第20話 蒼ちゃんの絵
ドキリとした。
蒼ちゃんのことは、今はもうそれほど引き摺ってないけど、失恋したのに変わりはないのだ。
立夏とはすでに仲直りをした。だけど、蒼ちゃんとはあれからまだ一度も、まともに顔を合わせてない。
どういう表情をして会えばいいのか……あたしの一方的な片思いだったとはいえ、なんか気まずい。
それを察したのか、晴夏は窺うようにして言う。
「どうする? 舞夏が嫌なら私一人で行ってくるけど」
「……。ううん、あたしも行く!」
いつまでも有耶無耶なままにしておけない。蒼ちゃんとあたし達は、いわば同じ家に住んでいる家族のようなものなのだ。
いずれケリをつけなければ問題なら、いま片付けておいた方がいい。
だってこのまま、気まずい状態がいつまでも続くなんて嫌だもん。
何より、グズグズと引き摺るなんて、あたしらしくない。
むしろこれはちょうどいい機会だ。
だから、あたしは晴夏と共に、離れにある蒼ちゃんのアトリエへ乗り込むことにした。
「こんばんは~」
「お、おじゃまします……」
母屋を出て、晴夏と二人でアトリエに入ると、立夏が先に来ていた。
「あれ、立夏も来てたんだ。へ~、こんな夜に蒼ちゃんと二人きりでアトリエに……ねえ?」
すると立夏は、慌てて反論する。
「な、何だその目は!? 舞夏が想像するようないかがわしい事は何もしてないぞ!!」
「え~、ホントにぃ? ってゆーか、そういう風に必死になるところとか、逆にめちゃ怪しいんですけど~!」
「あ……怪しくない! そんなの言いがかりだ!!」
「あ、赤くなった。ますます怪し~!」
「もう、イジワルはやめなよ、舞夏」
「何よ、晴夏。ちょっとからかっただけじゃん」
晴夏や立夏とそんな会話をしていると、アトリエの奥から蒼ちゃんが顔を出した。相変わらずの、憎たらしいほどの爽やかイケメン笑顔だ。
「晴夏ちゃん、舞夏ちゃん。いらっしゃい! 散らかってるけど、どうぞ上がって」
「あ、はい。おじゃまします。……行こ、舞夏」
「……うん」
晴夏に促され、あたしはアトリエの奥に足を踏み入れる。
蒼ちゃんのアトリエにはずらりと巨大なイーゼルが並び、そこには様々なサイズの絵が設置してあった。
洗面台の鏡くらいの大きさをした絵もあれば、うちの母屋の障子の倍はしそうなほどの、大きなサイズの絵もある。
「うわあ……これ全部、蒼司くんが描いたの?」
「すご……!!」
「ほとんどはこのアトリエに拠点を移す前のものだけどね」
蒼ちゃんはそう言って笑った。
蒼ちゃんの絵はすごくカラフルでパワフル。主張の塊だ。
きれいとか完成度が高いとか、そういう理屈がどうこういうレベルじゃなくて、こう……絵と目が合った瞬間にガシッと掴まれて、作品の中に引き摺り込まれるかんじ。
海外でも評価されているって聞いたけど、何となく分かる気がする。
何より、物理的にそこに存在することの圧がすごい。
スマホやパソコンなどを介した絵と違って、絵の具の凸凹、大きさ、空気感、匂い、全てが体当たりでぶつかってくる。
あたしはその中の一つに目を留めた。どこかで見たことがある絵だ。
「あ、これ何かの本の表紙になった絵でしょ? 書店で見たことがある!」
すると蒼ちゃんは目を見開いた。
「よく知ってるね」
「本屋にはよく行くから……この絵も素敵!」
「ああ、それは最近、描き始めた絵で、まだ習作段階なんだ」
「習作?」
「確か、練習用の作品のことだよ」
晴夏がそう教えてくれる。
「えっ……練習? これが……!?」
鮮やかでパワフルな絵が並ぶ中、それは他とは明らかに一味違った作品だった。
瑞々しくも柔らかい緑の中、ワンピースを着た女性がわずかにこちらを振り返っている。
他の絵のように、画面全体から何かを訴えかけてくるような主張の強さはない。けれど何というか、見ているとすごく優しい気持ちになる絵だった。
他の絵も悪くないけど、あたしはこの女性の人物画が一番好き。
これだけでも十分に飾っておけそうなのに。
でも言われてみると、人物の目鼻立ちなど細かいところの描き込みはされていなくて、手足のポーズや背景も何度も描き変えた跡がある。
一枚の絵を完成させるまでに、きっとこうしていろいろ実験したり調整したりしていくんだ。
晴夏もあたしと一緒にその絵に見とれていたが、ふと気づいたように呟く。
「あれ……ひょっとして、この絵のモデルって立夏?」
「えっ!? ないない、だってどう見ても全然別人じゃん! そもそも立夏、こんなに美少女じゃないし!! ってまあ、それを言うとあたしもそうなんだけど……」
あたしたち三姉妹は一卵性の三つ子なので、顔立ちはみなそっくりだ。だから立夏の顔とあたしの顔も基本的にはよく似ている。
もちろんそれぞれ個性はあるし、個々の性格や髪形、趣味とかは全然違うけど。
立夏はしかめっ面をして言う。
「悪かったな、美少女じゃなくて。私はあくまでポーズのモデルをしたまでだ。その絵は完全に蒼司の頭の中の妄想というか……イメージ映像だな」
ところがそれに対し、蒼ちゃんは真剣に異議を唱えるのだった。
「何言ってるの、立夏! これは紛れもなく立夏を描いた絵だよ! ポーズのモデルっていうだけじゃない!! 僕の中にある立夏の想いをあますところなく全力で表現したんだ!! 僕は命を懸けてでもこの絵を完成させてみせる……! この絵はきっと、今までのどの絵よりも素晴らしい作品になるよ!!」
それを聞いて、立夏は頭を抱える。
「あのな……晴夏や舞夏の前でそういう変態くさいセリフはやめろ! そういう言動がいらん誤解を生む原因なんだよ!!」
「どこがどう変態なの!? 僕はただ心の底から本当の事を言っているだけだよ!!」
「だからこのシチュエーションで普通の常識ある二十九歳・非常勤講師は社会的な良識を疑われるようなことや己の恥ずかしい本音を惜しげもなくぶちまけたりはしないんだよ!! 変態っていうのはそういうとこだ!!」
「でも、時と場合によってその都度ごまかさなければないなんて、本当の愛じゃない!!」
「だまれ、変態!!」
「立夏は照れてるんだよ、蒼司くん」
笑いながら告げる晴夏に続き、あたしも肩を竦めた。
「そうそ、あたしたち三人の中じゃ一番素直じゃないもんねー」
「な、何であたしがツンデレみたいな扱いになってるんだ!? 蒼司が誤解されやすいのも変態なのも両方事実だし、私はおかしいことは何も言ってないぞ!!」
「もー、そんなムキにならなくても分かってるって。蒼ちゃんはこのアトリエで立夏をモデルに絵を描いていたんでしょ? 晴夏から聞いて知ってるよ」
まあどう見ても、モデルと画家というだけじゃない、何かトクベツな雰囲気だったけど。
でも立夏がそれに触れて欲しくないなら、敢えてイジるつもりもない。
取り敢えずあたしがそう答えると、蒼ちゃんはさらに真面目な表情になって言う。
「そう。だからどうしても二人にこの絵を見て欲しかった。立夏は僕の創作活動に必要なんだ。立夏と一緒にいるとどんどんアイディアが膨らんでいく。いわば僕が無理を言って立夏に協力してもらっているだけで、立夏は何も悪くないんだ。
でもそのせいで、晴夏ちゃんや舞夏ちゃんといろいろあったって聞いて……悪いのは僕だよ。確かに……立夏の言う通り迂闊だったし、いろいろ誤解も与えてしまったと思う。君たちと絶対に打ち解けたいと思って、いろいろと……表現か過剰だったかもしれない。だから、悪いのはあくまで僕だ。立夏のことを責めないで。責任は僕にあるんだから」
「蒼司くん……」
「……」
蒼ちゃんがどれだけ立夏のことを想っているか。言葉にせずとも、絵を見れば全て伝わってくる気がした。
惜しげもなく才能と圧倒的熱量を注ぎ込まれた絵。習作でこれなら、完成したらきっともっとすごい絵になるのだろう。
(蒼ちゃんは本気なんだ。本気で立夏のことを好きなんだ……!)
でも、不思議とその事に嫉妬は覚えなかった。
何でだろう。胸の奥がズキズキするような痛みや、裏切られたという悲しさ悔しさは、今はもうすっかり消えてなくなっている。
一方、立夏は蒼ちゃんの言葉に突っ込むのも疲れたらしく、小さく溜息をつく。そしてあたし達に向かって再度、訴えた。
「あのな、晴夏、舞夏。蒼司はあの通り脳みそパンケーキな奴で誤解を招くことも多いけど、絵を描きたいという情熱だけは本物なんだ。それで助けになればと思って……蒼司から頼まれてモデルをやるようになった。隠していたのは悪かったけど、ばあちゃんもいるし、大ごとにしたくなかったんだ。私のことは見損なっても構わない。ただ……蒼司の絵は完成させてやりたいんだ!」
ところが、あたし達が何か答える前に、蒼ちゃんがそれを否定する。
「そんな……立夏、言ったでしょ。悪いのは僕だよ! 君たち三姉妹はもともと仲が良かったんだから、僕がやって来たせいで険悪になってしまったのなら……それは立夏のせいじゃない。間違いなく僕のせいだよ。だから一番に責められるべきなのはこの僕だよ! 立夏は何も気に病む必要は無いんだ!!」
もう、だんだん馬鹿馬鹿しくなってきた。
何をしたって、立夏と蒼ちゃんのイチャイチャぶりを見せつけられるだけ。あたしはもちろん他の誰にも、二人を邪魔することなどできないし、間に割って入る隙も無い。
改めてそれがよく分かった。
「はいはい、よーく分かりました。蒼ちゃんと立夏が相思相愛だってことは」
あたしが呆れて言うと、立夏はさらにムキになる。
「は!? べ、別に……そんなんじゃ……!!」
けれどあたしは、それを無視して蒼ちゃんに向き直った。
「二人のこと、もう怒ってないし邪魔したりとかそういう事も考えてない。……でも、ひとつだけ条件があるんだけど」
「……何?」
「立夏は一応、あたしの姉だから。泣かせたり悲しませたりしたら、いかに相手が蒼ちゃんだろうと許さないからね!」
すると蒼ちゃんは目を瞬かせた後、にっこりと破顔する。
「もちろん、そんな事はしないよ。約束する。舞夏ちゃんはお姉さん想いの優しい子なんだね」
女の子なら誰しもがとろけそうなほどの、イケメン笑顔。もし失恋してなかったら、あまりのまぶしさで卒倒していたかもしれない。
好きでもない女の子に平気でそんな表情するだなんて、ほんとズルいよ。
あたしは半眼になってぼやく。
「……蒼ちゃんってさ、天性のたらしだよね」
「え、そうかな?」
「天性だし、天然なところもあるよね」
晴夏もくすくす笑ってあたしに同意する。立夏に至っては、呆れ半分、怒り半分で容赦なく蒼ちゃんを一刀両断に切り捨てたのだった。
「二人とも、はっきり言っていいんだぞ。完全にイケメンの持ち腐れ、いやイケメンの無駄使いだってな!」
「立夏ははっきり言いすぎ!」
そう言ってあたし達はみなで笑う。
自分でもわりとびっくりするくらい、普通に蒼ちゃんや蒼ちゃんと一緒にいる立夏と話せた。
二人の関係を知った時、裏切られたと感じたのは事実だけど、案外、自分が思っていたより吹っ切れていたみたい。
それで良かったのだと思う。
いつまでも怒ったり恨みに思っていたって、自分が辛くなるだけ。
それよりは自分の人生が有意義になるようなことに時間や労力を使いたい。
だって、あたしの人生はあたしのもの。誰かの恋を盛り上げるための添え物なんかじゃないから。
たとえ一つの恋が実らなかったからといって、それで全てが駄目になるわけじゃないし、次の出会い、次の恋があるんだから。
それからしばらくアトリエで過ごし、あたしは晴夏や立夏と共に母屋へ戻ることにした。
離れを出て中庭を横切る時、立夏があたし達に声をかけてくる。
「何か……ありがとな、二人とも」
「別にィ。あたしはただ、蒼ちゃんのアトリエに興味があったから行っただけ。ね、晴夏?」
「うん。そうだよ、立夏」
あたしと晴夏が答えると、立夏は少しだけほっとしたようだった。
「……。そっか」
普段はぜんぜん可愛げが無くて、無愛想でふてぶてしいようでも、立夏は意外と気をつかうところがある。特に道理や筋の通らないことは大嫌い。だから仲直りをした後も、あたしや晴夏を欺いてしまったのではないかと、ずっと気にしていたのだろう。
それを察してか、晴夏は微笑んでさり気なく話題を変える。
「それにしても、蒼司くんの絵はすごかったね。すごいっていうか……凄まじかった。きれいで美しいだけじゃない……あれがプロの絵なんだね」
「あたしも……圧倒されちゃった。特に立夏をモデルにした絵は、なんかいろいろ画面全体から溢れ出している感じ。あの絵、完成するといいね」
モデルが立夏っていう点は未だに納得しがたいけど、それでもきっと良い絵になるんじゃないかって気がする。あたしには絵の良し悪しなんか何も分からないけど。
すると、立夏は逡巡した後、ポツリと口にした。
「実は……今だから話せるけど、蒼司は一時期、絵が描けなくなっていたみたいなんだ」
あたしと晴夏は心底おどろいた。
「えっ……それ、本当!?」
「どうして!? あんなにすごい絵ばかりなのに!」
「はっきりとした理由は分からない。ただ、描けなくなってしまったのは事実みたいだ」
「そうだったんだ……だから東京から俵山にアトリエを移したのかな?」
「それもあるかもしれない」
俄かには信じられない話だった。
画家なのに絵が描けないなんて、かなり深刻な状態なのではないか。スポーツ選手は時々スランプに陥る事があると聞いたことがあるけど、それと似たようなものかもしれない。
でもそれにしても、いつも余裕で自信たっぷりのあの蒼ちゃんが。
さっきだって、スランプの気配は微塵も感じなかったのに。
けれど、呆然とするあたしをよそに、立夏の言葉は続く。
「そうしたらあいつ、突然、私をモデルにした絵を描きたいって言い始めたんだ。ぶっちゃけ私はそんなキャラじゃないし、容姿やプロポーションがとび抜けて優れているわけでも無い。だから最初は断ったんだけど、どうしてもって頼まれてモデルをすることにした。そしたら、また描けるようになったみたいだ。蒼司が言うには、ちゃんとした新作を描くのは三年ぶりだって」
「三年……」
晴夏も絶句する。
三年といえば、ちょうどあたし達が高校に入学して卒業するまでの期間だ。
長いというほどではないかもしれないけれど、決して短いわけじゃない。
漫画家と同じで、画家も人気あっての商売なところはあるだろうし、そういったキャリアの上でも痛手だったのではないか。
「そっか……それじゃ立夏への愛が蒼司くんを画家の道へ引き戻したんだね」
晴夏は感慨深げな声音で口にするが、立夏の反応は素っ気なかった。
「まあ、私たちは子どもの頃から互いをよく知っているから、モデルと画家として対峙しても余計な緊張とかがなくてやりやすかったのかもな」
「もー、すぐそうやってネガティブ発言するんだから。正直に喜べばいいじゃん。自分が蒼ちゃんの立ち直るきっかけになれたんだって」
あたしはつい、強い口調で反論してしまった。
立夏はそれほどネガティブな性格ってわけじゃないし、普段はむしろ前向きなくらいなのに、蒼ちゃんの事となると途端に発言が後ろ向きになる。
何故かしきりと蒼ちゃんから離れようとするのだ。
相手はあの蒼ちゃんだから、多少は謙遜かなって思えるけど、こうも否定的な言葉ばかりだと却って嫌味に聞こえてくるし、ぶっちゃけイライラする。
すると立夏は何故か、困ったように笑うのだった。
「舞夏はいつもはっきりしているな。そういうとこ、すごくカッコいいし羨ましいって思うぞ。
「な……何よ、急に!? からかわないでよ!」
「からかってない。本当にそう思ったから言ったんだ」
「嘘ばっか! 立夏があたしを褒めるなんて……絶対にありえない! 本気でそう言ってるなら、明日、雪でも降るんじゃない!?」
「確かに、滅多にない珍事だね」
晴夏はそう言って、くすくす笑った。立夏やあたしも、それにつられて笑ってしまう。
晴夏はこういうところがすごく気が利く。
さり気なく話題を変えたり、場の空気を良くしたり。あたしや立夏にはないところだ。
しばらくして、立夏は再び淡々と話し始める。
「蒼司が私のことをどう思っているか、正直なところ今も自信はない。ただ、あいつが再び絵を描けるようになるまでは、一緒にいてやりたいと思うんだ。蒼司にとって絵は命で、自分そのものだと言っていい。絵さえ描けるようになれば蒼司はどこでも生きていけるよ。それだけの才能のある奴だから。
そして、もし再び絵が描けるようになれば、もう一度、画家としてやっていくこともできるかもしれない。東京に戻ることができるかもしれないんだ。蒼司にとっては……きっとその方が良いんだと思う」
立夏がそんなことを考えているなんて、思いもしなかった。
蒼ちゃんは東京に戻った方がいい……?
何よそれ。それじゃ立夏はどうなるの?
あたしは驚きのあまり、身を乗り出す。