第20話 始まりの時
何で悠衣が気を利かせてくれたのに、わざわざこっちに話しかけてくるんだ。
もう少しで蒼司を罵倒しそうだったが、私はどうにかそれを堪えた。こういった時は、無視する作戦が一番だ。
私は、画用紙をガバッと両手で隠す。そして蒼司から視線を逸らしながら、強張った声で答えた。
「いえ、大丈夫です」
「何が大丈夫なのかな?」
「ちゃんと描いてるので、大丈夫です」
「それは、見てみないと分からないよ。大丈夫、恥ずかしくないから」
蒼司は私の机に腕を突き、こちらを覗き込んできた。おかげで、私はますます首を捻る事となる。捻りすぎて、ムチ打ちになりそうなレベルだ。
(顔が近い! わざとやってるだろ、こいつ……!)
すると案の定、他の女子生徒が、ひそひそと聞こえよがせに会話をする。
「何やってるの、結城さん……? 何か、月宮先生と近くない?」
「さあ? ああやって先生の気を引きたいんでしょ。わざとらしい」
(ああくそ……滅べ、恋愛脳どもめ!)
しかし、いつまでもひそひそと謂われの無い中傷を受けるのは、私としても不本意だ。どうにかして、こいつを追い払わなければならない。
私は蒼司の方へ顔を回すと、にっこりと笑ってやった。蒼司がよくやるように、すっかり猫を被って。
「月宮先生、他の人を見てあげてください。こちらはうまくやってますので。どうぞ、お気遣いなく!」
すると、悠衣が小声で囁きながら、慌てて私の脇を小突く。
「りっちゃん! 顔、顔! めっちゃ怖いよ!」
(無理を言わないでくれ、これでも精一杯なんだ!)
自分では猫を被っていたつもりだったが、どうやら被りきれていなかったようだ。怒涛のような殺意は、どれだけ隠そうとも滲み出てしまうのだろう。
それを見た蒼司は、私から体を離し、鼻の頭を掻くような仕草をした。一見、さり気ない仕草だが、私には笑いを堪えているのが見え見えだ。
「……そう。あまりうまくやれてるようには見えないけど……頑張ってね」
蒼司は笑いを押し殺してそう言うと、ようやく私たちのそばから離れて行った。私は、ほっと息をつく。ほんの少し会話を交わしただけなのに、何だか、どっと疲れを感じる。顔の表情筋が強張っているのは言うまでもないが、全身の筋肉までがガチガチだ。
「りっちゃん、大丈夫かーい?」
「ああ……。魂が抜ける一歩手前だがな……」
「本当に月宮先生が苦手なんだねー。っていうか、りっちゃんにも苦手なモノがあるのが意外だったよ」
悠衣はそう言うが、私にだって苦手なものの一つや二つはある。腹が立つのは、蒼司は私が自分(蒼司)と接触したがらない事を知っているだろうに、それでもわざと声をかけてきたということだ。
水瀬先生もいるのだから、無理に声掛けをする必要はどこにもなかった。蒼司はただ、私を驚かせ、その反応が見たかったのだろう。
(蒼司め……なあーにが、『うまくやれてるようには見えない』だ! 一体、誰のせいでそうなったと思ってるんだ!?)
難が去ると、緊張が解れたのもあって、だんだん苛々してきたが、どうにか怒りを押し殺した。今は授業中だし、怒りで手元が震えたらアクリル絵の具をはみ出してしまう。
ただ、気が鎮まって来ると、今度は別の事が気になって来た。
(どうも、妙だな。蒼司のやつ、アトリエで絵を描くんじゃなかったのか……? わざわざ一週間かけて離れをリフォームまでしたのに。高校で授業を受け持っていたら、その分、絵の制作時間が減ってしまうんじゃないのか?)
離れをあっという間にリフォームしてしまうくらいだから、蒼司は今、経済的には困っていないのだと思う。教職につかなければ日々の生活もままならないというような、切羽詰まった状況ではない筈だ。
だからこそ、分からない。蒼司が一体、何を考えているのか。
その時、不意に昨夜の事を思い出した。蒼司のアトリエとなった離れへ向かった時、蒼司が無表情でキャンバスに向かっていたその姿を。
それを見た私は、正直に言うと、内心でひどくぎくりとした。私は、子どものころから、蒼司が絵を描く姿を幾度となく目にしてきている。しかしそれでも、蒼司のあのような顔はこれまで見たことが無い。
まるでどうしたらいいのかと途方に暮れるような、或いは目の前に絵など存在しないかのような、そんな虚ろな表情だった。
(もしかしたら、だけど……蒼司は絵画制作があまりうまくいっていないのかもしれないな……)
はっきりと確証があったわけじゃない。でも、何となくそう思った。蒼司は今、何らかの事情があって、絵画制作に集中できない状況にあるのではないか。そうでなければ、蒼司が教師だなんて、一番らしくない事をするはずがない。
(まあ……真相はどうであろうと、私の知ったことじゃないがな。それより、どうすればいいんだ……? もし本当に、放課後も蒼司と顔を突き合わさなけりゃならないのだとしたら、気が重すぎて死んでしまう……!)
やがて授業の終わりが近づき、時間内に完成しなかった生徒は、期限まで仕上げて提出するようにと水瀬先生が指示をする。
私はさっさと後片付けを済ませると、逃げるようにして美術室を後にした。教室に戻ると、どっと疲労が押し寄せてきて、その後に待ち受けていた校内清掃には全く身が入らなかった。
せめてもの救いは、この後に他の科目の授業が無かったことだろう。もし、テストなどあった日には、赤点間違いなしだった。
放課後、悠衣は一緒に部活へ向かおうと誘ってくれたが、私はばあちゃんの手伝いがあるからと適当な理由をつけ、そのまままっすぐに帰宅したのだった。
「蒼司、話がある!」
夕飯を食べ終わった後、私は母屋を飛び出して蒼司のアトリエへと乗り込んだ。もう二度と、離れには近づかないつもりだったが、事情が完全に変わってしまった。
何故、蒼司が私の通う高校で美術教師など始めたのか、その理由を聞き出さなければ、とても気持ちが収まらなかったのだ。
ところが、離れで私を出迎えた蒼司は、憎たらしいほどにけろりとしている。
「やあ、立夏。どうしたの? すごい剣幕で」
「どうしたもこうしたも無い! お前……何故うちの高校で、美術教師なんて始めたんだ!?」
「ああ、あれ? 僕、実は大学にいた頃、教員免許を取ってたんだ。絵で食べていけなかった時のために、何かの資格があった方がいいかと思ってさ。まあ、教師と言ってもクラスは受け持っていないし、あくまで非常勤なんだけどね」
蒼司はさらりとそう答えた。まさか蒼司が、教員免許を取得していたなんて。私は衝撃のあまり、肩を戦慄かせる。
「なんて恐ろしいことを……お前なんて、一番、教師になっちゃいけない類の人間じゃないか! 目的は何だ? 女子高生漁りか!?」
「ひどいこと言うなあ。……まあ、否定はしないけど」
「やっぱりか。美術室でも、女子に囲まれて終始ご機嫌だったもんな!」
「あれ、もしかして妬いてるの、立夏?」
「違うわっ! そもそも、自分が地球上の全女子から無条件に好意を持たれているんだという、その根拠のない自惚れをまずは何とかしろ!」
「分かってるよ。今のはただの冗談。そんなに心配しなくても、君の同級生は誰一人として、僕に対して本気じゃないよ。カッコイイとかイケメンとか、あんなのただの社交辞令さ」
「でも……!」
「別に女子高生だけが目当てなんじゃない。僕は高校生そのものに興味があるんだ。彼らは感性が豊かでとてもエネルギッシュで、未熟だけどそれ故に可能性に溢れている。そういった世界に、僕ももう一度触れてみたかった。……ただ、それだけさ」
「……」
蒼司にしては、思ったよりまともな理由がその口から飛び出してきて、私は少し拍子抜けした。どうやら、私が思っているよりは、まともに教師を務めるつもりであるらしい。
でも、ここで大人しく引き下がるわけにはいかなかった。
「でもそれにしたって、他にも高校はいくらでもあるだろ! 何もわざわざ、虹ヶ丘に来なくても……!」
すると蒼司は、心外だとばかりに反論する。
「別にわざと虹ヶ丘に狙いを絞ったわけじゃない。この辺で美術教員の空きがある学校が、虹ヶ丘高校だったというだけの話だよ」
「くっ……! なんて……何て間が悪いんだっ……!」
「まあ、そういう事もあるよ。諦めた方が賢明じゃないかな」
蒼司はあくまで他人事で、私に迷惑をかけているとは微塵も思っていない口調だった。私の視線は自ずと恨みがましいものとなる。
「お前が……蒼司が美術教師を辞めれば、一発で全てが解決するだろ!」
「そりゃ、僕は別にそれでもいいけど……水瀬先生はどうなるの? 彼女は責任感が強いから、代役もないまま休職なんてことになったら、それは大層、心残りなんじゃないかな? 下手をすると、体に障るかも」
「うう……卑怯だぞ、蒼司!」
「何が? 僕は何もしてないでしょ。それより、立夏は今日、美術部を休んだよね?」
そう尋ねられ、私はぎょっとして目を見開いた。
「……!! な、何でお前がそれを知ってるんだ……!? まさか……!!」
「僕、美術部の顧問も兼任することになったんだ。部活は授業と違って義務じゃないけど、無為に休むのはよくないと思うよ。明日からは、ちゃんと部活においで。……いいね?」
まさかとは思っていたが、本当にそうなってしまうとは。これで美術の授業はもちろん、部活動においてまで、蒼司と顔を合わさなければならないという事になる。
私は絶句すると、入口近くにあるテーブルのそばにあった椅子に、へたりと座り込んでしまった。
「もう……怒鳴る気力すら、湧いてこない……!」
「大丈夫? 疲れてるんじゃない? 顔色が悪いよ」
「お前が言うな!! 何で嫌いな奴と、部活まで顔を合わさなけりゃならんのだ!?」
涙目になって怒鳴ると、蒼司は急に真剣な顔になった。
「……。ねえ、立夏。その事なんだけど……僕、ずっと考えてたんだ。どうして立夏が僕の事を嫌いになったのか。立夏は最初、僕を慕ってくれていたでしょ? つまりいずれかの地点でその気持ちが『嫌い』に転じてしまったということだよね。
それで考えたんだけど……ターニングポイントとなったのは、昔、二年目にこの家へ滞在した時のことじゃないかな。あの年は確か僕、立夏たちと一緒に夏祭りに行く約束をしていたよね。でも、結局その約束を破ってしまった。立夏はその理由を知っていたんじゃないかって……そう思い当たったんだ」
「……!!」
僅かに体を強張らせた私を、蒼司は見逃さなかった。小さく溜息をつくと、困った様子で自らの髪を掻き上げる。
「やっぱり、そうなんだ。今更かもしれないけど、あれは誤解だよ。どうしても抜けられない用事ができてしまって……本当は約束を破るつもりは無かったんだ」
「どうしても抜けられない用事か。それって、河原でよその女性とイチャイチャして、キスをしていた事か?」
今さら、ありきたりな言い訳など聞きたくない。低い声で言い返すと、蒼司もさすがに反論は不要と悟ったらしく、それ以上は弁明しなかった。
「……! そうか……やっぱり、知ってたんだね。……ごめん。僕は立夏を傷つけたのかな?」
「ふざけるな! お前がどこで何をしようが、完全にお前の勝手だ! 何で私が、それでいちいち傷つくんだ!?」
「それじゃ、何が原因なの? 立夏は僕の何がそんなに許せないのかな?」
「それは……!」
私は僅かに言い淀んだけれど、それを口に出すことにした。この話をしたら、また蒼司と喧嘩になってしまうかもしれない。それでも、この際だからはっきりさせたかったのだ。