第9話 嵐の前の静けさ
「……そういえば、春になったから、そろそろ庭の植木を手入れしてやらなきゃならないね。脚立はどこへ仕舞ったんだか……」
まさか、自分で植木を刈るつもりなのか。私はばあちゃんに向かって、身を乗り出した。
「ばあちゃんはいつも、自分で植木の剪定をしているけど、もう歳なんだから業者の人に頼んでみたらどうだ?」
「そうだよ。何かあったら危険だよ。歳を取ったら、骨折しやすくなるんだって」
晴夏もそう説得したが、ばあちゃんは首を縦に振らない。
「でもねえ、人に頼んだら金がかかるだろう。自分が元気なうちは、自分で動かなきゃね」
「ばあちゃん、でも……」
すると舞夏は、煮魚の身を口に運びながら、能天気な声で言う。
「もう、切っちゃえばいいんだよ。木なんてさ。あっても無くても、誰も困らないじゃん」
「……バカ舞夏! 家の植木は、そもそもじいちゃんが大切にしていたものなんだぞ! ばあちゃんがそれを切り倒すわけないだろ!」
私が慌ててたしなめると、舞夏もしゅんとしてばあちゃんに謝る。
「ご、ごめん……ばあちゃん」
「……まあ、去年まで植木は私が刈ってたからね。今年もきっと、大丈夫さ」
結城の家は俵山を支配していた大地主の家系で、昔はたくさんの財産があったようだけど、いろいろ事情があって今はそれも殆ど残っていない。だから、私たちの生活は質素倹約が基本だ。
それなのに、私たち姉妹は三つ子で、今年、同時に高校へ入学してしまった。だから必要な学費も、三倍だ。もしこれが、例えば学年の違う姉妹だったら、まだましだったんだろうけど。それを考えると、ばあちゃんには申し訳なくなってくる。
食事が終わり、私は台所に食器を提げて皿洗いに取り掛かる。
結城家では女四人なので、家事は当番制なのだ。料理は殆どばあちゃんが作るけど、食器洗いや風呂掃除、居間の掃除機がけなど、三姉妹で交代にこなしている。
スポンジに洗剤を含ませていると、そこへ晴夏がやって来た。
「立夏、今日の皿洗いの当番は、私だよ」
「あれ、そうだったか?」
「うん。立夏は今日、風呂洗いが当番じゃなかった?」
「あ、本当だ。ド忘れしてた。……まあ、いいや。晴夏、私も皿洗い手伝うぞ」
「でも……」
「気にするな。どうせこれから、また勉強だろ」
晴夏は眼鏡を押し上げながら、「ありがとね、立夏」と微笑む。私たちは並んで皿洗いを始めた。
晴夏の通学先は、進学校として名高い月渡学園だ。そういった学校に入学するだけあって、晴夏は子どもの頃から頭がいい。小学生の時も中学生の時も、いつも成績は学年トップだった。
「進学校は大変だな。今日も放課後、図書室で授業の復習をしてたのか?」
茶碗を洗いながら尋ねると、晴夏は困ったような顔をして頷く。
「うん……思ったよりも授業がハイペースで、ついていくのがやっとだから……。学校の図書室は静かで集中できるし、つい長居しちゃって。バスを一本、乗り遅れちゃった」
「晴夏でも、ついていくのがやっとなのか。大変なところだな。月渡って」
「私は……そんな大したことないよ。立夏も知ってるでしょ? 私が勉強できるのは、臆病だから。将来のこととか考えると不安でたまらないし、テストの点数が悪いと、このままで大丈夫なのかって、何だか怖くなっちゃう。それが嫌で、ただ勉強してるだけ。私は天才じゃないし、ましてや秀才でもない。本当は……ただの臆病者なの」
晴夏はそう言って、自信がなさそうに笑う。晴夏はいつもこうだ。勉強ができるし、実際、成績もいいのに、何故か自己評価が恐ろしく低い。晴夏のそういった面を見ると、私はいつも説教モードになってしまう。
「あのなあ、すぐそうやって自分を卑下するのは、晴夏の悪いところだぞ。いいじゃないか、臆病者でも。それで結果が出てるんだから」
「ふふ、立夏はいつもそうやって私のこと、励ましてくれるね。私は……舞夏の方が凄いと思うな。あんな風に、自分の全てを賭けて一生懸命になれるものがあるなんて……何だか羨ましい」
「まあ、舞夏が漫画家になるために頑張っている事は認めるが……それ以外はあいつ、超がつくほどいい加減で適当だぞ」
「でも……私が一番すごいと思うのは、立夏だと思う」
「私……? 何でだ?」
「だって……立夏はどっしりと根を張った、大木みたいなんだもん。ちょっとやそっと風が吹いたくらいじゃ、びくともしないでしょ? 勉強ができるとか、叶えたい夢があるとか……そういう特別なことが無くても、自分をしっかり持ってる。立夏のそういうところ、凄いって思うよ」
「……そうか」
「そうだよ」
晴夏は笑って、更に質問をしてくる。
「ねえ、虹ヶ丘はどう? 友達できた?」
「できたぞ。悠衣っていう子なんだ。クラスメートとも、概ね上手くやってる」
「そっか。さすがは立夏だね」
「晴夏はどうなんだ? 月渡で友達はできたか?」
「ううーん、話をする子はいるけど……まだ友達ってほどじゃないかな。みんな頭良さそうな子ばかりなんだけど……何ていうか、何を考えてるのかなってちょっと怖くなる時もある。話は普通にするけど、本音はあまり口にしない、みたいな……」
「ふーん……月渡の生徒は、頭が良すぎるのかもしれないな。でもまあ、そのうち仲良くなれるだろ」
「そうだといいんだけどね……」
そんな話をしていると、あっという間に皿洗いが終わってしまった。あとは、洗った食器を拭いて、食器棚に収めておしまいだ。それも晴夏と二人だと、さほど時間もかからない。晴夏は最後に、キッチン周りの水を台ふきで拭いながら言った。
「これで、おしまい……と。やっぱり二人で取り掛かると、終わるのも早いね」
「そうだな」
「さてと。部屋に戻って、明日の予習をしなきゃ……」
「あまり無理はするなよ」
「うん。ありがとね、立夏」
私は晴夏と別れ、風呂場に向かい、浴槽の掃除をする。それを終え、居間に戻ると、ばあちゃんがちゃぶ台で茶を飲んでいた。
「立夏、一人かい?」
「うん。舞夏と晴夏は部屋に戻ったよ。舞夏は締め切り、晴夏は明日の授業の予習だって」
「お前は、予習とやらをしなくてもいいのかい?」
「するよ。でも、虹ヶ丘だし、そこまで大変じゃない。……私も茶をもらっていい?」
「湯呑みは自分で持っておいで」
私は言われた通り、台所にある食器棚から自分の湯呑みを持ってきた。そしてばあちゃんの隣に座り、自分で急須から茶を淹れる。ばあちゃんは、そんな私をじっと見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……やれやれ。お前は私に、一番よく似ているね」
「ばあちゃん? どうしたんだよ、急に?」
「私が結城の家に入った時には、後妻という事もあって、それはもういじめられたもんさ。女のくせに可愛げが無い、ふてぶてしい生意気だと言ってね。じいさんが庇ってくれたからどうにか耐えられたけど、それも長くは続かなかったしね」
どうして、長く続かなかったのか。それは、じいちゃんが死んでしまったからだ。
じいちゃんには五人の弟や妹がいた。じいちゃんが死んで以降、その弟や妹――結城の一族は、ばあちゃんを徹底的にいじめて追い詰めたのだ。じいちゃんの残した遺産をよこせ、どうせ財産目当てでこの家に入り込んだんだろう、この泥棒猫、と。
だからばあちゃんは、家にあった財産をみな弟や妹へ譲った。その代わりに、この家だけは守ろうとしたのだ。この家は、ばあちゃんにとって、じいちゃんとの思い出が残る大切な宝物だったから。
当時、私はまだ子どもだったけど、その時のことを今でもよく覚えている。
「……ばあちゃんは、今でも結城一族の事を恨んでいるのか?」
遠慮がちに尋ねると、ばあちゃんはさばさばした態度で切り捨てた。
「くだらない。恨んだから、何になるって言うんだい? あいつらの欲深さは、千回死んだって、治りゃしないよ。そんなものに付き合って、何になるって言うんだ? ……私はね、この家を守ることが出来ただけで充分」
「うん……」
「いいかい、お前たち三人は、ああいう風になってはいけないよ。結城の一族が最後、どうなったか。土地や財産で繋がる関係なんて、所詮はあの程度という事さ」
「分かってるよ、ばあちゃん。心配しないで」
私が答えると、ばあちゃんは少しだけ目を細める。それから、湯呑みを口元へ運びながら、尋ねてきた。
「……晴夏と舞夏は、学校で上手くやっているのかね?」
「どうだろ。入学したばかりだし、良くも悪くもまだ、問題が起きる段階じゃないってところじゃないか?」
「そうか……立夏、もし二人に何か問題が起こったら、しっかり相談に乗ってやるんだよ。私は齢も齢だから、最近の学校事情はよく分からないしね」
「それは良いけど……私の心配は無し?」
「お前は大丈夫だよ。言っただろう、立夏は私に一番よく似ているって。お前なら、どんな困難もねじ伏せ、乗り越えてしまうだろうよ」
「あはは、ばあちゃんのお墨付きか。心強いな」
ばあちゃんはばあちゃんで、私たち三姉妹の事を心配しているんだと思う。ただ、ばあちゃんは確かに高齢だし、SNSとかもやっていないから、学校の事情を知らない。だから、私に託したのだ。
でも、ばあちゃんの言葉が無くても、私は晴夏と舞夏を守る。だって、二人は大事な家族だから。
私たちはみな、今までずっとそうして生きてきたのだから。
そんな平和な結城家に、思いも寄らぬ闖入者がやって来たのは、その数日後のことだった。
その日、私はいつものように虹ヶ丘高校へ登校して、授業を受けた。昼休憩に入り、教室で悠衣と一緒に持参した弁当を食べる。悠衣は私の弁当を見つめて言った。
「いつも思うんだけどさー、りっちゃんのお弁当って自分で作ってるの?」
「いいや、ばあちゃんが作ってくれるんだ」
「お婆ちゃん? ああ、道理で……冷凍食品とか殆ど無いし、栄養バランスがすごく考えられてそうだよね」
「まあ、栄養は偏ってないかもしれないが……全体的にいつも茶色っぽいな。煮しめや煮物、おひたしが多いし」
因みに、悠衣のお弁当は全体的に彩りが鮮やかで可愛い。冷凍食品が入っていることもあり、今風という感じのお弁当だ。冷凍食品などとは縁遠い環境で育った私は、ちょっと羨ましく思ってしまうのだが、それは悠衣には内緒だ。その悠衣は、大真面目に頷いている。
「栄養は大事だよ。あと、満腹感ね。ほんと大事! ……気のせいか、最近すごくお腹が空くんだ。でも、食べたら太っちゃうし、空腹を我慢するのめっちゃ辛くなる」
「確かにな。四時限目と放課後が特にヤバい」
「あはは、分かる分かる!」
そんな他愛ない会話を交わしていると、近くで同じようにお弁当を広げていた女子たちの話が聞こえてきた。別に聞く気はなかったのだが、声が大きくてどうしても耳に入るのだ。
「あ、そーだ! ねえねえ、知ってる? うちのクラスの男子……戸塚くんとA組の女子って、付き合ってるんだって!」
「え、マジ!?」
「ちょっと早くない? まだ入学してから一か月も経ってないじゃん!」
「まあ、最近はSNSがあるから、入学前に既に仲いいとか、普通だけどね」
「聞いたところによると、二人ともバスケ部なんだって。それで意気投合したらしいよ」
「何それ、うらやま!」
「あー、あたしも彼氏欲しいなー」
「うんうん。欲しい、欲しい。でも、相手がいないんだよねー」
「っていうか、怜奈はどういう人が好みなの? 顔とかさあ」
「えー、あたしは《シリウス》の高木くんかなー」
「あはははは、めっちゃイケメンでヤバいんですけど! 理想、高すぎ!」
「いいじゃん、あくまで好みなんだから。ちゃんと身の程はわきまえてるっつーの」
「でもいいよね、高木くん! 背が高いし、イケボでイケメンって、最強じゃない?」
「《シリウス》の高木くん……?」
何のことだかさっぱりな私は、首を傾げる。すると、それを見た悠衣が笑いながら詳細を教えてくれた。
「《シリウス》っていうのは、今売り出し中のアイドルグループだよ。歌って踊れて、ドラマやバラエティにも引っ張りだこだし、ミュージックビデオの動画再生回数も、国内の新人としては異例の五千万回を突破してるんだって。おまけに声優もしてるんだよ」
「そうなのか。知らなかった」
「高木くんっていうのは、一番人気があるメンバーなの。確かにイケメンだよ。カワイイっていうよりは、キレイっていう感じの子かな」
「ふーん。……でもまあ、男は顔じゃないがな」
何気なく呟くと、悠衣は驚いたように箸を止め、私の顔をじっと見つめた。何か、おかしなことを言っただろうか。私も逆に悠衣の反応に驚いてしまい、瞬きしていると、悠衣はこわごわと尋ねてくる。
「……。りっちゃん……急にどうした? 何かあったの?」
「ん? 何でだ?」
「だって、突然、人生を悟ったような事を言うからさ。何かあったのかと思って、びっくりしちゃったじゃん」
「ああ、悪い。そういうわけじゃないんだが……。まあ……今のはアレだ。いわゆる、一般論ってヤツだ。聞き流してくれ」
もっとも、私がそう考えるようになったきっかけは、間違いなく存在する。決して一般論で「男は顔じゃない」などと口にしたわけではなく、ある出来事によって私はそういう考えを持つに至ったのだ。
けれど、それは悠衣とはあまり関係が無い話になるので、ここでは黙っておくことにした。
まあ……話せば長くなってしまうしな。