第18話 賢い選択
「だって、この家で僕の事を嫌っているのは立夏だけなんだから、立夏と仲良くなったら全ての問題が解消して平和に過ごせるって事じゃない。立夏は嫌がらせというけど、それは誤解だよ。正攻法で攻めても立夏は嫌がるだろうから、斜めから攻めてみたというだけ」
「お前の言う事は、全く以って意味不明だ。孤独だったという昔ならいざしらず、何で今さら私と仲良くしたいんだ? 田舎臭い珍妙な女子高生と仲良くしたって、お前に何か得することがあるとも思えないが……何を企んでいるんだ?」
すると、蒼司はさすがに、ムッとしたようだった。
「……あのさ。僕だって一人の人間なんだから、もし特別な好意なんて何も無かったとしても、周囲の人たちと上手くやっていきたいと思うのは当たり前のことでしょ。そもそも立夏は、どうして僕の事が嫌いなの? 小さい時はあんなに僕に懐いていたのに」
「そりゃ、私は子どもで、何も知らなかったからな。私がお前を嫌いな理由……? そんなの簡単だ! お前がイケメンで、尚且つそれに胡坐をかき、女を平気で泣かせるような奴だからだ!」
「でも僕は、立夏を泣かせたことはない」
「それは……!」
それは確かにそうだ。蒼司の言う通り、私は蒼司から直接、泣かされたことはない。だから、実害を被るまで、蒼司の欠点には目を瞑り、表面的には仲良く付き合うという方法もあるのだろう。
でも、そうすることに何か意味はあるだろうか。私は蒼司の持つ別の一面を知ってしまった。知っているのに知らないふりをして、物分かりのいい人間を演じるなんて、控えめに言ってもまっぴらだ。
「立夏がどう思っているか知らないけど、僕にだって心はあるよ。ひどい言葉をぶつけられたら、傷つくこともある。立夏は僕のことをイケメン呼ばわりするけれど、一人の人間として見てはくれないんだね」
「おまっ……お前がそれを言うか!? お前が泣かせた大勢の女性たちにも、心はあるんだぞ! それが分からないのか!?」
さすがに聞き捨てならないと思い、私は声を荒げてしまった。蒼司が何を考えようが自由だが、被害者面するのだけは絶対に何か違う。
すると、蒼司は急に冷ややかな目になった。昔、一斗缶で、女性たちからのプレゼントを焼き捨てていた時の、突き放すような瞳だ。
私の大嫌いな、蒼司の持つ別の一面。
「ああ、彼女たちか。心配する必要はないよ。あの子たちは、相手がイケメンであれば誰でもいいんだから。僕なんてブランド物のバッグや服と同じさ。自分を良く見せたいだけなんだ。別れる際に激しく取り乱し泣いて見せるのは、僕に少しでも罪悪感を植え付けてやろうという復讐心がそうさせているのであって、決して本心じゃない。
その証拠に、みんな次の日にはコロリと機嫌を直し、また別のイケメンと腕を組んで歩いているんだ。僕と彼女たち、卑怯で残酷なのは一体どっちだろうね?」
(こいつ……!)
だから、そういうところだぞ! 私は蒼司にそう言ってやりたかった。
確かに、蒼司の言うような下心を持つ女性も中にはいるだろう。でも、全ての女性がそうだというわけではないし、実際に蒼司の元を訪れた女性の中にも本気だった人はいた筈だ。
そうでなければ、東京なんて遠いところから、わざわざ蒼司を追いかけてくるわけがないではないか。蒼司の言う事は、あまりにも一部に偏った暴論だ。
喉元まで出かかったその言葉を、寸手のところで飲み込んだのは、蒼司と言い争うのもだんだん疲れてきたからだった。
それに、これ以上、感情に任せてこの話を続けたら、うんざりするレベルで不愉快になりそうな気がする。私だって、好んで蒼司と対立したいわけではない。
「もう、この話はやめだ。私は帰る。邪魔したな」
「……。そうだね、おやすみ」
怒っているのか、蒼司の声にもどこか剣呑な響きがあった。でも、弁解するつもりは無い。
蒼司は間違ってる。私にも間違っているところはあるかもしれないが、蒼司の間違いは周囲だけでなく本人ですら不幸にしてしまう。
だから、許せないのだ。
それなのに、お茶を濁してご機嫌取りなんて、意味の無いことはしたくない。
私は足早にアトリエを後にする。まっすぐに母屋へ向かいながら、蒼司の挑発に乗ってアトリエに入り込んだことを、少しだけ後悔していた。
(……どうも蒼司と顔を合わせると、いつも喧嘩になってしまうな。多分、根本的に相性が良くないんだろうな、私たち)
蒼司とは少し距離を取った方がいいかもしれない。私はふとそう思った。相性が最悪でも、互いを無視しあえば喧嘩は起こらない。
無視は基本的にあまり良い事だと思わないが、こういった場合には、そういう選択をするのも一つの手だ。いずれにせよ、蒼司がもし、このままこの家に居続けるつもりなら、何某かの対策を立てなければならないだろう。
喧嘩すると、相手がだれであれ気分が悪くなるし、何より疲れる。
(やれやれ……面倒くさいな)
仕方がないとはいえ、無視なんて性に合わない。他に何かうまくやれる方法があればいいが、生憎と私はそこまで大人じゃない。
私は人知れず、溜息をついたのだった。
次の日の朝、目が覚めていつものように一階へ下りると、蒼司が昨日と同じく弁当を作っていた。
蒼司は私に気づくと、やはり昨日と同じように声をかけてくる。昨晩、アトリエで少々やりあったせいか、声音はちょっと硬い。
「おはよう、立夏ちゃん。はい、これ。お弁当」
「……。ありがと」
「……ふうん? 今日はちゃんとお礼を言ってくれるんだ?」
「まあ、作ってもらったのは事実だからな」
「妙に大人しいね。いつもの毒舌はどうしたの?」
私は食パンをトースターの中に放り込みながら、蒼司の方は見ずに答えた。
「いつまでもいがみ合っていたって、仕方ないだろ。思ったんだが、私たちは互いにもっと大人になるべきだ。私は学校があるし、蒼司はアトリエがある。顔を合わせないように努力すれば最低限の接触で済むし、昨夜のように喧嘩をする回数も劇的に減る。互いに、そういった賢い選択をすべきなんじゃないか?」
すると、視界の端で、蒼司の瞳に性悪な光が瞬くのが見えた。
「賢い選択……か。なるほど。立夏は頭がいいんだね」
「ま、そういうわけだから……」
しかし、蒼司は私の顔へずいと自分の顔を寄せる。
私はぎょっとして、大きく仰け反り、その弾みでゴンと後頭部を食器棚の扉に打ち付けてしまった。これはいわゆる、「壁ドン」とかいう体勢ではないか。少女漫画における超無敵必殺技だ。
でも、実際にされてみても、ぜんっぜん嬉しくない。
けれどそれでも、蒼司は私から身を離す気配が無かった。
「な、何だよ?」
「でも、それはとてもつまらないよ。……僕はね、立夏。退屈と無味乾燥が大嫌いなんだ。たとえ喧嘩でも構わない。立夏はいつも、僕を楽しませてくれる。それを『賢い選択』なんて下らないもののために、裏切って欲しくないんだけどな」
「何言ってんだ、お前……? もはや、訳が分からん。一体、何様なんだ!?」
もう一言か二言、何か罵倒してやろうと思ったが、私はぐっと喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。蒼司との喧嘩は避けると、昨夜、心に決めたばかりだ。
私は蒼司を押しのけ、用意してくれた弁当箱を引っ掴むと、トースターに入れたパンの存在を無視して踵を返す。これ以上、蒼司と同じ部屋の中にいたら、また喧嘩をしてしまいそうだ。
「……ともかく、私はもう学校に行く。それじゃあな」
すると、私の背中に向かって、蒼司が思わぬ言葉を発した。
「うん。……また後でね、立夏」
(『また後で』……? どういう意味だ?)
どうせ、学校から帰って以降の事を言っているだろう。その時の私は、そう判断した。
できるだけ美術部で時間を稼ぎ、遅めに家へ戻るか。そんな事を考えながら、登校の準備を終えた私は、晴夏や舞夏の顔もろくに見ず、さっさと家を後にしたのだった。
その日は、美術の授業がある日だった。悠衣は朝からずっと、授業を楽しみしていた。
私は朝食を抜かしたせいで、午前中は辛くて仕方なかったが、弁当を食べてからは、それもようやく落ち着いてきた。
因みに、蒼司が今日、作った弁当には、何も悪戯はしかけられておらず、ほっとした。まったく、何で弁当一つで、こんなに警戒しなければならないのか。蒼司に向かって、平穏な日常を返せと言ってやりたい気分だった。
悠衣は美術部に入ったからか、昼食の時から美術の授業の話ばかりだ。
「今日の美術の授業は何だろ? 油絵はまだかな?」
「どうだろうな? まだもう少し先なんじゃないか? 今日持ってくるように言われていたのはアクリル絵の具のセットだし」
「そっか、そうだよねー。でも、油絵は楽しみだな。最初は何を描くんだろ?」
「うーん……やっぱ、最初は校内の風景とかじゃないか? そうでなかったら、自画像とか……」
思い付きでそう言うと、悠衣は悲しげな顔をした。
「ええー、あたし人間を描くの苦手だなー。できれば、校内風景の方がいい」
「確かに人の顔とか、左右のバランスが激ムズだもんな。私も苦手かも」
「あはは、分かる、分かる! あたしも中学生の頃、自画像を描かされたんだけど、めっちゃ寄り目になった覚えがあるよ。普通に、真剣に描いてるつもりなんだけどねー。何かヘンな顔になっちゃうの」
「私もだ。自画像あるあるだな」
そんな話をしていたら、あっという間に選択芸術の時間になった。私と悠衣は、揃って芸術棟へと向かう。最近の私にとって、完全に学校生活が癒しになっている。
(ああ、蒼司の奴と顔を合わせずに済むというだけで、これだけ心が軽くなるなんて……学校は天国だ。ストレスフリー、万歳だな!)
ささやかな幸せを噛みしめているうちに、美術室へ到着した。そこでしばらく悠衣とお喋りをしていたが、やがて休憩時間が終わってチャイムが鳴る。
席に着くと、すぐに美術担当の水瀬先生が教室へ入って来た。水瀬先生は生徒に着席を促すと、授業開始の挨拶をする。それから、真っ先にこう切り出した。
「えー、今日は先に話しておくことがあります。実は先生、これから産休に入るの」
すると、教室が俄かに騒然となった。男子生徒も女子生徒も、みんな驚いている様子だ。その理由は私にも分かる。水瀬先生はいつも体のラインが出ないゆったりした服装を着用しているから、そうだと気づかなかったのだ。元気のいい男子生徒が、さっそく大きな声で言った。
「先生、おめでとうございます!」
「うん、ありがと」
「でも、授業の方はどうなるんですか?」
「その事なんだけど、次回から臨時の先生に授業を担当していただくことになります。……月宮先生、入ってきてください」
(ん……? 月宮……先生……!?)