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未完成、ぼくら。  作者: 天野 地人
イケメンは爆発しろ!
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第26話 スランプ 

「ほら、蒼司。今日の晩飯だぞ」


 翌日の晩、私はばあちゃん頼まれて、蒼司のアトリエへ晩御飯を運んだ。


 以前、アトリエに踏み込んだ時には喧嘩になってしまったので、膳を手渡したらさっさと母屋へ戻るつもりだったけれど、蒼司はそんな私を呼び止めたのだった。


「ありがと。……ちょっと寄っていってくれないかな? 話があるんだけど」

「……」


 まあ、聞くだけなら、と私はアトリエに上がった。それに、個人的にはちょっと気になることもあったし。


 アトリエの中は、相変わらず油の匂いが充満している。しかし、キャンバスに目を転じると、やはりどの絵も手を入れた痕跡が無かった。前回、このアトリエに来た時と、何一つ変わっていない。


 ――ああ、やっぱり。私の嫌な予感は的中した。


「絵の制作は全く進んでないな。わざわざリフォームしてアトリエまでこしらえたのに、絵を描くのはやめたのか?」


 さり気ない口調でそう尋ねると、蒼司は降参のポーズをして苦笑する。


「……やっぱり、気づいていたか。立夏には敵わないな」


「ひょっとしてお前……描かないんじゃなくて、描けなくなったのか」


 私は、ずっと抱いていた推測を、躊躇いがちに口にした。


 蒼司にとって、絵を描くことは日常生活の一部だ。朝起きて、着替えをし、食事をして学校へ行く。そういったことと絵を描くことは、全く同じなのだ。少なくとも、大学生時代の蒼司はそうだった。


 私の知る蒼司であれば――こんなに何日もキャンバスに手を加えないなんて、そんなことあり得ない。


 すると蒼司はキャンバスの一つに視線を転じつつ、私に向かって静かに語りかけてきた。


「立夏は以前、僕に言ったよね。僕の描く絵の『生贄』になるつもりはない……って。それを聞いた時、心臓に穴が空くかと思うほどびっくりしたよ。まさか……まさか、そこまで見透かされているとは思わなかった。立夏は年頃だし、ただ恥ずかしいだけだろう。慣れたら昔みたいに、きっと懐いてくれる。ずっとそう思ってた」


「ずいぶんと馬鹿にされたものだな」


「そうじゃないよ。本当の事を言うと、僕は自分自身の欺瞞に、全く気づいていなかった。ただ、失ったものを取り戻すのに必死で、自分の本心すら分からなくなっていたんだ。けれど、僕すら見失っていた僕の心を、立夏は呆気なく暴いてしまった。君は、何ていうか……本当にすごい女の子だよ」


 そんな風に褒められたって、嬉しいとかそういう感情は全くない。


 蒼司は絵が描けなくなってしまった。その事は私にとってもショックな出来事だったから。


 そうではないかという予感はあったけれど、実際に蒼司の口からそれを聞かされると、重々しい現実となって突き付けられる気がする。


 私は蒼司の絵が好きだった。いや、今でも間違いなく大好きだ。絵を描いている時の蒼司の姿も好きだったし、何より蒼司のことも、多分――とても好きだった。


 それなのに、どうして――どうしてそんなことになってしまったのだろう。何が原因なんだろう。思わず問い詰めたい誘惑に駆られたが、私はそれらの言葉をぐっと飲み込んだ。描けなくなって苦しんでいるのは、私ではなく蒼司本人なのだ。


 それでも、どうしても気になって、探るように質問を繰り出す。


「その……描けなくなったのは、いつからだ? ……何が原因なんだ? 美術雑誌でお前の絵が低俗だと酷評されたそうだな。そのせいか?」


「はは、まさか。あんなのは、ただのやっかみだよ。そんな事で描けなくなるくらいなら、そもそもこの道には進んでない」


「それなら、どうして……」


 すると、蒼司は苦しそうに眉根を寄せ、瞳を伏せた。その指先は、キャンバスの画面に触れている。


「僕にもね、理由が分からないんだ。だから困っているんだよ。……想像できるかい? ある日突然、それまで当たり前のように描けていたものが、全く描けなくなってしまったんだ。自分がこれまで描いていたものが正しいのか、そして本当は自分が何をしたかったのか。全てが唐突に、信じられなくなってしまった。

 自分でもひどく戸惑ったよ。まるで、今までの自分が死んでしまって、ある日突然、別の自分に生まれ変わったみたいだった。もちろん、悪い意味で……だけどね」


「……。いわゆる、スランプってやつか」


「そうだね。有り体に言うなら、そうなるかな。多分……昆虫の脱皮みたいなものなんだと思う。一度、変わってしまったら、もう二度と元には戻れないんだ。

 でも、当時の僕は、たくさんの仕事を抱えていた。変わったからと言って、描かないわけにはいかなかった。……一度引き受けた仕事はやらなきゃ相手にも迷惑がかかるし、僕の絵を楽しみにしているファンもいる。そんなこんなで、義務感と責任感に駆られて無理して描くけど、どれだけキャンバスを塗り潰しても、どうしてもそれが自分の絵だと思えないんだ。

 

 ……あれほどの地獄は初めてだったよ。絵を描くことがあんなに苦しく感じる日が来るなんて、思いもしなかった。自分の中がぐちゃぐちゃで、どうしようもなくて……何かを描ける状態じゃないって分かってるのに、描かなきゃいけない。僕にとっては、拷問以外の何物でもなかった」


「蒼司……」


「それでも、培ってきた技術だけはあるからね。昔の自分が描いていた絵をどうにか真似て、受けた依頼は全部こなした。そして、新たに持ち込まれた依頼は全部、断った。全てが終わって、僕はようやく苦痛から解放され、自由になったんだ。これ以上、描かなくていい……そう思うと、心の底からホッとした。


 けれど……それも束の間のことだった。その時、ふと気づいてしまったんだ。絵も含め、僕の中には何も残っていない事に」


 そこまで言うと、蒼司は僅かに笑った。まるで、自分自身の事をどうしようもない愚か者だと、嘲笑うような笑みだった。


「……それからは何もする気が無くて、ただ無為に日々を過ごしたよ。絵が描けなくなったからと言って、他にすることや、やりたいことも特にないしね。スランプがこじれて、完全に生きた屍になってしまったんだ。

 ……まるで手ぶらの状態で真っ暗闇の中に、放り出されたような気分だったよ。前後左右が分からない、分からないから立ち上がって進む気も起きない。スランプから脱する糸口さえ掴めないまま、時間だけが無情に過ぎていく。

 そんな時だ。僕がこの家を……そして、立夏の事を思い出したのは」


 突然、話の中に自分の名前が出てきて、私は少しどきりとした。その時の蒼司の記憶にある私は、ただのこましゃくれた小学生だったはずだ。それを思い出すほどだから、よほど追い詰められていたのだろう。


「……覚えてる? 幼いころの立夏は、キラキラと目を輝かせて、僕の絵を褒めてくれた。そして、もっと描いてくれと僕にせがんだよね。あの頃は、世間の人はまだ誰も僕の絵を評価してくれていなかったけど、それでも僕は幸せだった。

 ……いや、当時はそれが幸せだという自覚は無かったんだ。でも、絵が描けなくなって初めて、あの時の自分は幸福だったんだと気づいた。もう一度、君に会えば……その時の煌めきが取り戻せるんじゃないかと思ったんだ」


 そして蒼司は、ようやく私を見る。いつもの気位が高くて自信に満ちた態度ではなく、途方に暮れた子どものような目で。


「だから……ね。立夏の言う通りなんだよ。僕がこの家に戻ったのは、もう一度、絵を描けるようになるためだ。この家に戻って、君に会って……絵に対する情熱を取り戻したかった。君と仲良くしたいのも、全ては絵のためだったんだよ」


「……」


「僕のこと、軽蔑する?」 


 まあ、軽蔑はしなかったが、怒っていたのは事実だ。猫を被って周囲を欺き、つらつらと心にもない嘘を並べ立てて、私を丸め込もうとした。だからその時は、ぶっ飛ばしてやろうかっていうくらいに腹が立った。

 

 でも、不思議と今は、そういう怒りは無い。多分、私は舐めた態度を取る蒼司や、周囲を巻き込んで何食わぬ顔をしていた蒼司に腹を立てていたのであって、蒼司本人が嫌いだったのではないのだろうと思う。


 だから、私は小さく溜息をついて、蒼司に言った。


「……別に。蒼司がそういう奴だという事は、最初から分かってた。だから、私は嫌だったんだ。お前は全てを絵のために犠牲にし、周囲の人のことはおろか、自分のことすら大事にしない。そういう生き方は……結局、自分自身に跳ね返ってくるんだ」


「ああ……うん。本当にそうだね。僕も……今になって、その事を思い知らされているよ」


「二十八にもなってか」

「二十代なんて、まだまだ子どもだよ」


 蒼司は小さく笑ったが、ふと真剣な顔になる。


「……ねえ、立夏。立夏は今でも、僕の事が嫌いなの? もし立夏が、僕の存在をどうしても受け入れられないというのなら……この家を出ようかと思ってるんだ」


 蒼司がわざわざ私にしたかった話というのは、この事だったのだろう。


 今さら、何を言い出すんだ。出て行きたければ、何も言わずに出て行けばいいのに。だって、これまでの話の流れで、私が「そうか。それじゃあ、達者でな」などと蒼司に言おうものなら、間違いなく人でなしの冷血漢になってしまうじゃないか。


 ぶっちゃけ、そう思わなくもなかったが、これは蒼司なりに誠意を示そうとしているのだろう、と思い直すことにした。そもそも、この家に乗り込んできた時点から、蒼司はいろいろと手順がおかしいんだ。でも、それはまあ、今に始まったことじゃない。


 私は蒼司をまっすぐに見返す。


「……それで? この家を出てどうしようって言うんだ? 言っておくが、絵の描けないお前が適当に生きていけるほど、世の中は甘くないぞ。それに……私だって、そこまで弱っている人間を追い出すほど、鬼じゃない」


「立夏……」


「……辛かったな、蒼司。今まで自分の全てだった絵が、描けなくなったんだ。私は絵を描かないから完全に理解することは難しいが、どれほど苦しかったのかは、何となく想像がつく。絵の描けないお前なんて、エラ呼吸のできない魚と一緒だろうからな」


「……」


 別に、蒼司の境遇に同情したわけじゃない。ただ、私は私の感じたことを、率直に言葉にした。


 腹が立つところも確かにたくさんあるが、蒼司は絵に対してだけは、間違いなく真摯だった。それがうまくいかなくなってしまったのだから、蒼司にとっては全てを失ったのと同じだろう。


 すると蒼司は、微かに瞳を揺らす。私がそんな事を言うとは思っていなかったらしく、ひどく驚いたようだった。だが、何よりかけられた言葉そのものに、強く心打たれたようだ。


 その時、私はふと思った。確かに蒼司は、東京で大きな成功を掴んだのだろう。でも、その胸中を打ち明けられる人は、蒼司のそばにいなかったのではないか。


 スランプについて相談し、悩みを打ち明けられる人が、東京には誰一人いなかったのだ。



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