第14話 事の始まり
次の日、私はいつものように虹ヶ丘高校へ登校すると、1‐Bの教室へと向かった。
扉を開け、教室の中に一歩踏み込む。それも、いつもと全く同じで、そのまま真っ直ぐ自分の席へと向かうつもりだった。
けれど、教室に入った瞬間、私は気づいてしまった。いつもと何かが違うことに。
机の配置が違うとか、黒板の位置が違うとか、そういったはっきりとした変化じゃない。一見した風景は全くいつも通りの教室なのだけど、確かに何かが違うのだ。
何がいつもと違うんだろう。私は教室を見回してすぐにその原因に思い至った。違和感の正体はクラスメートだ。
同級生たちはみな、朝の時間はいつもそれぞれ親しいグループで集まって談笑したり、授業のノートを見せ合ったりするのが習慣となっている。
今日もグループごとに固まっている光景は同じなのだが、何だかそわそわと不自然に浮足立っていて、まるで内緒の話をしているみたいに、小声で何事か囁き合っているのだ。
見ているこっちも落ち着かなくなってくるような、抑えようとしつつも興奮が隠しきれないという、そわそわした雰囲気。
単純にいい事があったわけではないようだけど、不安におののいているというかんじでもない。どちらかと言うと、やってはいけない悪戯を共有し合って盛り上がっているような、そういう空気を感じる。
何かあったのは間違いないのだろうけど、一体、何があったのだろう。
ともかく私は、自分の席に向かい鞄を置いた後、悠衣の元へ向かった。
ところが、他の生徒が浮足立っているのに比べ、悠衣の表情は暗く沈み込んでいるように見えた。私が毎朝近づくと、いつも悠衣の方から話しかけてくるのに、今日は私の存在さえ気づいていないみたいだ。
「うっす」
声をかけると、悠衣はようやく私の方を見上げた。
「ああ……おはよ、りっちゃん」
しかし、その反応もやはり鈍く、いつもの太陽みたいな明るさが全く無い。私は心配して、悠衣の顔を覗き込んだ。
「悠衣、何かあったのか? 元気ないぞ」
「ううん、大したことじゃないんだけど……」
「そうなのか? 何か悩んでいることがあったら、いつでも言ってくれ。力になれるかどうかは分からないけど……できるだけ協力するから」
すると悠衣は、ようやく少しだけ笑顔になる。
「やだなあ、本当に大丈夫だから。でも……ありがと」
その笑顔もやっぱり弱々しくて、悠衣が無理して笑っているのだという事は明らかだった。教室のこの異様な空気といい、いつもの元気が抜けきってしまった悠衣といい、一体どういうことなのだろう。
昨日まではどこもおかしいところは無かったのに。たった一晩ですっかり様変わりだ。私にはさっぱり訳が分からない。
「それにしても……みんな、やけに盛り上がってるな。昨日のテストのこととか、近々予定されている宿泊研修のことっていうわけでもなさそうだし。一体、何があったんだ?」
「……」
悠衣に尋ねてみたが、返って来たのは無言の返事だった。不審に思って悠衣の方へ視線を向けると、何か思い詰めたような表情をし、唇を引き結んでいる。私は驚いて更に質問を重ねた。
「悠衣、何か知ってるのか?」
しばらく経ってから、悠衣は重い口を開く。
「……男鹿がね。告られたんだって、昨日。A組の女子に」
「昨日……?」
「ほら、テストが終わったあと、男鹿は誰かに呼び出されてたでしょ? あの相手がA組の女子だっ
たんだって」
確かに昨日、男鹿は他クラスの人間に呼び出されていた。相手の姿は扉に阻まれてよく見えなかったし、男鹿は男子の友達が多いから、てっきり呼び出した相手も男子だろうと思っていたけど、実際には女子だったのか。
(そういえば、渡り廊下で会った時、男鹿の様子は明らかにおかしかったな。突然、告白されて動転していたのか……)
今になって思い返すと、腑に落ちる事ばかりだ。
男鹿はA組の女子に呼び出され、突然、好きだと告白された。その舞台が渡り廊下だったのか、それとも告白の後に男鹿が一人で渡り廊下へ行ったのか。どちらかは分からない。
とにかく、A組の女子からの電撃的告白に動転した男鹿は、あの風通しのいい廊下で、ぼうっとした頭を冷やそうとしていたのかもしれない。
ところが運悪く、私たちがそこを通りがかってしまった。男鹿が渡り廊下で私たちを避けたのは――厳密に言うと悠衣を避けたのだろうが――おそらく、他の女子から告白されたことを知られたくなかったからだ。
「でも、何で昨日の今日で、その事がこんなに広まっているんだ? 男鹿が自分で喋ったのか?」
見たところ、クラスメートのほぼ全員が、既にその告白の件を知っているように見える。いくら狭い教室の中の出来事とはいえ、みんなで一斉にその事を話題にしているのは、どうも違和感がある。
すると悠衣は、小さく答えた。
「ううん、違うよ。そもそも男鹿は、そういう事を軽々しく言い触らしたりする性格じゃないし。……広めたのは、A組の女子の方だよ。男鹿に告白したA組の女子が、自分でSNSに書き込んだんだって。B組の男鹿くんに告白した、ドキドキしたって。全部、実名で書かれていて、すごくリアルっていうか……詳しい状況や自分の心情を、かなり赤裸々に書き込んでいたみたい。それをうちのクラスの生徒が見つけて共有し出して……それで、あっという間に広まったの」
「A組の女子が……? 自分で?」
私はスマホやパソコンを持っていない。だから、そんなことになっていたとは、全く知らなかった。
それにしても、高校生にもなって、自分のプライベートをSNSに書き込む奴がいるのか。あまりにも不用心すぎやしないか。
ただでさえ高校生の交友関係は狭い上、SNSは校外の人間の目に留まることもあるわけで、そういった事を大っぴらにすることはかなりのリスクを伴うのではないかと思うのだが。それくらい、今どき小学生でも知ってる常識だ。
(蒼司と同じくらい、開けっぴろげだな。そういう人って、私が思っているよりたくさんいるものなのか……?)
自分とは違う感性や常識を持った人間が、この世には多くいるということは、それなりに理解しているつもりだ。
世の中には、まず物事のリスクに目を向ける人間もいるが、そういった人ばかりでもないし、誰かを好きになった事を他の人と共有したいという人々も、私が思うよりずっとたくさんいるものなのかもしれない。
だから、そういった人たちのする事に関して、あれこれ言うなんて野暮なことはしないつもりだ。でも、私の常識とはあまりにも乖離しすぎていて、言葉を失ってしまう。
何ていうか……ぶっちゃけ、どう反応していいか分からない。その事実を聞かされても、正直、「へ、へえ……」みたいな感想しか湧いてこない。
(いや、私の感想なんて、そんなもん、どうでもいいんだ! 今はそんな事よりも! ……悠衣は平気なのか? 悠衣だって男鹿の事が好きなはずなのに……!)
見たところ、悠衣は表面上、辛うじて平静を装っているように見える。でも、いつもよりずっと顔色が悪い。表情が暗いだけではなく、血の気を失って青ざめているようにすら見える。激しい衝撃を受け、動揺しているのは明らかだ。
それを見ていると、私の胸もギュッと締め付けられるようだった。
悠衣と男鹿は、せっかくうまくいきかけていたのに。
そりゃ、うまくいって欲しいという私の一方的な願望も入っているかもしれないが、悠衣が過去を乗り越えかけていたのは事実なのに。これでは最悪、元の木阿弥になってしまうのではないか。
昨日、渡り廊下でぼうっとしている男鹿を見て、何となく嫌な予感がした。まさか、こうもドンピシャで的中してしまうなんて。
「悠衣、あまり気にするな。男鹿の気持ちがどうかなんて、まだ分からないんだし」
それが、慰めの言葉としてはやや説得力に欠けるのは分かっていた。でも、他に言葉が思いつかなかったのだ。我ながら、情けない。悠衣は蒼白なまま、幾度か瞬きをする。
「そんな……あたしには男鹿の事を気にする資格なんて無いよ。男鹿が誰の事を好きで誰と付き合うかなんて、男鹿自身が決める事なんだし」
「でも……!」
ところが、私が口を開きかけたその時、クラスの女子が四人ほど集団になって、私と悠衣に近づいてきた。
やけに嬉しそうな目元に、今にも開きたくてうずうずしている口元。どの顔も、下卑た好奇心と高揚を隠しきれていない。
私は彼女たちの、やたらとはしゃいだ顔を見てムッとしたが、四人は集団の力に任せ、私を悠衣の机の前から押しのける。そして、べちゃっとした声音で悠衣に尋ねるのだった。
「ねえ、姫崎さん。男鹿くんとA組の女子のこと、知ってるぅ?」
「……。うん、知ってるけど」
悠衣の返答は素っ気ない。誰が見ても、この話題を嫌がっていると分かる反応だ。けれど、女子たちの追及は執拗だった。まるで、自分にはその権利があるとでも言わんばかりだ。
「へえぇ、知ってるんだあ? 姫崎さんってさあ、男鹿くんのことどう思ってるのぉ?」
「どうって……」
「あたしたち、姫崎さんは男鹿くんのことが好きなんじゃないかって話してたんだよね。だって、クラスでもすごく仲が良いし。てっきり、陰でつき合ってるんじゃないかって話してたんだよね。だからこんなことになって驚いちゃって。ねえ?」
「そうそう! 絶対ふたり付き合ってるって思ってたよね~!」
それを聞いた悠衣は、蒼白な顔を更に蒼くし、慌てて強い口調で反論をする。
「そ、そんなワケないじゃん! あたしと男鹿はそういう関係じゃないし」
「えー、そうなの?」
「めっちゃイチャイチャしてたのにー?」
「それは、男鹿が足を怪我してたから、手を貸しただけで……先生もいるのに、学校でイチャつくわけないじゃん!」
けれど、女子たちは全くそれを信じていない。というか、そもそも聞く気もないようだ。
「ええー、ホントにぃー? 信じられなーい!」
「姫崎さん、何か隠してないよねー?」
「そうだよー。いいじゃん、ホントのこと教えてよー」
女子たちの口調は軽いけれど、視線といい口調といい、執拗な追及姿勢は決して崩さない。まるで蛇のように絡みつき、締め付けて吐き出させようとしているみたいだ。
本当の事を言いなさいよ。私たちには、あなたの本性なんてお見通しなんだから。何故か、そういった絶対的な確信を抱いているようにさえ見える。
どうしてそこまで追求するのだろう。その違和感に、悠衣も気づいたようだ。
「……どうしてそんなに疑うの?」
警戒した声音で尋ねると、女子たちは互いに顔を見合わせ、「だって、ねえ」などと、目配せし合う。それから、ふふんと自信たっぷりに、悠衣に向かって顎を突き出した。
「だってぇ、あたしたち姫崎さんが中学生時代、男関係そうとう派手だったって噂を聞いちゃってさー。本当かどうか知らないけど、そういう噂があるってだけでかなりヤバいっしょ? 普通じゃないよ」
「そうだよねー。ほら、姫崎さんって実際、あか抜けてるところあるし。……あたしたちより? そっち方面、相当進んでそうじゃん?」
そして、女子たちはキャハキャハと笑い声をあげる。
どこでその事を。私は忌々しさのあまり、ついうっかり口の中で舌打ちをしてしまった。人づてに聞いたのだろうか、それともSNSで……?
いや、それを追求したところで意味はない。この時代、その手の噂を完全に消し去るなど、もはや不可能に近いだろうから。
(悠衣……!)
悠衣の顔から、さあっと血の気が引いたのが分かった。もともと青白かったのに、更に血の気が引いて、今にもその場で倒れてしまいそうだ。
それはそうだろう。彼女たちにとっては何気ない茶化しでただの笑い話だったとしても、悠衣にとっては辛く苦しい記憶を呼び覚ます事案なのだ。
おまけにこういった根も葉もない噂を取り沙汰されることを、悠衣は何より嫌っているのに。
私はさすがに見かねて、四人の女子たちの言動を咎めようとした。ともかく、こいつらをとっとと悠衣の傍から追い払わなければ。