第26話 『常識』って面倒くさい①
それを聞いた蒼司は、柔らかく微笑んだ。
「……そう。立夏らしい答えだね」
「でも、自信が無いんだ。私が下手に動くと、余計なお節介になってしまうかもしれない。私は恋愛とかそういった事に明るくないから、こういう、仲を取り持つとかしたことが無いんだ。自分がやっていることが正しいのかどうか、分からない。だから悩んでるんだ」
私は悠衣や男鹿の友達だ。余計なことをして二人に嫌われたくないという気持ちもあるし、二人の関係がさらに悪化するようなことは絶対にしたくないという気持ちもある。
けれど一方で、このままでは二人が心配だという気持ちも確かにあり、いくつかの別の感情が私の中でずっと喧嘩しているのだ。だから、答えが出ない。
「こうしたらどうか」――そう思う事はいくつかあるが、すぐに他の感情が、でもでも、だってだってと、議論を蒸し返し、問題をゼロ地点へ戻してしまう。
それを聞いていた蒼司はふと、ぽつりと呟いた。
「正解なんてないよ」
「え……?」
「世の中の大半のことに、正解や不正解はない。善悪や正邪が一目瞭然なのは、ほんの一握りの事柄だけに過ぎないんだ。僕たちが正しいとか間違ってるって勝手に決めつけ、争っていることの殆どは、実は単なる好き嫌いだったりする。だからそんな事、いくら考えたって無意味だよ」
また、やけに小難しいことを言う。蒼司のくせに。私はむっと押し黙り、非難交じりに唇を尖らせた。
「すいぶんとはっきり言うんだな。お前はそれでいいかもしれないが……そんなこと言われたら、私はますますどうしていいのか分からなくなる」
蒼司の言う事は正論かもしれない。この世の殆どのことは概ね『善悪』でなく『好き嫌い』であり、私たちはみな、およそ無意味な論争を繰り広げているだけなのかもしれない。けれどそれを教えられたところで、私の悩みが解決するわけでもないのだ。
ついついそんな愚痴が漏れてしまうが、蒼司はそんな反論など織り込み済みらしく、柔らかく微笑むのだった。
「僕はね、立夏のしたいようにすればいいと思うよ」
「私のしたいように……? 私のことじゃないのにか?」
「僕はその二人のことを詳しくは知らないし、正直に言ってあまり興味もない。そもそも、立場的にも詳しく知らない方がいいだろうしね。でも、立夏のことはそれなりによく知ってつもりだよ。
……僕の知る立夏は、適当な対処をしてお茶を濁そうなんて無責任な性格じゃない。いつも周りをよく見てるし、真剣に相手のことを考え、相手の立場になって相手のためになるように動いてる。おまけに、大切な人を守るためなら、戦う勇気も持ち合わせている。考え方も僕よりよほどしっかりしてるしね。その立夏が、話し合って欲しいと思うなら、きっとそうするのがいいんだよ」
どうやら蒼司は、私が漫画の主人公という仮定で現実の人間関係の相談をしていたのだという事を、とっくに気づいていたらしい。もしかしたら、最初から気づいていたのかもしれないけど。その上で、好きにするといいと言ってくれているのだ。
「……。えらく私のことを評価してるんだな。何だか、恥ずかしいじゃないか」
照れくさくて、もそもそと答えると、相変わらず蒼司は妙な確信に満ちた口調で断言する。
「だって、僕が好きになった女の子だもの。正しい方法がどれかなんて、きっと僕にも分からない。
でも、僕は立夏のことを信じてるから……立夏がしたいようにしたらいいと思う。もし失敗したら、その時は愚痴くらいなら聞いてあげるよ」
「何だそれ。全く当てにならないアドバイスだな」
私はひどく呆れたが、同時にその言葉に励まされてもいた。
正直なところ、今回の騒動には私も多分にうんざりさせられていた。森本杏奈が廊下で悠衣を貶めたのは、絶対に許せない事だ。連中がもう一度同じ事をやらかしたら、私は拳を使ってでもそれをやめさせてやる。学校とか先生とか、そんなこと関係ない。
だが――どれほど戦ったとしても、森本杏奈は自分たちが悪いとは決して思わないだろうと思うのだ。
現に彼女たちは、蒼司にお灸を据えられても悠衣や私には一言も謝らなかった。悪い事をしたのだとは、微塵も思っていないからだ。彼女たちが撤退したのは、自分たちの恥まで晒されてしまい、これ以上、私たちとやり合うのは損だと判断したからであって、自らの考えを改めたからではない。そもそもの問題として、森本杏奈の『常識』と私たちの『常識』が違うからだ。
私にとっての『常識』は、恋は育むものでありこそすれ、他人から奪うものではないという事だ。私がもし告白をしたとして――そんな時が来るかどうかは、さておき――相手に好きな人がいると分かったら。そしてそれを理由に告白を断られたら、大人しく引き下がると思う。悲しいし悔しいけど、強引にくっついたところで良い事なんて無いと思うからだ。
それに私がもし恋をしても、SNS上でそれを日記にしたりポエムにしたりなんてしないと思う。だってそんなの恥ずかしいし、たとえ匿名であっても相手に迷惑が掛かってしまうかもしれない。だから、しないものはしない。それが私の中の『常識』だ。でも、森本杏奈の『常識』は違う。
彼女にとっての『常識』とは、恋愛成就という目的を叶える為にはどんな手段でも用いることだ。ただ恋愛成就といっても、どういった恋でもいいというわけではない。彼女にとって最も大事なのは自分が周りにどう見られているかであり、相手の男性の一般的イメージやランク、そしてつき合う事で得られるメリットデメリットなどを、事細かに計算尽くしている。そうして弾き出した理想の相手とつき合う事が最上の喜びであり、最大目的なのだ。
もちろん、相手の男性が何かヘマをやらかして、社会的ランクが下がるようなことがあれば、即行で相手を乗り換える。そうして、常に『最上』の相手とつき合い続けることで、自分の価値をも高めようとしているのだろう。
森本杏奈にとっては、そのように行動することが『常識』なのであり、彼女の『常識』の前では私や悠衣なんて邪魔者であるどころか、利用しがいのある都合の良い悪役でしかないのだろう。
そして、それは森本杏奈に限った話ではない。私の中にある『常識』と蒼司の中にある『常識』も全然違うし、他の人もきっと、みなそれぞれ違う『常識』を持っている。
そこでいうところの『常識』とは『価値観』にも似ているが、それよりももっと強固で絶対的なものだ。でも、普段は水や空気と同じで、みな『常識』の違いを意識せずに生きている。多分、個人の中の『常識』とは別に、社会的な『常識』が存在していて、みんな何となくふんわりと両者を混同しているからではないかと思うのだ。
「私の『常識』は社会の『常識』、社会の『常識』は私の『常識』」――誰もがみな……そして私だって多分、心のどこかでそう思ってる。そして平素であれば、個人の『常識』と個人の『常識』、或いは社会の『常識』が互いにぶつかったとしても、丁寧に修正をする余裕があるのだろう。
普段はそれでもいい。問題があっても、修正したり妥協したりすれば、それほど大ごとにはならないから。でも、いざ何かトラブルが起こると、個人の中にあるそれぞれの『常識』と社会的な『常識』、それらいくつもの『常識』が揉みくちゃになって激しい火花を散らしてしまう。
そして、普段はみな水や空気のように、疑いもせずそれが当たり前の『常識』だと信じているが故に、『常識』の衝突は『価値観』の衝突などとは比べ物にならないほどの軋轢と分断を招くのだろう。
おまけに、各自が自分の『常識』を社会的な『常識』だと同一視しがちなものだから、余計に性質が悪い。私の方が正しい、お前の方が間違ってる。何故なら、私は『常識』的な行動をしているのだから――と、なりがちなのだ。
でもその『常識』は多分、私たちが各自で思ってるほど『当たり前』じゃない。蒼司の言った通り、善悪や正邪で簡単に判断がつくことではないし、本当は根拠なんて何もないのかもしれない。