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未完成、ぼくら。  作者: 天野 地人
『常識』って面倒くさい
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第1話 いつもの日常

私が高校に進学してから、はや一ヶ月。桜の花びらはとうに散り、俵山に本格的な新緑の季節がやって来た。


県立虹ヶ丘高校の通学路を彩る緑も、日ごとに鮮やかさを増していく。寒さから解き放たれ、青々とした草木の勢いには圧倒されるばかりだ。


葉の一枚一枚、葉脈の隅々まで生命力が漲っていて、雨も降っていないのに瑞々しさが雫となって滴り落ちるかのようだった。


新しい生活にもだいぶ慣れてきた。


午前と午後に渡る授業を受け、それから美術部に顔を出して家に帰るというのが、専らの私の生活だ。慣れてきたとはいえ、高校の授業は中学生時代に比べて段違いに難しい。そんな中、部活動は数少ない癒しと気分転換の場となっている。


因みに、美術部には大抵、クラスメートで友人の悠衣と一緒に行く。


私たちが今、取り掛かっているのは、油絵の静物画だ。画用紙ほどの小さなキャンバスに、提示されたリンゴやレモン、石膏像といった題材を描いていく。私と悠衣にとっては、生まれて初めての油絵だ。


私たちの他に一年生は四人いて、新入部員は全部で六人だ。今回はみな初めての油絵という事もあり、同じ静物画の課題をこなすことになった。


二年生や三年生は、それぞれ個人の希望する課題を手掛けている。私たちも慣れてきたら、それぞれ好きな題材に取り掛かることができるそうだ。今はまだ、一年生はみなで円になって題材を囲み、一緒になって静物画に取り掛かっている。


 教室の机より大きめな美術部の机の上には、無地のテーブルクロス、その上にリンゴとレモン、ワイングラス。そして、シンプルな形をした幾何形体の石膏像。それが私たちに提示された静物画の課題だ。


 まずは鉛筆で下書きをしていくのだが、これがなかなか難しい。ひと段落ついてから、私は悠衣と互いに完成したスケッチを見せ合った。


「ねえねえ、りっちゃん。下書きできた?」

「うーん……一応は描けたけど……。何かこれ、形がおかしくないか?」


「あー、分かる! 特にワインボトルと石膏像だよね? 私のも何か、形が微妙に歪んで見えるよ~!」


「特に、この石膏像……三角錐の上の方に、横になった円柱がぶっ刺さってるやつ! リンゴとレモンは少々、形が歪んでてもギリセーフって感じだけど、石膏像の方は誤魔化しがきかなくて困ってるよ。……これ、ひょっとしなくても、初心者が描くのはちょっと難易度高くないか?」


「でも、この静物画の課題を出したのは月宮先生だし……高校生なんだから、これくらい描けないと駄目だぞって事なんじゃないかな? そう考えると、ちょっと落ち込むけど……」


 悠衣は冗談めかして言いながらも、若干、気落ちした様子を見せた。ひょっとすると、美術部を続けていくことに自信が無くなって来たのかもしれない。私は、静物画の課題を出した美術顧問、月宮蒼司の顔を思い浮かべ、内心で悪態をついた。


(蒼司のヤツ……少しは手加減しろ! 私も悠衣も、絵描きになりたいわけじゃない。ただ部活動の一環として、楽しく絵が描きたいだけなんだぞ!)


 特に悠衣は、美術部に入る事を楽しみにしていたのだ。この調子では、予想とは違うとがっかりしてしまうんじゃないか。


 そういう心配もあって、ついつい内心の悪態も愚痴っぽくなってしまったが、意外にも悠衣はすぐに笑顔を見せた。


「でも、この石膏像……三角錐に円柱がぶっ刺さってるやつ? これが描けたら何か上級者っぽいっていうか、美術部の絵って感じがするよ。だから頑張ろ、りっちゃん!」


「……ああ、そうだな」


 こういう時、悠衣が前向きな性格で良かったと、つくづく思う。たるいとか面倒臭いとか、うまくいくかどうか不安とか。そういった感情は誰にでもある。でもどうせやるなら、楽しくやりたい。特に、これは部活動なんだから。


「そういえば、蒼……じゃなくて、月宮先生の姿が見えないな」


 蒼司はああ見えて割と指導熱心で、部活動にもよく顔を出す。しかし今日は、美術室に来てからまだ一度も蒼司の姿を目にしていない。私が教室を見回しながらそう言うと、悠衣も頷いた。


「あ、ホントだねー。確か、今日は部活に来ない日じゃなかったっけ?」


(という事は……今日は専門学校の講師のバイトがある日か)


 蒼司は一応、美術顧問という立場だが、非常勤講師だ。元々、美術担当だった水瀬先生が育休に入ったから、蒼司はその間の代役なのだ。そのためか、同時に専門学校の講師のアルバイトも掛け持ちしている。


 先日、そこの専門学校生と蒼司の間であるトラブルが勃発したが、以降も講師の仕事を続けているところを見ると、何とか解決することができたのだろう。蒼司は基本、好きな事しかやらないし続かない性分だから、思いのほか、講師の仕事を楽しんでいるのかもしれない。


 因みに、蒼司は私の遠い親戚に当たる。私のばあちゃんの、お姉さんの孫が蒼司なのだ。そういった縁もあり、私は子どもの頃から蒼司を知っている。だから、蒼司は私よりずっと年上にもかかわらず、呼び捨てにしているのだ。


 もっとも、学校ではそれぞれの立場上、一応、『月宮先生』と呼ぶようにしているが。


 それから暫くしてクラブ活動は終了となったので、私と悠衣は高校を後にし、それぞれ帰路に就いた。


 季節が初夏に差し掛かり、昼間は随分、暑くなってきたが、それでも陽が沈むと一気に肌寒さが迫って来る。私はサドルに跨ると、小さく身震いしてから、自転車を漕ぐ足に力を籠めた。虹ヶ丘高校から北に延びる、ゆるい傾斜の坂道を登っていくと、やがて私の家――結城家が見えてくる。


 私が言うのもなんだが、うちの家は古い。昔ながらの瓦屋根をのせた、どっしりとした日本家屋で、母屋の他に離れが二つもある。そこに、私とその姉妹の三人、そしてばあちゃん、併せて四人が生活しているのだ。


 もっとも、たった四人でその全ての部屋を使いこなすことができるわけもなく、私たち一家は普段、母屋のみで暮らしている。そのため、二つの離れはばあちゃんが手入れこそしていたものの、今まで無人だった。


 そこに目を付けたのが蒼司だ。蒼司は一か月ほど前、ある日突然、我が家に転がり込んできて、離れの一つを強引にアトリエへ改装し、住みついてしまったのだ。


 私も最初はそれに納得がいかず、随分と腹を立てたものだ。しかし、今はすっかりそれにも慣れてしまった。


「ただいまー」


 自転車を停め、玄関扉を開けてそう告げると、すぐに中からばあちゃんの返事があった。

「立夏かい。お帰り」


 壱夏ばあちゃんは、この間、足を捻挫したが、だいぶ治って来たみたいだ。ただ、まだ完治には至っておらず、週に一回、近所の外科へ通っている。


 私は土間で靴を脱ぐと、二階へ繋がる階段の下でカバンを下ろし、そのまま真っ先に台所へ向かった。けれど、台所にばあちゃんの姿は無い。たぶん、居間にいるのだろう。私は大声を張り上げた。


「あー、喉が渇いた。何かある?」


「冷蔵庫に麦茶と、オレンジジュースがあるよ」


「もう麦茶つくってるの? まだ五月なのに?」


「お茶は体にいいからね」


 私は冷蔵庫を開けながら苦笑した。ばあちゃんは古い人だから、食べ物の良し悪しも味より健康にいいかどうかを重視しがちだ。私たち三姉妹はまだ子どもだから、そのチョイスについていけない事もある。どうしたってチョコは好きだし、たまにはたっぷりのクリームが乗ったケーキが食べたいと思う時だってある。ばあちゃんは、健康に悪いと顔をしかめるけれど。


 だけど今日は、ばあちゃんのお勧め通り、麦茶を飲むことにする。幸い、まだ作って間もないのか、それほど冷えていない。


 麦茶を注いだグラスを手に、廊下を抜け居間へ向かうと、予想通りばあちゃんはそこにいた。今日は、あやめが菖蒲の花があしらわれていて落ち着いた色合いをした着物を着ている。どうやら、卓袱台でいりこの処理をしているらしい。


 その作業とは、頭とはらわたを取り除く作業だ。手間が掛かるけど、その分、ばあちゃんの作るいりこだしのみそ汁は、絶品だった。


「……そういえば、晴夏と舞夏は?」 

 私が尋ねると、ばあちゃんは作業を続けながら答えた。


「二人とも、まだ高校から帰ってきてないよ」


「そうなんだ。やけに遅いけど……中間試験が近いからかな」


 私たちは三姉妹だ。おまけに三つ子だから、誕生日はもちろん学年もみな同じ。ただ、進学した高校はそれぞれ違う。


 姉であり長女の晴夏が通っているのは、月渡学園という高校だ。県内でもトップクラスの偏差値を誇っていて、進学校として知られている。


 一方、妹であり三女の舞夏が通っているのは、星蘭高校。偏差値はさほど高くないものの、部活動や芸術活動が盛んで、スポーツ系の部活はよく全国大会に出場しているし、文化部の活動も熱心だ。


 因みに、次女である私が通っている虹ヶ丘高校は、偏差値もそこそこ、部活動もそこそこの、よく言えば平均的、悪く言えば特徴や個性のない、地味な高校というポジションだ。けれど、私にとっては割と快適な環境だったりする。ばあちゃんはふと手を止め、しみじみと口にした。


「そうか……もう、中間テストの季節なんだね。つい昨日まで正月だったような気がするのに、時間が立つのは早いもんだ。立夏はちゃんと勉強してるのかい?」


「まあ、一応はね」


「そうかい。まあ、晴夏と立夏はしっかりしているから心配していないけど、問題は舞夏だよ。あの子は昔から、勉強が苦手だったからねえ。夏休みの宿題も、二学期の始業式前日までため込んで、晴夏や立夏が手伝ってやっていたし」


「まあ、大丈夫だよ。舞夏ももう高校生なんだし。さすがに小学生の時のようなヘマはしないだろ」


「そうだといいんだけどねえ。……ああ、もうこんな時間だ。立夏、手が空いているなら、手伝ってくれるかい?」


「いいよ。待ってて、先に着替えてくる」


 私は階段の傍に置きっぱなしにしていた鞄を手に取って、二階の自室に戻ると、制服から私服へ着替えた。その後、再び一階に降りてきて、いつも通りばあちゃんの夕飯作りを手伝う。


 今日のメニューは、ロールキャベツだ。行きつけのスーパーで良い春キャベツが手に入ったからだと、ばあちゃんは嬉しそうだ。


 ミンチ肉を茹でたキャベツの葉で巻いていき、それをブイヤベースでぐつぐつと煮込んでいく。ばあちゃんの作るロールキャベツは、キャベツの葉がくたくたになるまで煮込むのが特徴だ。私もキャベツの葉でひき肉を巻いたり、それを鍋に並べたりするのを手伝った。


 作業がひと段落付き、鍋に蓋をして煮込む段になると、次に私はばあちゃんに頼まれて、お社にお供えを捧げに向かった。


 結城家はその昔、俵山でかなりの権力を振るっていたが、それと同時に祭祀の仕事も司っていたらしい。だから、うちの敷地の中には、赤い鳥居と小さな祠があるのだ。


 因みに、鳥居や祠の奥に二つの離れもある。そのうちの一つが、蒼司が勝手にアトリエに改装して住みついた、西の離れだ。


(蒼司……まだ帰っていないのか)


 西の離れは主が不在らしく、真っ暗だった。専門学校の仕事はそれほど忙しいわけではないと、蒼司も言っていたし、いつもであればとっくに帰っている時間なのだが。


(……まあ、私には関係ないけど)


 さっさと母屋に戻り、再びばあちゃんと二人、台所で作業をしていると、暫くして舞夏が、更にその後、ちょうど食事前になって晴夏がそれぞれ帰って来た。


 でき立ての料理と炊き立てのご飯をそれぞれ器によそって配膳すると、私たち三姉妹とばあちゃんの四人で、さっそく食卓を囲む。


 お腹が空いていたのだろう。「いただきます」もそこそこに舞夏はロールキャベツを口に放り込んだ。


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