第23話 朝田さん、襲来
その日の夜、蒼司は久しぶりに母屋で私たちと一緒に夕食を取った。
舞夏と晴夏が、たまには一緒に食事をしようと、蒼司を熱心に誘った結果らしい。
私は正直なところ、「余計なことを」と思ったが、それは黙っておくことにした。いちいち蒼司と喧嘩をするのも大人げないし、そもそも面倒くさい。だから食事中も、できるだけ蒼司とは目を合わせずに過ごした。
実際、蒼司の相手は、ずっと舞夏と晴夏がしていたし、特にそれで不都合も無かった。ばあちゃんは、私と蒼司が視線も合わせない事に気づいたかもしれないが、その時は特に何も言わなかった。
食事が終わり、ゆっくり茶を飲んでいると、ばあちゃんは顔をしかめて捻った方の足をさする。
「ばあちゃん、足が痛むのか?」
私が心配して尋ねると、ばあちゃんは困り顔をして笑った。
「だいぶ、治ってはきているんだけどね。夜になると、少し痛みがでるんだ」
「大丈夫? 揉んであげようか?」
舞夏や晴夏も心配そうだ。ばあちゃんの怪我は、確かにちょっと長引いている。
「それよりは、風呂に入りたいね」
「分かった。私、風呂掃除してくる」
私は居間を飛び出し、風呂場へ向かった。掃除を終え、湯を張り、浴槽が湯で満たされると、ばあちゃんはさっそく風呂場へ向かった。
「ありがとね、あんた達。それじゃ、私は先に風呂へ入ってくるからね」
ばあちゃんが居間を出てから暫くして、蒼司も立ち上がる。
「……さてと。それじゃ僕も、そろそろお暇しようかな」
すると、晴夏と舞夏も立ち上がり、蒼司との別れをいたく惜しんだ。
「蒼司くん、また夕飯を食べに来てね。いつも離れで一人じゃ、何ていうか……淋しいでしょ? 蒼司くんさえ良かったらだけど」
「そうだよ! あたしも、また一緒にご飯たべたーい! 今日はとても楽しかったよ!」
「ははは、ありがと。僕も楽しかったよ」
蒼司はただ、すぐそこの離れに戻るだけなのに、ちょっと大袈裟すぎじゃないか。私はそう思ったが、余計な口は挟まず、ちゃぶ台に肘をついてテレビを見ていた。
蒼司が最近、母屋を避けていたのは明らかだ。原因は大方、私とやりあったせいだろうが、あの時は私もちょっと言い過ぎたという後悔がある。蒼司に対して負い目があるため、黙っていることにしたのだ。
その時、不意に玄関から呼び鈴の音がする。晴夏と舞夏は不思議そうに顔を見合わせた。
「誰だろ? もう八時近くなのに」
「僕が出ようか?」
「いや、いい。私が出る」
私はそう言って、蒼司を制した。来客が誰だかは分からないが、母屋に来たという事は、結城家の人間に用があるという事だ。蒼司が出たとしても、私たちの誰かが出直さなければならない。そんなの、二度手間だ。
舞夏たちを居間に残し、私は母屋の廊下を抜けて玄関へ向かった。解錠し、引き戸を開けると、女性が一人、玄関先に立っていた。
ユルフワ系のボブカットに、襟ぐりの開いたカットソー、そしてハイウエストのロングスカート。外は小雨が降り出しているのか、肩やスカートの裾が、少し濡れている。ひどく緊張した面持ちで、頬は心なしか赤らんでいる。
(あれ、この人……?)
どこかで見たと思ったら、蒼司の運転するワゴンの助手席に座っていた女の子だ。確か、蒼司が講師をしている、専門学校の生徒さん。
一方、ユルフワ系の女性も、姿を現した私を見て、ひどく驚いた顔をした。
「えっ……? あなた……確か、月宮先生がお世話になっている人の、お孫さんだっていう……? まさかあなた、先生と一緒に住んでるの?」
「まあ、ここは私の家なんで。蒼司は私の、遠い親戚なんです」
淀みなく答えると、女性は少し拍子抜けしたように呟いた。
「あ、何だ親戚……そうなんですね」
「……何か御用ですか?」
「あ、えっと……私、朝田真悠といいます。夜分遅くにすみません! 月宮先生はご在宅ですか!?」
朝田と名乗った女性は、ちょっと力みすぎじゃないかと思うくらいの勢いで、そこまで一気に捲し立てた。それだけを私に告げるのに、よほど勇気を要したのか、その後で真っ赤になってしまうというおまけつきだ。
「ええ、まあ……いますけど。ちょっとお待ちください」
そう答えると、朝田という女性は、顔を赤くしたまま表情を強張らせた。両手を握りしめ、いたく緊張している模様だ。
一連の表情の変化から、彼女が何を目的にこの家まで乗り込んできたのか分かってしまった気がしたが、まあ、それは私には関係の無い話だ。ともかく彼女は蒼司の客なのだから、あとは蒼司に任せよう。私は朝田さんをその場に残し、居間へ戻った。
すると、晴夏がさっそく質問をぶつけてくる。
「立夏、誰だったの?」
「蒼司、お前に来客だぞ」
「客? ……僕に?」
「朝田真悠さんという女性だ」
「朝田さん……? ああ……」
蒼司はすぐにその名に見当がついたらしい。しかし、その表情はどこか浮かない様子だった。蒼司もまた、朝田さんが何をしにここまで乗り込んできたのか、心当たりがあるからだろう。
蒼司は私たちに「それじゃあね。今日はごちそうさま」と言い残し、玄関の方へ向かう。そして朝田さんを連れ、母屋の外へと出て行った。一方、居間に残った私に、舞夏が詰問する。
「ねえ、朝田って誰?」
「蒼司は専門学校の講師もしているんだ。そこの生徒さんだよ」
すると、その情報は舞夏と晴夏も完全に初耳だったらしく、驚いた顔をする。
「そうなんだ……でも立夏、よくそんなこと知ってるね?」
「たまたま、出くわしたんだ。蒼司が生徒さんたちと一緒にいるところを」
「でもさー、ちょっと非常識じゃない? いくら蒼ちゃんの生徒だとはいえ、こんな時間に自宅まで乗り込んでくるなんてさー」
「放っといてやれ。締め切り間際の課題を提出しに来たとか、進路とかの相談をしに来たとか……そういう用件かもしれないだろ」
文句を言う舞夏を、私はそう言って宥めた。もっとも、その可能性が低いことは、朝田さんの反応から見て明らかだった。
あれは、困り果てた人間の反応ではない。何かに突撃し感情をぶつけようとするときの、興奮状態にある人間の仕草だ。
「蒼ちゃんも大変だねー? こんな時間まで生徒さんの対応しなきゃいけないだなんて」
「そうだね。でも、蒼司くんがちゃんと講師をしてる姿っていうのも、何だか新鮮だね。今まで、絵を描いているところしか見たことなかったから……」
舞夏と晴夏は互いに顔を見合わせ、呑気に会話を交わしている。
一方、蒼司と朝田さんは、母屋のすぐそこで話をしているらしい。つい先ほどから小雨が降り始めたようだが、朝田さんも蒼司も傘を持っていない。だから、母屋の軒下で雨を凌いでいるらしい。そのせいか、二人の会話を聞く気が無くても、窓越しに聞こえてきてしまう。
「よく、この家に辿り着けたね」
「専門学校でいろいろい聞いて……調べたんです。どうしても、先生に会いたくて……!」
「そう。それで、僕に用って何?」
「あ、あの……その……」
「……何?」
しどろもどろの朝田さんに対し、蒼司はどこか冷ややかだった。途轍もなく嫌な予感がしたが、無関係の第三者である私が割り込んでいって、どうこうできるはずもない。
ただ、何となく二人の事が気になって、私たち三姉妹はみな居間に留まっていた。
舞夏は無節操に好奇心をあらわにしているし、晴夏は盗み聞きをしている事に対して気が咎めるのか、気まずそうにしているものの、興味はあるらしい。
私は……私は何のためにここにいるのだろう?
蒼司と関わり合いになりたくなければ、自室に戻ればいいと分かっているのに。どうしてそれができないのか、自分でもよく分からない。
その間も、蒼司と朝田さんの会話は続く。
「あの……あのぅ……せ、先生には今、お付き合いしている女性はいないんですよね!?」
「まあ……そうだけど」
「わ、私……先生の事が好きです! 先生にとって私はまだ子どもかもしれないけど……それでも、先生の事が好きなんです!!」
「それってつまり、僕と付き合いたいということ?」
「えっ……い、いえ、その……」
「この間も言ったと思うけど、君はあくまで僕の生徒だ。それ以上の関係になるつもりは全くないよ。今の仕事を失いたくないしね」
「……!」
「それに、こんなところまで押しかけて来られたら、正直、困るんだけど。僕はこの家の居候みたいなものだから、家の人たちにも迷惑がかかってしまうし」
「す……すみません。私、何も知らなくて……!」
蚊の鳴くような声で謝罪する朝田さんに対し、蒼司は乱暴に溜息をつく。
「取り敢えず、今日は帰った方がいい。駅まで送っていくから」
しかし、朝田さんは引き下がらなかった。
「ま、待ってください! 先生は……月宮先生は私のこと、どう思ってるんですか!?」
「どうって、さっきも言った通りだよ。君はただの生徒だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「だったら、もし私が先生の生徒じゃなかったら……? 先生とか生徒とか、そういう立場の壁が無かったら、私のこと好きになってくれますか?」
「さあ……それは分からないけど。でも、その仮定自体、あまり意味が無いんじゃないかな。現に僕たちは講師とその教え子なわけだし」
「で、でも……私……それじゃ諦めきれません!」
「そんな事を言われてもね。それは君の問題でしょ。そもそも、僕のどこがそんなに好きなの? 顔?」
「違います! あ、いえ、その……確かに先生はかっこいいと思いますけど。画家として実力があって、指導力もあって、とても……とても優しくて。私、先生のそういうところが好きなんです!」
「……あのさあ、何度も言うけど、それは君たちが僕の生徒だからだよ。その言葉を聞く限り、君が僕の事を客観視することが出来ているとは、とても思えないんだけど。ともかく一度、家に帰って、頭を冷やしてみたら?」
「い……嫌です! そんな風にはぐらかして、適当にあしらって……そんなの卑怯です! 先生の本当の気持ちを教えてください!!」
「僕の気持ちは、最初からはっきり言ってるじゃない。『分かったよ、好きだ。付き合おう』……僕がそう言えば、君は満足なの?」
朝田さんと蒼司の会話は段々、雲行きが怪しくなってきた。盗み聞きをしているとはいえ、聞いてるこっちがハラハラしてくる。
朝田さんは、見た目は大人しそうだったけど、恋愛に関しては結構、粘るタイプみたいだ。蒼司は多分、そういうタイプは苦手だろう。そのせいか、声にもますます険が混じっている。
私と同じことを感じたのか、舞夏が小さな声で、晴夏と私に話しかけてきた。
「何か……蒼ちゃん、怒ってない?」
舞夏は蒼司が腹を立てるところをあまり見たことが無い。だから、不機嫌な蒼司に驚いているのだろう。
「怒っているというか、苛ついているんだろ。まったく……誰にでもいい顔をするから、ああなるんだ。自業自得だな」
そら見ろ、言わんこっちゃない。私は、フン、と鼻を鳴らしながら吐き捨てた。それを見ていた舞夏は、呆れて突っ込む。
「相変わらず辛辣だねー、立夏は。まさかとは思うけど、蒼ちゃんにやきもちを焼いてるんじゃないよね?」
「おい、名誉棄損だぞ。謝れ、バカ舞夏!」
「何よ、バカって言う方がバカでしょ!」
低レベルな争いを始めてしまう私たちだったが、何かに気づいた様子の晴夏が、それをバッサリと遮った。