第6話 突然の負傷
次の日の朝、私はいつものように起床して家で身支度を終え、蒼司の作ってくれたお弁当を鞄に詰め込んでから、自転車を漕ぎつつ虹ヶ丘高校へ登校した。
一時限目の科目は、苦手な数学だ。それを思うと頭上から憂鬱がぱらぱらと降って来て、肩のあたりに薄っすらと降り積もるような感覚になる。けれど、どうにかそれを払いのけると、気を取り直して教室に入った。
そしてクラスメートに「うーっす」などと声をかけつつ、自分の席に鞄を置くと、さっそく悠衣の席へ向かった。すると、悠衣はいつもの明るい調子で笑いかけてくる。
「はよ~ん、りっちゃん!」
「うーっす、悠衣。今日もいい天気だなー」
「ほんとにねー。だんだん暑くなってきてし、あたし電車通なのに汗かいちゃった」
「このまま、あっという間に梅雨が来て、夏になっちゃうんだろうな」
「ちょっと待って! その前に、中間テストがあたしたちの目の前に立ちはだかっているんだよ、りっちゃん……! それを乗り越えないと、怖ろしいことに夏はおろか、梅雨も宿泊研修も来ないんだよ……!!」
「おおう……! そのことは、今はまだ思い出させないでくれ、頼むぅぅぅ……!!」
などとふざけ合いながら話していると、入江が教室に入って来た。そして、クラスの友達と談笑しながら、真っ直ぐにこちらへやって来る。入江の席は、悠衣の左斜め前なのだ。
サッカー部は毎日、朝練があり、登校自体は早いそうなのだが教室に来るのは遅い。ただ、いつも入江は男鹿と一緒なのに、今日は何故だか男鹿の姿が見えなかった。
珍しく、喧嘩でもしたのだろうか。悠衣もすぐにその事に気づいたようで、訝しそうな顔をしている。
「うっすー」
入江から声をかけられた悠衣は、すかさず尋ねた。
「おはよ。男鹿はどうしたの? いつも一緒なのに」
すると、入江は顔をしかめ、どことなく不安そうに話し始める。
「ああ……うん。男鹿のやつ、昨日、部活の最中に怪我をしたんだ。けっこう歩けなくなるほどひどくて、部活を早く切り上げるほどだった。一応、大事を取って病院に行くって言ってたけど」
「え、怪我って……そんなに深刻なの?」
「大丈夫なのか?」
悠衣と私は、驚きのあまり揃って声を上げた。男鹿は小学生の時からサッカーをやっているというだけあって、運動はかなりできる方だ。四月にあったスポーツテストの成績も、いくつもの種目で学年の上位を占めていた。
その男鹿が足を怪我するなんて。入江も男鹿を心配しているのか、いつもの無邪気な元気さがない。
「朝、SNSで連絡取ったら、昨日は病院が既に閉まってて間に合わなかったらしい。だから、今日の朝イチで受診してから登校するって言ってたぞ。多分、遅刻することになるんじゃね?」
それを聞いた悠衣は、瞳を伏せる。「……。そう……」
「大した怪我じゃないといいけどな」
私も心からそう思った。男鹿は毎日、真面目に部活動をしている。虹ヶ丘高校のサッカー部には朝練があって、夕方も遅くまで練習があるが、男鹿がそれをサボったりするところなど見たことがない。よほどサッカーが好きなのだろう。
それなのに、足に怪我を負ってしまったら、そのサッカーができなくなってしまうのではないか。
入江や悠衣とそんな話をしていると、担当の先生が教室にやって来て、朝礼が始まった。
出席を取り終わり、連絡事項を告げられ、五分休憩を挟んで一時限目が始まった時も、やはり男鹿は教室に姿を見せなかった。
「男鹿、来ないね……。そんなに怪我がひどいのかな」
一時限目の数Aの授業が終わったあと、悠衣はぽつりと呟いた。
「確かに、これだけ遅いと心配だ」
私が相槌を打つと、悠衣は突然ハッとし、慌てて首と両手を同時にわたわたと横に振った。
「うん……っていやいや、違うよ? 別にすごく気になるとか、メッチャ心配してるとか、そういう訳じゃないんだけど……!」
悠衣は何故だか必死でそう弁明した。もっとも、そうは言いつつも男鹿のことは気になるらしく、誰かが教室を出入りする度、扉の方へしきりと視線を向けている。
しかし、どれだけ待ってもやはり男鹿は姿を現さない。
やがて二時限目の英語の授業が始まった。リーディングはライティングよりは得意だから、その分、私の気も楽だ。けれど、やはり英語の時間内にも、男鹿は学校に来なかった。授業が終わってから悠衣の元へ向かったが、見るからに元気がない。
「男鹿、ついに来なかったな」
「……。うん……」
私が声をかけても、言葉少なにそう答えるだけだ。
男鹿はもう、今日は学校に来ないのだろうか。それほど、怪我の具合が悪いのか。
嫌な予感が脳裏を掠めたその時、ガラッと教室の扉が開いて、当の男鹿が教室に入って来るのが見えた。
ただ、明らかにいつもとは様子が違う。男鹿は片方の足は上靴だけど、もう片方の足はスリッパで足の甲まで包帯が巻かれていて、おまけに松葉杖をついていた。教室の中は俄かに騒然となる。
「うーっす」
「おう、男鹿。遅かったなー。って、何だよ、松葉杖じゃん!」
「足を怪我したとは聞いてたけど、ヤバくね? 事故?」
「あー、昨日、部活の練習試合中に接触して、転倒してさ。事故っちゃ事故かな」
男鹿は、教室の入口にたむろしていた男子のグループと、そんな会話を交わしている。本人は思ったより元気そうで、さほど精神的ダメージも受けていないようだ。私は悠衣や入江と共に、教室の入口にいる男鹿に駆け寄った。
「男鹿ぁ! お前、松葉杖って超やべえじゃん。めっちゃ大怪我じゃねーか!」
入江は男鹿がここまでの怪我を負っていることは知らなかったらしく、大袈裟な身振りで声を張り上げた。私と悠衣も、男鹿を質問攻めにする。
「その足……大丈夫なのか?」
「包帯もしてるし、すごく痛そう……骨折? サッカーはできるの?」
「いや、腫れててかなり痛いけど、骨は折れてない。ただの打撲だってさ。全治三週間くらいだって。ただ……登校はいいけど、運動は駄目だって医者に言われた」
「マジかよ、その間、部活できねーじゃん。どうすんだよ?」
入江は自分のことでもないのに、この世の終わりみたいな悲壮感を漂わせる。
「しゃーねえべ。幸い、この二週間はテスト期間とテスト週間に当たるから、その間の部活動は中止だろ? しかもその後は宿泊研修もあるし。だから、実質的に部活に参加できないのは、二、三日程度だって」
「でも、宿泊研修の時までには治らないんでしょ? せっかくの学校行事なのに……」
男鹿の身に降りかかった不慮の怪我を痛ましく思ったのだろう。悠衣が悲しそうな顔をすると、男鹿は肩を竦めて笑った。気丈に振舞っているというわけでもなく、意外と本人は、あまり気にしていないようだ。
男鹿は、しきりと心を痛める悠衣に対し、あっけらかんといつもの軽口を言う。
「何だよ、そんな顔すんなって。確かに行動は多少、制限されるけど、ちゃんと参加するつもりだし。まあ、何とかなるだろ。迷惑はかけないって」
すると悠衣は唇を噛み、目をきっとさせ、男鹿を睨んだ。
「バカ、迷惑とかそういう話じゃないでしょ!?」
「わ、分かってるよ。ワザと言ってみただけだっての。こっちは怪我人なんだ。少しはいたわってくれよなー」
「バカ……!」
男鹿はあくまで明るく、落ち着いていた。近づくと、つんと薬や湿布の匂いがする。
その平静ぶりを見るに、もしかしたら学校のグラウンドで接触事故を起こした時に、ある程度の覚悟はできていたのかもしれない――と、私は思った。それに、今までずっとサッカーをしてきたなら、こういった怪我も初めてではないだろうし。
でもそんな男鹿の様子を見つめる悠衣は、ひどく心配で居ても立っても居られないといった様相だ。悠衣は私が体育の授業で怪我をした時も、熱心に付き添ってくれた。そういう、面倒見のいい一面もあるのだ。
それにしても、打撲とは言え男鹿の具合はかなり悪いのではないか。ばあちゃんも四月の半ばに捻挫してたが、未だに完治していない。まあ、ばあちゃんは齢が齢だから仕方ない部分もあるけど。
男鹿は十代だし、それより早く治りそうではある。でも、松葉杖を使わなければならないのだから学校生活を送る上で不便を強いられることに変わりはないだろう。
悠衣は男鹿に向かって、右手を差し出した。
「……ほら」
「ん?」
「鞄持ってあげる。松葉杖を突きながら鞄を持つの、大変でしょ?」
虹ヶ丘高校が指定している鞄は、ごく一般的なスクール鞄だ。肩に掛けることもでき、手で提げることもできる、愛想はないけど使い勝手のいい角ばったビニール製の鞄。
確かに、松葉杖を突きながら鞄を肩に掛けるとなると、バランスが悪そうだ。下手をすると転倒してしまうかもしれない。悠衣もそう考えたのだろう。
けれど突然、手を突き出され、男鹿は一瞬、戸惑ったようだった。
「な……何だよ、急に。何か気持ちわりーな」
「いいから貸しなよ、ほら」
悠衣は男鹿から、半ば強引に鞄をもぎ取った。男鹿も驚いているものの、嫌がったり迷惑がっている様子はない。悠衣が男鹿の席まで鞄を運び、私と入江が邪魔になりそうな机と椅子を退けていく。その甲斐あってか、男鹿はぎこちなく松葉杖を突きながらも、どうにか自分の席に到着することができた。
「うあー、やっと落ち着けるぜー!」
男鹿は自分の席に座ると、脱力して椅子の背もたれに背を預けた。因みに、男鹿の席は入江の後ろで、悠衣の左隣だ。私の席は、悠衣や男鹿、入江の席よりやや後方にある。
入江も男鹿の前にある自分の席に座り、男鹿の方を振り返った。
「でも、打撲くらいで済んで、ある意味よかったのかもな。骨折だったら、完治するのに下手したら一か月とか二か月とか、余裕でかかるじゃん」
「確かにそうだな。テスト週間に重なったのも、不幸中の幸いだったのかも」
「まあなー。こうなった以上、前向きに考えるしかないよな」
あまりにも呑気な会話にしびれを切らしたのか、悠衣が横からきびきびと口を挟んだ。
「それより、じっとしてなよ。男鹿とか入江って、昼休憩もグラウンドで遊んでるじゃん。ほんと、部活や朝練もあるのに、どこにそんな体力があるんだか……」
すると、男鹿は可笑しそうに笑う。「分かってるって。母ちゃんみたいなこと言うなよ」
「ちょっと、誰が母ちゃんよ? せめて姉ちゃんくらいにしといてよ!」
「姉ちゃんか。俺んち、兄貴と妹はいるけど姉はいないから、そういう発想は無かったなあ。あとは、ばあちゃんくらいか」
「まさかとは思うけど、男鹿のおばあちゃんとはさすがに似てないよね、あたし!?」
「うーん、俺んちのばあちゃんは穏やかな人で、滅多に声を荒げたりしないからな。こう、仏像系っていうか……。だから、姫崎と似てるっつーよりは、真逆だな。真逆」
「うぬぬ……それはそれで、何かムカつくんですけど……」
悠衣と男鹿、二人の軽口はいつもと変わらずだ。実際、足に包帯を巻いていて松葉杖を突いていなければ、男鹿はいつもと何ら変わりない。それで悠衣も少し落ち着いたのか、表情が少し和らいだ。
四人で雑談に興じていると、三時限目の始まりを告げるチャイムが鳴り、私たちはみな自分の席に戻った。私の席は、教室の中でも後ろの方にあり、窓際の近くだ。男鹿や入江、悠衣の席はみな私の席より前になる。だから、授業中の三人の様子は結構よく分かる。
例えば、入江が教科書を読んでいる振りをして居眠りをしているのも、すぐに分かってしまうのだ。
悠衣は三時限目の授業中、頻繁に男鹿の方へ目を向けていた。意図的に見つめているというより、無意識に気になってしまうのだろう。
男鹿は今のところ、普通に授業を受けている。特に困っている様子はないが、悠衣はそれでも男鹿の事が気になるようだ。