーマとヴァッディヤと数人の警護の兵を連れて仏陀に会うために王宮を出ました。
「シッダールタ! よく戻って来た」
「陛下、親不幸をお許し下さい」
「見たところ大勢の弟子が出来たようだな」
「弟子は2000人ほどになりました。そんな大勢を連れて移動するわけにいかず、今回カピラバストゥに連れて来たのは300人だけです」
「これでほんの一部とは大きな教団になったな」
「はい、今まで誰も達成できなかった解脱を達成し、本当に解脱できる道を説いているから人が集まるのです」
「すぐに王宮に来れるのだろう?」
「いいえ、今は托鉢の最中です。私だけが托鉢を途中で放り出して王宮に行くわけには参りません。托鉢が終わってから伺います」
「そうか、わかった。では先に王宮に戻って待っているぞ」とスッドーダナ王は言うと共の者達を連れて王宮に戻って行きました。
仏陀は托鉢が終わると王宮に行き、スッドーダナ王・マハープラジャーパティ王妃・妻のヤショーダラー・実子ラーフラ・異母弟ナンダと会食しました。
「シッダールタが出家した時は希望が崩れ落ちてしばらく寝こんでしまったよ。しかし、これだけ多くの人達から慕われているのを見ると出家することが天命だったのだと思うよ。ところで明日も王宮に来れるか? と言うのは明日ナンダの結婚式があるのだ。シッダールタにも是非出席してもらわないとな」
「それはめでたい。勿論出席します。相手は誰ですか?」
「スンダリー姫だよ。国一番の美人だと言われているほどの器量良しだよ」
「ナンダ、おめでとう。明日は出席して祝辞を述べさせてもらうよ」
「ありがとうございます。きっとスンダリー姫も喜びます」
仏陀は修行時代に二人の瞑想の師匠に入門したことや、あまりにも厳しい苦行で死にかけた時にスジャータの乳粥で命拾いしたこと、菩提樹の根元で7日間徹夜で坐禅をしていると不思議な体験が起こり、悟りが開けたこと、カッサパ三兄弟やシャーリプトラ・マハーカッサパなどの優れた弟子達に恵まれたこと、ビンビサーラ王とカランダ長者が竹林精舎を寄進してくれたことなどを話しました。更に《目覚めの道》についても簡単に話しました。私達は本当は人間ではないこと、真の自己に目覚めることが悟りであり、真の自己に目覚めることだけが生死のある人間世界から解脱する唯一の道であることなどを話しました。
「シッダールタ、今夜は王宮で泊まれるのだろう?」とスッドーダナ王が尋ねました。
「いいえ。私は修行の身ですからふかふかの寝台で寝るわけには参りません。ニグローダ樹の園に戻ります」
「そうか、では馬車で送って行こう」
「それも辞退します。修行者は楽をしてはいけません。歩いて帰えらせて下さい」
翌日、ナンダ王子の結婚式が執り行われました。バラモン教の司祭の前でナンダ王子とスンダリー姫は愛を誓い、式は粛々と進行していきました。式の後は盛大な披露宴が執り行われました。スッドーダナ王の挨拶の後、仏陀が祝辞を述べてからナンダ王子に托鉢用の鉢を渡しました。これが何を意味しているのかを瞬時に察したスッドーダナ王は「ナンダ、行くな!」と叫びました。
しかし、スッドーダナ王の叫びも虚しくナンダ王子は仏陀に付いて行ってしまいました。ナンダ王子は王になる器ではないと思っていたし、王としてやっていける自信も無かったのです。それに仏陀の説く《目覚めの道》にも興味があったので、ナンダ王子は兄である仏陀の誘いに応じて出家する決意をしたのでした。
翌日から早速ナンダの修行が始まりました。しかし、愛するスンダリー姫と離れ離れになってしまったことを思い悩み、修行に身が入らない状態が続きました。
「ナンダよ、 そのように思い悩んでいては修行になりません。この世のあらゆるものは無常なのです。美しいスンダリー姫もやがて年をとって老婆になります。しかし、修行を完遂した者だけはこの無常の世界から解脱でき、生老病死といったあらゆる苦しみから解放されるのです。だから今は姫のことは忘れて修行に打ち込みなさい」と仏陀は言いました。
翌日、仏陀の一団はカピラバストゥの町で托鉢を行っていました。人々は我先にと食べ物を布施して《目覚めの道》の教えを聞きたがりました。比丘達は《目覚めの道》について教えを請われれば丁寧に説明しました。そして多くの者達が出家を希望し、在家の信者を希望する者達も多くいました。
仏陀がカピラバストゥに来てから一週間が経ちました。仏陀がいつものように托鉢をしているのを見ていたヤショーダラーはラーフラに「あそこにあなたのお父様がいます。お父様にはあなたに伝えなければならない教えがあります。お父様のところへ行って教えを聞いて来なさい」と言いました。ラーフラは言われた通りに仏陀に駆け寄って言いました。「お父様、僕に伝えなければならない教えを聞かせて」
「ラーフラ、とっても大切な教えだから、これからはラーフラと一緒に暮らしてしっかりと教えてあげるよ」と仏陀は言うとラーフラを抱き上げて連れて行ってしまいました。
父親を知らずに育ったラーフラを不憫に思っていたヤショーダラはやさしい表情で一部始終を見守っていました。
ラーフラはまだ12才なので正式な比丘には成れないので、20才になるまでは見習いということになりました。 ラーフラの指導は仏陀が自ら行うと甘えが生じる恐れがあるのでシャーリプトラに任せることにしました。通常、比丘の食事は1日1回だけですが、ラーフラはまだ成長期であるから夕食もとらせることにしました。
仏陀の一団はカピラバストゥに10日間滞在した後、コーサラ国へと出発しました。その数日後、スッドーダナ王の重臣であるマハーナーマと弟のアヌルッダが仏陀の説く《目覚めの道》について話していました。
「仏陀の説く《目覚めの道》には驚いたよ。本当の自分に目覚めると生死を超越することができるって言うんだから。最初は半信半疑だったけど、ナンダとラーフラを出家させたということは本当なんだと確信したよ。そこで私も仏陀を追って出家しようかと思ってるんだ」とアヌルッダは言った。
「私も出家したい気持ちはある。しかし、私はスッドーダナ王の重臣だから、簡単に出家するわけにはいかないのだ。それに我が家には男子が2人しかいないのだから1人は家を継がなければならない。《目覚めの道》はアヌルッダ、お前に託すよ」
翌日、アヌルッダは出家することを母に話しました。
「わかったよ。お前がそこまで言うのなら出家を認めよう。ただし条件が1つあります。お前の友達のヴァッディヤも出家すると言うのなら認めます」と母は答えました。ヴァッディヤはスッドーダナ王の重臣である。その地位を捨ててまで出家しようなどと馬鹿げたことを言うはずがないと考えてのことでした。
早速アヌルッダは一緒に出家しようとヴァッディヤを誘いました。
「私も《目覚めの道》には興味はあるし、出家したいという気持ちもある。しかし私はスッドーダナ王の重臣であり、重要な職務があるから簡単には出家できないのだ。だから5年待ってくれ」とヴァッディヤは答えました。
「5年も待てないよ! 待っている間に死んでしまったらどうするのだ? 1週間で仕事の引き継ぎをして来いよ!」
「わかったよ。明日スッドーダナ王に話してみるよ」
ヴァッディヤを口説き落としたアヌルッダは王族のバグ・キンビラ・ダイバダッタ・アーナンダにも一緒に出家しようと声をかけました。
出家決行の日、6人は散髪屋に行って頭をまるめ、身に付けていた宝石類を服に包むと散髪屋のウパーリに渡して言いました。
「私達はこれから仏陀に弟子入りするために出家するから、この宝石類はもう必要ないからあなたにあげよう」
宝石類の包みを見ていてウパーリはもしこんな宝石類を持っていることを他人に見つかったら王族の者達を殺して奪ったと思われて死刑になるかもしれないと思い、慌てて外に出て、しばらく走った所で木の枝に結び付けました。
彼らは次期国王になってもおかしくない王族なのに、その名誉も地位も財産も全て捨てて出家するところをみると仏陀の説く《目覚めの道》は本当に生死を解脱できるのかも知れないとウパーリは思い、6人の後を追うことにしました。
ウパーリが加わって7人となった一行はコーサラ国に入り、仏陀がアヌピヤの街から北西に1里の森にいるという情報を得ました。
アヌピヤ郊外の森で仏陀を見つけた7人は弟子入りを請い比丘となりました。
この度のシャカ族の出家者の中で、ラーフラ・アヌルッダ・アーナンダ・ウパーリの4人は後に仏陀の十大弟子に数えられるほど仏教教団において中心的役割を果たしていくこととなります。その4人の中でも特にアーナンダは常に仏陀の側近くにいて、誰よりも多く仏陀の説法を聞きましたので多聞第一と称され、後に教団で特に重要な役割を果たすまでになりました。