第27話 イケメンは爆発しろ!
離れの外から、蛙の鳴く声が聞こえてくる。私は聞くともなしにそれを聞きながら、静かに続けた。
「お前が私の存在を軽々しく利用しようとしたことは、今でも許せないが……相当な覚悟で東京での全てを捨て、この家に戻って来たんだろう。だったら、納得できるまでいればいい」
「それはつまり、僕はここにいていいってこと?」
「だが、一つだけ約束してくれ。絵のために、何もかも犠牲にするようなやり方は、もう二度としないと。多少の打算や下心には目を瞑る。だから、みんなのことも、自分のことも……粗末にせず、ちゃんと大事にしてくれ」
蒼司が東京で居場所を無くしたのは、東京がそういう効率や実力重視のドライな街だからという側面も確かにあるかもしれない。だが、間違いなく蒼司自身にも原因がある。
蒼司はこれまで人間関係をあまりにもあっさりと切り捨てて生きてきた。相手が男であれ女であれ、絵に昇華した後の人間関係は、料理をした時に出る野菜の切れ端みたいに、簡単にゴミ箱へぶち込んできた。
うまくいっている時はそれでもいいが、自分が窮地に立たされた時、こうして手痛いしっぺ返しを食らうのだ。
蒼司はしばらく無言だったが、やがて小さく頷いた。
「……。分かったよ。約束する」
「絶対だからな」
「……立夏は優しいんだね」
「別に優しいわけじゃない。ただ、お前を追い出すという野望を、諦めただけだ」
「それを、世間一般では優しいと言うんじゃないかと思うけど」
蒼司の声には、心なしか妙な含みがあった。自分の身の上を語っていた時の、途方に暮れた子どものような声音じゃない。
何故だか、台所で蒼司が私にキスをしようとしたことが、私の脳裏に蘇った。蒼司は何をしでかすか分からない。用が済んだのなら、さっさと立ち去るに限る。
「は……話はそれだけか? だったら、私はもう帰るぞ」
慌てて踵を返すと、蒼司が不意に呼び止めた。
「待って、立夏」
「な、何だよ?」
「立夏は朝田さんに言ったよね。君と僕は遠い縁戚関係にあるから、そういう感情は全く無いと。……あれは君の本心なの?」
「当たり前だろ。お前だって、さっき言ってたじゃないか。私に近づいたのは、もう一度、絵を描けるようになるためだと」
「そうだね。最初は確かに、そうだった。でも、人の気持ちは変わるものだよ。現に僕は、君のことを……」
「とにかく、私は帰るからな!」
何となく嫌な予感がし、私は一刻も早くアトリエを出ようと歩調を速めた。
ところが、蒼司は私の手首を掴んで、ぐいと引っ張る。普段の物腰柔らかな蒼司からは考えられないくらい、強い力で、あ、そういえばこいつは男だったと、今更ながらに思い出す。
「立夏、まだ話は終わってないよ」
「そうか、おかしいな。私の話はもう終わっている筈なんだが」
「どうして僕の方を見ないの? 僕が……怖い?」
「別に怖くはない。ただ、早くこの部屋を出たいんだ」
「……立夏」
蒼司はどことなく悲しそうな声で私の名を呼んだ。このまま強引に立ち去ろうとなどしたら、背後からドナドナが大音量で流れてきそうだ。私は、渋々、蒼司の方を振り返る。
「……あのなあ、蒼司。そういうのは卑怯だぞ!」
破れかぶれで振り向いたその時、蒼司は私の顎に右手を添え、くいっとそれを持ち上げた。以前、台所でそうしたように。そして、やはりその時と同じように、ゆっくりと蒼司の顔が近づいてくる。
私は半眼になって言った。
「そう何度も同じ手は食らわないぞ。どうせまた、私の事をからかって……」
しかし、今度は蒼司の動きが止まることは無かった。気づいた時には、唇と唇が触れ合い、重なり合っていた。
(……ん? えっ、あれ……!?)
あまりにも予想外の展開に、そのまま、私の前身はバッキバキに固まってしまった。蒼司はただ、私の事をからかいたいだけで、本気じゃない。……その筈じゃなかったのか。
いや、そもそもこれ、私のファーストキスなんですけど?
それに、キスっていわゆる、告白だとかデートだとか、そういう恋愛的なプロセスを得てから普通、行われるものじゃないんですかね?
考えれば考えるほど、脳がグルグルして頭が痛くなってくる。
暫くして、蒼司はゆっくりと唇を離す。
「な……何で……?」
我ながら間抜けな言葉が口を突いて出る。すると蒼司は、不思議そうに首を傾げた。
「何でって……僕は君のことが好きだから。それ以上の理由が必要かな?」
「はあ!? お前が……好き? 私の事を?」
「うん、そうだよ」
「そんな話、初耳だぞ!」
「そりゃ、君は僕の事を一方的に嫌っていたから、そんな話をする暇も無かったしね」
「私は、自分で言うのもなんだが、珍獣って言われてるんだぞ! 朝田さんも言ってただろ、私と蒼司じゃいろいろ釣りあわないって!」
「そんなの、無視すればいいだけだよ。僕に何がふさわしいかは、僕が決める。僕の心を理解してくれたのは立夏だけだ。僕には立夏が必要なんだよ」
「……それならそれでも構わないが……お前、キスと告白の順序がおかしくないか!? 普通は告白してからキスするものだろ!!」
「意外と保守的なんだね、立夏は。……分かった。今度からは、ちゃんと予告してからにするよ」
「そういう問題じゃない!!」
私は頭を抱えた。こいつの感性は、昔から変わっていると思っていたが、ここまでとは思わなかった。
他の人とは違うその独特の感性が、芸術家として花開くのに一役買ったのだろうから、悪い事ばかりではないのだろうが、同じノリで恋愛などされたら支離滅裂のカオスだ。
確かに、蒼司のこういうところは、一部の女性にとって、とても刺激的で魅力的なのだろう。やたら手が早いので、見ようによっては、恋愛スキルも高そうに感じるかもしれない。だから、コロッと騙される女性が出てしまうのだ。
でも私は、その列に名を連ねるなんて、まっぴらだった。
「……まあ、キスの理由はどうでもいい。でも私とお前じゃマズいだろ、いろいろと!」
「どうして? 僕と立夏は縁戚とは言っても、いとこ以上に離れているんだし、別に気にする必要はないでしょ」
「そうじゃない! いや、それも勿論あるが……忘れたのか? お前は非常勤とはいえ高校の美術教師で、私はその生徒なんだぞ!!」
「そうだね」
「教師とその教え子が、恋愛沙汰はマズいだろ!」
「そんな事、別に大した問題じゃない」
「大問題なんだよ、世間的には!!」
何故だ。蒼司と会話をしていると、私の方が可笑しいんじゃないかと思えてくる。私の方が、常識的でまっとうな話をしている筈なのに。一方、蒼司は私をじっと見つめる。
「それより、立夏はどうなの? 立夏は今でも僕のことが嫌い?」
「お前……今更それを聞くのか? 順序とかいろいろなものが破綻しすぎだろ! しれっとキスした後でそれを聞いて、何か意味があるのか!?」
「……立夏。僕は自分の本心を言ったつもりだよ。だから、はぐらかさないで欲しいな」
「……!」
私が蒼司を嫌っていたのは、人間関係や人の心まで、何でもかんでも絵の犠牲にしてしまうからだ。でも、蒼司はそれをやめると約束してくれた。そして、実際にそれを実行するだろう。
蒼司も自分のやり方に問題がある事は分かっている。だからこそ、高校の教師や専門学校の講師になったのだ。蒼司も、自分を変えようと必死なのだろう。
それなら――私が蒼司のことを嫌ったり、警戒する理由も無い。
「そりゃ……まあ。嫌いじゃ……ない、けど……」
視線をつつつ、と逸らしながら、私はそう答えた。すると蒼司は、弾かれたように笑顔を浮かべる。
「本当? 良かった。……嬉しいよ、すごく!」
何がいいんだ、何が。私は嫌いじゃないと言っただけで、好きだとは一言も言っていない。
でも蒼司は、それでも十分に嬉しいみたいだった。まるで無邪気な少年のように、にこにこしている。先ほどまで、死んだ魚みたいな顔をしていたのが嘘のようだ。
「ねえ、もう一度キスしていい?」
「いいわけないだろ、ボケ!!」
何だか、怒鳴る気力も薄れてきて、私はひどい脱力感に襲われた。
――あのな、蒼司。
お前は本当に、そういうとこだぞ!!
一応のところは、ここで終了になります。続きはまた、でき次第、更新していきたいです。
読了、ありがとうございました!
天野 地人