第5話 図書室の災難
なお性質が悪いのは、大原部長にはおそらく何ら悪気が無いことだ。しかし彼の言葉はあたしの心を思いっきり串刺しにし、ズタズタに斬り刻んだ。
(でも、あれがあの人たちの本音なんだ。あの人たちにとっては、自分の考え方の方が常識的で当たり前で、あたしのことは世の中が見えていないただの馬鹿みたいに見えてるんだ。西田先輩も自分が絶対的に正しいと思っているからこそ、何の疑問も持たずあたしを見下す事ができるんだと思うし。根本的な考え方が相容れないから、理解し合うなんて多分、無理。あたしが妥協して漫研に馴染む努力をしないなら……できないなら、出ていくしかない)
実際、あたしも今の漫画研究部にうんざりし始めていた。
我慢してあの部に居続けるメリットなんて、何があるだろうか。
あんなグダグダしているばかりの漫研に通うくらいだったら、家に帰り一人で漫画制作をしていた方がよほど有意義だ。
昔の漫研ならともかく、今の漫画研究部に入部する価値なんてない。
そう――漫研には入部しない方がいい。
結論は分かっていたけど、それを受け入れるのは辛かった。
だってあたしは、星蘭の漫画研究部に入るのを楽しみにしていたから。
活気のある漫研に憧れて、わざわざ星蘭高校に入ったのだから。
(ああ……もう、何でこんなことになっちゃったんだろう……?)
高校の中では気丈に振舞っていても、一人になるとさすがに平常心を保ってはいられなかった。
はっきり言ってメチャクチャ傷ついていたし、涙を零さないようにするので精一杯だった。
モヤモヤして苦しいし、何より悔しい。
馬鹿にされる悔しさ、理解してもらえない悔しさ、そしてそれをはね返す事ができるほどの実力が自分にはまだない事への悔しさ。
あたしが漫画家志望でなかったら、漫画研究部のみんなともうまくやっていけるんだろうか。
あたしが『ガチ勢』であるが故に、漫研の空気を悪くしてしまったのだろうか。
そういう風に考えると、漫画家を目指している自分の方が間違っているような気がしてきて、余計に落ち込んだ。
大原部長の言う通り、一生懸命に漫画を描いているあたしの方が愚かなのだろうか。
そんな叶えられるかどうかも分からないような夢なんてさっさと捨て去って、現実的な選択をするのが賢い生き方なのだろうか。
考えれば考えるほど、どんどん自分が嫌になっていく。
必死になり、漫画に情熱を傾けてきたことも、全てが無駄で馬鹿馬鹿しく思えてくる。
こんな悶々とした気分のまま家に帰りたくない。
そこであたしは、しばらく外で時間を潰すことにした。
星蘭高校の近くには大きな川が流れており、その両岸にはきれいに整備された遊歩道が設けられている。
夕方になると星蘭高校の生徒のみならず、近所の子どもたちが遊んでいたり犬を散歩させる人の姿があちこちで見られ、多くの人の憩いの場となっているのだ。
あたしはその遊歩道をぶらぶらし、荒みきった気持ちが落ち着くのを待ってから家路についた。
(あー……何もしてない、漫画も描いていないのにメッチャ疲れた……)
家に到着した頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
漫画研究部でいろいろあったからか、足取りも我ながら疲れてトボトボしている。
母屋へ近づくと、中から中華っぽい匂いが漂ってきた。
スマホを取り出して時間を確認すると、いつもの夕飯の時間はとっくに過ぎ去っている。
(今夜の夕飯は回鍋肉かな。それとも餃子スープとか? 一緒にご飯を食べる決まりを破っちゃったから、壱夏ばあちゃん怒ってるだろうな)
溜息をつきつつ母屋に入ろうとしたが、その時、ふと離れが目に入った。
蒼ちゃんの住んでいる離れのアトリエに明かりが点いている。
ひょっとして――中に蒼ちゃんがいるのだろうか。
別に覗き込むつもりなんて無かった。
でもつい、その中に目が吸い寄せられてしまった。
蒼ちゃんのアトリエは離れの古い部分をうまく残し、新しく改装した古民家カフェのみたいなつくりになっている。
窓の一部は障子をそのまま残していて、わずかに開かれたその隙間から中の様子が見えたのだ。
しかし――。
あたしはドキリとして硬直する。
離れの中では、蒼ちゃんと立夏が一緒にいた。
二人とも肩を寄せ合い、とても楽しそうにお喋りしてる。
人目を憚る必要が無いからだろうか。母屋で皿洗いをしていた時より、ずっとずっと打ち解けていて幸せそうだ。
誰が見ても、二人がただならぬ仲であることが分かる。
あたしはひとりぽつんと真っ暗な中庭に立ち尽くし、ぼんやりとそれを見つめていた。
(……。結局さ、ああいう要領のいい子が最後に幸せを掴むんだよね。なりたい夢とか特に無くて、特別勉強ができるわけでも無くて、何となく日々をぼんやり過ごしている子が、それでもいつの間にか彼氏ゲットして普通の幸せを手にしていくんだ……)
そう考えた瞬間、激しい自己嫌悪に襲われた。
あたし、立夏と蒼ちゃんに嫉妬してる。
それはもちろん失恋が理由の一つだけど、今は違う。
漫画がうまくいってないから、漫画研究部で先輩たちとトラブってるから、だから二人のことが妬ましいんだ。
あたしはこんなに辛く苦しい思いをして頑張ってるのに、どうして他の人はあんなに幸せそうなの。
ずるい、卑怯だよ。
そういう自分の弱さを立夏と蒼ちゃんにぶつけているんだ。
それに気づいた途端、あたしは激しい徒労感に見舞われた。
あたしは、あたしはこんな醜い嫉妬心を抱くために、漫画を描いてるわけじゃない。
誰かを羨んで妬むために、漫画家になろうと思ったわけじゃない。
それなのに……!
そもそもあたし、何で必死になって漫画描いてるんだろ。
こんな惨めな思いをするために、頑張って来たんじゃないのに。
――ああ、馬鹿馬鹿しい。
辛いしシンドイし結果も出ないし、いい事なんて何にもない。
もう漫画なんてやめちゃおっかな。
そんな自暴自棄な考えさえ浮かんで来る。
そういう思考に陥ってしまう自分が嫌で、蒼ちゃんと立夏に嫉妬してしまう自分が嫌で嫌でたまらなくて、あたしは急いで母屋に入った。
壱夏ばあちゃんは案の定、帰りが遅くなったことを怒っていたけど、あたしはもはや弁明する気力すら残っていなくて、ご飯もそこそこに二階の自室へ戻ったのだった。
「漫画、描かなきゃ……」
そう思うものの、何もする気になれない。
体力は辛うじてあるけど、気力がなかった。
こんなくさくさした感情のまま、漫画を描くなんてできない。
結局、お風呂に入ったら更にどっと疲れてしまって、そのままベッドに突っ伏してしまった。
(あー、もうこれ駄目だ。身がもたないし、肝心の漫画も描けない。そんなんじゃ、意味がない……! 漫画研究部は諦めた方がいいのかも……。悔しいけど……すっごい辛くて悲しいけど……でも、このまま漫研にこだわっていたらあたしの心の方が壊れちゃう……!!)
星蘭高校に入学して二か月。
漫画研究部ではろくな活動をさせてもらえず邪魔ばかりされ、先輩と対立したり喧嘩したりしてばかりだ。
もう限界だった。
一日や二日ならまだいい。
これが年単位で続くだなんて、耐えられない。
漫画を描くのはただでさえ気力と体力がいる。
定期的に雑誌に投稿するならなおさらだ。
なのにその上、大原部長の無理解や西田先輩の理不尽と戦わなければならないなんて。
そんな余裕は、どこにもない。
それに、あたしが漫画研究部で西田先輩たちと対立することで、他の部員にも迷惑がかかるのがすごく申し訳なかった。
たとえば、床に散乱したあたしの画材を一緒に拾ってくれた、一年生の小坂さんと村瀬さん。
あの二人だって、本当は漫画研究部の活動を楽しみにしていたのだと思う。
でもあたしが西田先輩にいじめられ馬鹿にされているのを見るたび、居たたまれない表情をして怯え、縮こまっている。
あの二人の漫研活動を邪魔する権利は、あたしにはない。
自分のためにも、漫画家になるという夢のためにも、そして漫画研究部のみんなのためにも。
あたしは漫研にいない方が良いのだ。
認めたくはないけど、それがどうしようもない事実だった。
あたしはその日、中学生の時からずっと憧れてきた漫画研究部に入るのは諦めようと、強く心に決めたのだった。
どんなにしんどくても、翌日は学校だ。
あたしはヘロヘロの状態で家を飛び出し、星蘭高校へ向かった。
バスと電車を乗り継いでおよそ四十分。そろそろ慣れたと思っていたけど、混雑した公共機関はやっぱり疲れる。
落ち込んでいる時は余計にだ。
もみくちゃにされ、足が棒になりながらもどうにか高校に到着した。
けれど昨晩、しっかり寝ていないせいか、授業中も眠くて眠くて仕方がない。
それでも何とか六時限を乗り切り、下校時間を迎えた。
これでようやく家に帰って漫画に取りかかることができる。ここ二か月、漫画研究部に時間をとられてほとんど漫画制作に集中できなかった。
絶対にロスした分を取り返さなきゃ。
けれど不思議と、災難というのは重なるものだ。
「あーっ! 今日、図書委員の仕事があるんだった……!!」
星蘭高校では、クラスメート一人一人に各種委員会や学級委員、保健委員などの仕事が割り振られている。
委員会に従事しなかった生徒は、文化祭や体育祭の企画メンバーなどに回されるのだ。
あたしはじゃんけんに負けた結果、図書委員となり、既に全学年合同の図書委員会にも出席していた。
そして今週、図書室の受付の当番が回ってきたのだ。
一刻も早く家に帰って漫画を描きたかったあたしは、既に校門のところまで移動していた。
慌てて校舎に戻って靴を履き替え、図書室へ向かう。
図書室の受付には既に別の係の生徒が来て座っていた。
黒ぶち眼鏡をした、寡黙で真面目そうな男子生徒。
あたしと同じ一年B組の宮永大地という男子だ。
図書委員ということ以外に接点が無いこともあって、まだあまり話したことはない。
そのせいか、ちょっと冷ややかな印象を受ける。
宮永くんは遅れてきたあたしをちらりと一瞥した。
(う……何か、睨まれている気がするんですけど……。遅れてきたことを怒ってるのかな……?)
「あ……えっと、ごめん。遅れて」
慌てて謝ったけれど、宮永くんは何も言うことなく手元の本に目を落とす。
図書室の中はそれほど生徒がいるわけじゃない。本を借りる生徒に至っては皆無だ。
そんな中で受付をするのも暇だし、本を読んで時間を潰すことにしたのだろう。
宮永くんの様子を横目で窺いながら、あたしも受付カウンターの隣の席に座る。
(何を読んでるんだろ。うわ、字がびっしり……。結構ゴツいけど、本なんて読んで面白いのかな? ……ってうか、図書室の受付って思っていた以上に暇なんですけど、マジで時間がメッチャもったいない。でもさすがに、ここで漫画を描くのはまずいよね……?)
図書室の中は程よくざわざわしている。でも他の教室に比べればずっと静かだ。
一緒に勉強をする生徒に、調べ物をしている生徒。
でも、誰も本を借りようとはしない。
だったら受付がいる意味ってなくない?
まあ当番だし、そうする決まりだから仕方ないけどさ。
右手の壁に大きな円盤型の壁掛け式時計がかけられていて、秒針がゆっくりと時を刻んでいく。
すぐに家に帰って漫画を描きたい。
図書委員の受付時間はいつ終わるんだろう。
そんなことを考えれば考えるほど、焦りでじりじりする。
おまけに、何やら騒がしい一団か図書室に入ってきた。
めちゃくちゃ聞き覚えのある、けれど今は一番聞きたくない声。
(げっ……西田先輩とその取り巻きじゃん! 何であの人たちが図書室に……いつもは漫研の部室である第二美術室に入り浸りなのに!)
あたしの視線を感じ取ったのだろうか。西田先輩もすぐ、受付カウンターにいるあたしの存在に気づいた。
慌てて視線を外したけれど、もう遅い。
西田先輩はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、仲間を引き連れてこちらに近づいて来る。
「あれー、結城さんじゃん。何やってんの、こんなとこで」
そんなわざとらしい質問しなくたって、受付に座ってるんだから図書委員の仕事をしてるに決まってる。
分かり切ったことをわざわざ説明するのも馬鹿らしいし、何より迂闊に対応などしたらどんな目に遭うか。
この人たちとはできるだけ関わりたくない。だからあたしは素っ気なく答えた。
「別に……何をやってたっていいじゃないですか。西田先輩たちには関係ないことですし」
「……はあ? 何、その態度。部活動の先輩に、なに生意気な口きいてんのよ?」
「言い忘れてましたけど、あたし漫画研究部には入部しないんで。だからこれ以上、関わらないでもらえますか?」
すると西田先輩は無表情になって、すうっと目を細める。
「……ふーん。あっそ、入部しないんだ」
それから更に意地悪そうな目つきをすると、あたしの隣に座る宮永くんへ視線を向ける。
「こっちの男子、ひょっとして結城さんのクラスメイト?」
「そう……ですけど」
「ねえ、知ってる? こいつ漫画家を目指してるんだって! マジ、あたま悪すぎて笑えるよね。高校生にもなってさ!」
宮永くんにそう言うと、西田先輩とその取り巻きは大声でゲラゲラ笑った。周囲の注目を集めるような、わざとらしい笑い方だ。
宮永くんは困惑と迷惑が混ぜこぜになった表情をしている。
図書室の他の利用者も、不審そうにこちらの様子を窺っている。
それはそうだろう。
本来であれば私語を注意すべき図書委員が自ら騒ぎを起こしているのだから。
あたしは慌てて立ち上がった。あたしだけが危害を加えられるならまだしも、他の人に迷惑はかけられない。
「ちょ……やめてください! ここは図書室ですよ!? 他の利用している人たちにも迷惑じゃないですか!!」
ところが西田先輩は静かにするどころか、くわっと目を見開き、凄まじい剣幕で怒鳴り散らすのだった。
「そんなん知らねーよ! だいたい、あんたがウチの漫画研究部に来たせいでさ、部の空気がすんげー悪くなってんの、そっちのがよほど迷惑してたんだから! ウチらはゆっくりまったりしたいだけなのに、これ見よがしに漫画道具とかスケッチブックとか持ってきちゃってさ!! そんでさんざん漫研を荒らしに荒らしといて入部しない!? ふざけんなって話でしょ!!」