第5話 それぞれの戦い
「そうは言っても、そもそも誰かに教えられるほど、得意な教科が無いんだが……」
率直に問題点を指摘すると、入江は渋い顔になる。
「何だよ、ノリ悪いなあ。んな事言ったら、俺だって全滅だっつーの! でも、こう……なんか頑張れそうなイベントが欲しいんだよ!」
「まあ、私は別に構わないが……悠衣と男鹿はどうなんだ?」
正直、あまり勉強会に効果があるとも思えないが、何が何でも断固拒否というほどでもない。だから、みなが乗り気なら参加してみようかと思ったのだ。
私が男鹿と悠衣にそれぞれ視線を向けると、悠衣は僅かに表情を強張らせた。
「あ……あたしはちょっと遠慮したいかな、そういうの」
「え、何で?」
入江は不思議そうに首を傾げる。
「何でって……あたしも気合い入れて勉強しないと、やばいから……。テスト勉強のスケジュールとかも、全然余裕ないし……」
悠衣は参加辞退の理由が言い難いのか、もごもごと口にした。どうにも要領を得ないが、とにかく勉強会を辞退したいものらしい。
それを聞いた入江は、ますます怪訝そうになる。入江が悠衣のその態度に納得がいっていないのは明らかだった。
微妙な空気になりかけたその時、まるで悠衣に助け船を出すかのように、男鹿が口を開く。
「あー、俺もパス。勉強は一人じゃないと集中できないタイプだし。悪ぃな」
男鹿にまでそう言われたら、入江も引き下がるしかない。
「げー、男鹿もかよー! しゃーねえ、俺一人で頑張るか……」
ひどくがっかりしたようだが、それでも勉強会の開催は諦めたようだ。
「……」
悠衣がほっとしたのが分かった。
多分だけど、それほど勉強会が嫌だったというわけではないのだと思う。ただ、悠衣にはこういうところがある。時おり、男鹿や入江に対し、必要以上に距離を取るのだ。
それが何故なのか、何となく想像はつく。
悠衣は中学生時代、特定の女子友達から、ひどい嫌がらせを受けていた。パパ活をしているとか、援助交際をしているとか、事実無根の悪意ある噂を流され、それに苦しめられたらしい。
私からすれば、そんなの十分にいじめだし、あんなの友達でも何でもないとも思うが、多分、悠衣はまだそれを引き摺っているのではないかと思う。だから、特定の男子生徒と特別な関係なのではないかと、少しでも勘違いされるような行動は取りたくないのだ。
それでも、入江の勉強会をやりたいという希望を潰してしまった事には、罪悪感を抱いているらしい。悠衣は入江に向かって、申し訳なさそうに詫びる。
「あの……ごめんね、入江」
「別にいいよ、どうしてもやりたいってわけじゃないし。思いつきで言っただけだから。ってか、俺も現実逃避せずに、真面目にテスト勉強しなきゃだしなー」
渋々といった様子の入江に、男鹿もうんざりした口調で同調した。
「だよなー。俺も、英語がくっそヤバいし。赤点取ったら追試だろ? そのせいで部活に遅れようものなら、サッカー部の先輩にめちゃくちゃ怒られるぞ」
「うげえ、それだけはカンベン!」
それで完全に話の矛先は逸れ、入江と男鹿の会話はサッカー部に関する事へと移っていった。
悠衣の様子を窺うと、安堵が半分、後悔が半分といった表情をしている。男鹿の助けもあり、勉強会が流れたことに安心する一方で、入江の期待を駄目にしてしまった事に対して自己嫌悪に陥っているようにも見えた。
こういう時、何と声をかければいいのだろう。私は悠衣の事情を、ある程度知っている。知っているからこそ、迂闊な事を口にすべきでないと思ってしまう。
「そんなに大袈裟に勉強会を拒絶しなくてもいいのに」とか、「入江は怒ってるわけじゃなし、そんなに気にしなくても大丈夫だよ」とか。口にするのは簡単だけど、どれも悠衣を傷つけてしまうような気がしてしまうのだ。
こんな時、上手く人を慰められる人間になりたいと、心から思わずにはいられない。そして少しでも、悠衣の落ち込んだ気持ちを軽くできるようになりたい。
でもそれは、テストでいい点を取る事などより、ずっと難しいことなのだろう。何が正解かは分からないけれど、それだけは想像がつく。
要するに、私もまだまだ修行が足りない、という事だ、きっと。大人になれば、そういった難問も軽々とクリアできるようになるのだろうか。今はまだ、分からない。
ともかく昼食の時間は過ぎ去った。私たちは五時限目の授業に向けて、生物室へ移動することになった。その道中、階段に差し掛かった時に、悠衣が声をかけてくる。
「あのさ、りっちゃん。お昼休みのことなんだけど……。もしかして、入江の言っていた勉強会……乗り気だった?」
「いや、そうでもないけど。勉強会なんて、よほど鋼の精神でも持ってないと、すぐにダレるのは目に見えているしな」
「……そっか、それならいいんだけど。何だか、私が一方的に中止にしたみたいになっちゃったから……気になってたんだ」
やはり、その事を気にしていたのか。私は階段の途中で足を止め、後ろを歩く悠衣を見上げた。あまり深く詮索しない方がいいだろうかと思いつつも、尋ねずにはいられなかったのだ。
「……。悠衣は男鹿と入江が嫌いなのか?」
「えっ……どうして?」
「だって時々、妙に避けるだろ、二人のこと。男鹿も入江もいい奴だと思うけど」
悠衣が二人と距離を取ってしまうことを、非難するつもりは無い。でも、男鹿や入江にはもう少し心を許してもいいのではないかと思うのだ。まだ知り合ってそれほど長いわけではないが、男鹿や入江が悠衣に対して悪感情を抱いてないという事は私にも分かる。
すると、悠衣は目を伏せ、肺の奥底から押し出すようにして言った。
「それは……分かってるよ。十分過ぎるほど、分かってる。……あたしが中学生の時、園ちゃんや浜ちーから変な噂を流されたこと、りっちゃんも知ってるでしょ? 周りの友達はみなそれを信じて、あたしから離れていった。園ちゃんと浜ちーから受けた仕打ちも十分ショックだったけど、それもかなりキツかったよ。そんな根拠のない噂を簡単に信じてしまうんだ、誰もあたしのことを信じていないんだって……。
でも、みんながあたしを避ける中、男鹿と入江は普通に声をかけてくれたんだ。特に男鹿は、周りの目なんか全然気にせず、いつも声をかけてくれて……。それにどれだけ助けられたか、分からないよ」
「……。そうだったのか……」
「あいつらがいい奴らだって、ちゃんと分ってる。だからこそ、距離感を間違えたくないの。陰でつき合ってるんじゃないかとか、気があるんじゃないかとか……そういう無責任な噂でぶち壊されるのだけは、絶対に嫌だから……!!」
再び私の方に向けられた悠衣の瞳には、とても強い光が浮かんでいて、私はそれ以上、何も言えなかった。悠衣が男鹿たちと必要以上に距離を取ってしまうのは、友達として同級生として、大切に思っているからこそなのだ。
正直に言って、気にしすぎではないかと思わないでもない。何をしたって曲解する奴は出てくるし、そこに愛だの恋だの欠片も存在していなかったとしても、この世の森羅万象をことごとく恋愛に絡めた話に発展させたがる連中が一定数いるのは事実だ。
そういう、他人のことをどうこう言うことが生き甲斐な奴らには、勝手に言わせておけばいいではないか。そう思わないでもなかったが、悠衣の過去を知っているだけに、度を越して慎重になってしまう気持ちも痛いほどよく分かる。
かくいう私も、蒼司が結城家に居候していることは、学校のみなに隠している。どれだけ言葉を尽くして説明したって、いやらしいだの、だらしがないだの、挙句の果てには不潔だのと、過度に茶化したり非難したりする輩が必ず出るからだ。
蒼司はああいう性格で、何を仕出かすが分からないところがあるから、余計に警戒してしまう。蒼司にキスされたことを、全く以って不可抗力だったと説明しても、絶対に信じない層は一定数いるだろう。
そういう層の言い分は大抵、「あなたにも隙があったんでしょう」とか、「本当はあなたが誘ったんでしょう」とかいうものだ。どういう展開になるか分かり切っていて、何を言われるかも手に取るように想像できるのに、わざわざカミングアウトしようなどという気が起きるわけもない。
(さらに問題なのは、蒼司が事の重大さに微塵も気づいていないところだな……)
蒼司は、これからは自制すると胸を張っていたが、そもそも蒼司にとっての『自制』と、世間一般で言うところの『自制』には、大きな隔たりがある。現に蒼司は、未成年であり教え子でもある私にキスをした事を、異常なことだとは微塵も思っていない。
そのあたりの差を、どうやって蒼司に理解してもらえばいいのか。それを考えると、頭が痛かった。
(まあ、私のことはともかく……だ。悠衣は恐れているのかもしれないな。頑張って虹ヶ丘高校に入学して、人間関係もいい具合にリセットできて……でも、うまくいっているその環境が、ちょっとしたきっかけで失われるんじゃないかと心配してる。だから、過剰に恐れているんだ。
裏を返すと、悠衣はまだ、中学生時代のトラウマを乗り越えてないって事なんだろう。できるなら、何か力になりたいけど……)
ただ、だからと言って出しゃばりすぎのも良くない。悠衣がそれを望んでいないなら、完全にただのお節介となってしまうからだ。今のところは様子を見るしかないのだろう。でも、悠衣は私の友達で、だからこそ余計に気になってしまう。
(うーん……誰かに相談した方がいいのかな)
しかし、相談すると言っても、誰にこの件を持ち込めばいいのか。入江や男鹿は当事者だから当然、除外するとして、あとは晴夏や舞夏、そして壱夏ばあちゃんくらいしかいない。
(でもなあ……晴夏と舞夏に相談するには、内容がちょっと重すぎるし、二人も私と同じで中間テスト直前だ。壱夏ばあちゃんは頼りになるけど、どうしたって年齢的に感覚が私たちとは違うしな。SNSとかの実態は分からないだろうし……。あと相談できる相手と言ったら……蒼司くらいか)
そういえば、蒼司も男女関係で嫌な思いをしたことがある――というようなことを口にしていた。まあ、私にしてみれば、半分以上は蒼司の自業自得じゃないかと思わなくもない。でも、少なくとも私よりは、経験が豊富なのは確かだろう。
――年齢的にも、多分。
(あまり当てにならないところもある二十八歳だけどな)
ともかく私は、帰宅した後、蒼司に相談するため離れのアトリエを訪れることにした。
蒼司はしばらくの間、絵の制作に集中したいから、夕飯はいらないし自分で調達するとばあちゃんに告げたらしい。多分、私たち三姉妹が揃ってテスト週間に入ったから、気を利かせたのだろう。
私としてもテスト勉強があるのは事実だし、あまりアトリエに長居をするつもりは無かった。ただ、悠衣のことは友達だから放っておけないし、学校で蒼司に直に相談するわけにもいかない。
アトリエに近づくと、部屋から明かりが漏れているのが見えた。どうやら蒼司は既に帰宅しているようだ。
障子が僅かに空いていて、中に人影も見える。確認ついでに覗いてみると、蒼司が一人でキャンバスに向かっているところが目に入った。絵の制作に集中したいというのは本当のようだ。
だがその表情は、常にはないほど強張っていて、全く蒼司らしくない。蒼司は現在、スランプに陥っていて絵が描けなくなっているのだが、やはりそのスランプを脱したわけではないのだろう。
(蒼司……)
蒼司は、私の前では常識外れの無茶苦茶な事を平気で言って、何を仕出かすか分からないところもある、とても厄介な宇宙人だ。でも、絵に対しては誰よりも真摯でまっすぐだった。
まさに体当たりで絵を描き上げていると言ってもよく、多分、本人も知らず知らずのうちに、自分の全てをキャンバスへと注ぎ込んでいる。
蒼司が女性に対して見せる、ある種の思い上がりや傲慢さも、キャンバスの前では完全に息を潜めてしまうのだ。そして、だからこそ、ああして苦しんでいるのだろう。
でも、蒼司はそれをできるだけ私の前では、見せないようにしている。知られたくないからなのか、それとも心配をかけたくないと考えているのか。その真意は分からない。ただ、蒼司がそれを望むのなら、私も今は気づかないふりをするのがいいと思う。
(……。今は、そっとしておこう)
悠衣のことを相談したかったのは確かだが、どうしても今すぐ解決しなければならないというわけでもない。中間テストが終わってから、折を見て話を持ち掛けても十分に間に合う話だ。それよりは、今は蒼司の邪魔をしたくないという気持ちの方が勝った。
蒼司は今、キャンバスの前で戦っている。簡単に解決することはできない、孤独で過酷な戦いだ。
悩む蒼司の姿を見て、何か手伝えることはないのかと思わなくもない。でもきっと、私にできることは何もないのだ。
どれほど手助けしたくても、これは蒼司が自分で答えを出すしかない問題なのだから。
だから私は、できるだけ足音をたてないようにして、そっとアトリエのそばを離れたのだった。