第7話 気になるアイツ
三時限目の授業がつつがなく終わり、続く四時限目は地学だ。ただ、教室が別なので、移動しなければならない。
生徒は各々、教科書やノート、筆箱を手にし、地学室へと移動していく。私と悠衣は手洗いに行った後、一緒に教室移動を始めた。
すると、階段のところで男鹿が立ち止まっているのが見える。どうやら筆記用具を廊下に落としてしまったようだが、足を負傷していることもあり、うまく拾うことができないでいるようだ。
右手の松葉杖で体重を支え、おまけに教科書やノートも抱え、左手で筆記用具を拾おうとしているが、なかなかに危うい体勢だった。
それを目にした悠衣は、一瞬、足を止める。振り返ると、悠衣は何か葛藤を抱えているように見えた。動きたいのに、動き出せない――そんな表情だ。私は悠衣の気持ちを察して、声をかけた。
「……一緒に行こう」
「え……?」
「男鹿の事が気になるんだろ? 手を貸したいなら、そうすればいい。こんな時だ。周りの目なんて、気にすること無い」
「でも……」
「私も一緒だから、実際にはそういう目で見られることも無いと思う。慎重になるあまり何もしなかったら、あとで後悔するかもだぞ」
悠衣は私が体育の授業で怪我をした時も、あれこれと手を貸してくれた。本来、そういった事が気になる性格なのだろう。
けれど男鹿は男子だから、あまり親しげにしていると周りにあれこれと邪推されるのではないかと悠衣は恐れている。だから動き出せないのだ。
そんな小さなこと、気にすることなんか無いのに。そう言ってしまうのは簡単だが、悠衣にとっては大きな勇気を必要とする事なのだ。
私がそう告げると悠衣は、少しだけ考え込むように瞳を伏せた。けれど、すぐに決意が固まったのか、再び視線を上げる。
「そう……だよね。うん。ありがと、りっちゃん」
悠衣はそう言うと、すぐに男鹿の元へ駆け寄っていった。そして、微妙な体勢を続け四苦八苦している男鹿の代わりに筆記用具を拾う。
「はい、筆記用具」
男鹿もすぐにそれに気づいた。地味に困っていたのか、嬉しそうに破願して悠衣から筆記用具を受け取る。
「お、サンキュ。まだ慣れてないっつーか……いろいろ難しくてさ」
「一人? 入江はどうしたの?」
「何か、英語のライティングの課題が未提出だとかで、職員室に呼ばれたんだと。あいつ、入学してから既に二回も課題の提出を忘れてるから、早々に呼び出し食らったんだよ」
それを聞いた私は、思わず顔をしかめた。
「え……ライティングって内藤先生だよな? 内藤先生って、課題とかにはすごい厳しいって有名だけど。入江は大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃねーよ。呼び出された途端、すんげえ青い顔して、すっ飛んで行ったし」
悠衣も呆れ半分に言った。
「入江って、おっちょこちょいなのか度胸あるのか、分からない時あるよねー。私なら、内藤先生に呼び出されるくらいなら勉強するって思うけど」
「俺も、ライティングだけはちゃんと予習と復習してるわ」
そんな笑い話をひとしきり交わした後、悠衣が男鹿にある提案をする。
「松葉杖、大変そうだねー。教科書、貸して。持ったげる」
「いや、いいって。悪いし」
「別にこれくらい、遠慮しなくていいよ。そんな大したことじゃないし。地学教室まで一緒に行こ。りっちゃん、それでもいいかな?」
「私は全然、構わないぞ」
すると男鹿は、いたずらっ子のような笑みを浮かべるのだった。
「マジで? 何か、打撲して得したって感じだな」
「何言ってんの、怪我なんてしないに越したことはないよ」
「いや、それは分かってんだけど。姫崎とか結城が、やたらと優しいからさ」
「私もりっちゃんも、もともと優しいけど? ひょっとして今まで知らなかった?」
「いえいえ、もちろん知っておりますとも~」
「それなら、よろしい」
悠衣と男鹿は、やたらと芝居がかった口調で軽口を言い合った。そういったノリには、互いに慣れている様子だ。何だかおかしくて、私はつい笑ってしまう。
「え、どうしたの、りっちゃん?」
「いや、息がぴったりだなと思って。悠衣も男鹿も、同じ中学の出身なんだよな?」
「そうだな。あと入江も同中だけど」
「りっちゃんの同中は、虹ヶ丘高校にはいないの?」
悠衣にそう尋ねられ、そういえば、と私も気づく。中学時代の友達とは、進学先が違うなどしてほぼ離れ離れになってしまっている。おまけに、私が携帯やスマホを持っていない事もあり、高校生になってからは殆ど連絡を取りあっていないのだ。
「同じ中学だった奴は、うちのクラスにも何人かいるけど、仲の良かった友達は一人もいないかな。みんな他のクラスだったりして、顔を知ってたっていう程度。それを考えると、悠衣たちのケースはすごく珍しいよな」
私がそう言うと、男鹿はわざとらしく肩を竦めた。
「おかげで、すっかり腐れ縁だぜ。これで大学まで一緒だったら、呪われてんじゃねーかっていうレベルなんですけど」
「それはこっちのセリフ! だいたい大学なんて、そんな先の事まで、まだ決めてないし。進学先だって、高校受験の時とは違ってぐっと広がるんだから、どうなるかは分かんないよ」
悠衣の言う事も、もっともだ。というより、大学進学後は余程のことがない限り、離れ離れになる確率の方が高い。何せ俵山は田舎だから、地元を離れて県外の大学に進学したり、就職したりする者が圧倒的に多いのだ。
いくら男鹿と悠衣に、腐れ縁の呪いが掛けられていたとしても、卒業後の進路はさすがに別々だろう。
けれど、悠衣はそれをあまり喜んでいないように見える。むしろ、その時が来るのを恐れているような――私の気のせいだろうか。
ともかくも、私たちは地学教室を目指した。しかし、男鹿は松葉杖を突いているため、移動がどうしても遅くなりがちだ。特に階段の上り下りは、まだ不慣れなようで、動きもぎこちない。
それでも、休憩時間の終了ギリギリで、どうにか地学教室に辿り着く。
授業開始に間に合ったことにほっとしながら、それぞれ席についていると、すっかりしょげ返った入江が、授業の開始寸前で地学教室に入って来た。その様子から察するに、どうやらライティングの内藤先生に、こってり絞られたらしい。
入江は自分の席に着くと、そのままエネルギーが切れたかの如く、机に突っ伏してしまった。
まだ授業はこれからだというのに、大丈夫か? 余りの惨状に、私もつい同情してしまうが、まあ、課題を提出しそこなった入江にも非はあるから仕方がない。それから程なくして、地学の担当教官が準備室から顔を覗かせる。
やがて、その地学の授業も終わり、私たちは再びⅠ‐Bの教室に戻った。それで午前中の授業は全て終了し、いよいよ待ちに待った昼休憩だ。
昼休憩を迎えた教室の中は、授業の緊張感から解き放たれ、リラックスした空気に包まれた。あちこちで生徒がグループを作り、弁当を広げたり売店などで買ったパンを食べたりしている。
私もいつものように、悠衣の席まで行って一緒に弁当を食べることにした。悠衣の隣の席は男鹿で入江も一緒に弁当を食べるから、私たちは自然と四人で昼食を取るような格好になる。
「あー、今日はさんざんな目に遭ったぜ……」
小柄な体格に似合わず、結構ごつい弁当箱を広げる入江は、すっかり半泣き状態だ。
「男鹿に聞いたんだけど、課題を提出し損ねて内藤先生に呼び出されたんだってね。お疲れさま」
「その様子だと、しこたま怒られたみたいだな。内藤先生って、やっぱ相当、怖いのか?」
悠衣と私が順にそう応じると、入江はその時の記憶が甦って来たのか、顔を青ざめさせる。
「いやあ、怖いっちゃ怖いけど……何つーか、お前らの考えてる怖いとはちょっとベクトルが違うぞ……」
「どういうことだよ? めっちゃ大声で怒鳴られるとか?」
入江と同じく、やたらごつい弁当の白米を口に運びながら、男鹿が尋ねる。
「それなら、まだいいんだ。中学ん時にもそういう先生って結構いたし、こっちも慣れてるからさ。内藤先生のブチギレモードは、それとはちょっと違うんだよ。先生の場合、淡々と質問攻めにしてくるワケ。『どうして課題を忘れたのですか?』、『私は今日が提出日だと、事前に説明していた筈ですよね』、『まさか、それを聞いていなかったのですか?』、『聞いていたなら、なぜ忘れたのですか?』、『そもそも、あなたは課題を忘れたことに対してどう考えているのですか?』、『悪かったと思っているなら、どうして何度も同じ過ちを繰り返すのですか?』……こんな調子で、ずーっと質問攻めにしてくるんだよ……!」
入江は、その時の状況を思い出したのか、ぐったりと肩を落とした。どこかから、『ちーん』という効果音が聞こえてきそうだ。そして、しおれた様子で話を続ける。
「こっちもさ、最初は『あーいや、実は……』とか、『いやー、ちゃんとしようとは思ってたんですけどね~』とか、言い訳の数々を用意してどうにか追及を免れようと画策するんだよ。でも、内藤先生は決して追及の手を緩めず、感情的にもならず、じわじわと冷静に、確実に追い込んでくるんだ! だんだん言い訳のネタが無くなってきて、最後には『あ、はい。そっすね……。仰る通りです』、『すんません、もう二度としません』の二つしか答えられなくなる……! あれは恐怖だぞ、想像を絶する恐怖だ!!」
私は何となくその様が想像できてしまった。そもそも内藤先生は、細身で背が高く、細淵眼鏡をかけた男性の先生だ。決して高圧的というわけではないのだが、滅多に笑わず、授業中に冗談を言う事もない。
授業そのものは割と分かりやすいし苦痛というわけでもないが、生徒からすれば、ちょっと何を考えているのか分からないところがある。二人きりになったら、何を話していいのか分からない。中学校にはいなかったタイプの先生だ。
「うわぁ……」
確かに、それは辛かっただろう。特に入江みたいな、ノリと勢いで生きてるタイプには、理詰めの説教は堪えるにに違いない。私が思わず同情の声を漏らすと、男鹿や悠衣も苦笑した。
「それは……確かに怖いな。俺もそういう静かな怒り方してくる人って、かなり苦手かもしんねえ」
「私も……内藤先生は絶対に怒らせないようにしよう……」
そういえば、壱夏ばあちゃんもそういうタイプだ。口調はぴしゃりとしているけど、言うことはいつも筋が通っている。感情的になって喚き散らすところは殆ど見たことがない。だからこそ、適当な言い訳が全く通用しないのだ。
それを考えると、怒るというのも一つの技術なのかな、と思う。もっとも、やり過ぎると怒られる方に逃げ場がなくなってしまって、限界まで追いつめられてしまうのだけれど。
男鹿は、鬼火をまとわせている入江を元気づけようと、明るい調子で話題を変える。
「まあ、あれだ。入江も大変だったとは思うけど、少しは楽しい話をしようぜ」
すると悠衣は首を傾げた。「楽しい話って、例えばどんな?」
「そうだな。例えば、宿泊研修のこととか」