第16話 離れのアトリエ
「因みに、文化祭や全国展の絵は大体、大きさが決まってるよ。ほら、油絵だとあれくらいにサイズ」
望月部長が、教室の一角を指差した。イーゼルの上に、縦は一メートル五十センチ近く、横も一メートル近くある絵画が並んでいる。
「でか……!」
「あんな襖みたいな大きさの絵を、本当に私たちに描けるんですか?」
ちょっとした看板くらいはあるように見える。一枚仕上げるのに、何年かかるだろう。驚いていると、望月部長は片手を振って笑った。
「大丈夫、大丈夫! やってみたら、案外いけるものだから。まあ、最初はもうちょい小さな絵から入るけどね。ほら、このキャンバスとかFの六号って言うんだけど、これなら大体、四十センチ×三十センチくらいだし、描きやすそうでしょ?」
「あ、確かにそうですね」
「画用紙くらいの大きさだな」
「二人とも選択科目は美術?」
「そうです」
「だったら、必要なことは一通り、授業で教えてもらえるね。アクリルセットや油絵具木箱セットも購入するようになってるだろうし。美術部でもジェッソとかアクリル絵の具とか油絵の具とか、ある程度は貸し出してるよ。でも、基本色しかないから、場合によっては、画材店で買い足さなきゃいけないかも。ほら、絵具ってすごい種類があるでしょ? 因みに、そっちは自費だから、覚えておいて」
「はい」
「イーゼルや画板なんかも貸出してるけど、キャンバスは各自で買ってもらう事になる。これがねー、結構、高いんだ」
「そ、そうなんですか……」
経済問題は避けては通れないものの、実際に直面するとやはりぎょっとしてしまう。ごく一部の例外を除いて、昔から画家は貧乏な人が多い気がするし、画材は高いという印象がある。
「聞いた話だと、そっちに進む人は普段から凄い枚数を描くから、木枠とかから全部、自分で作っちゃうらしいけどね」
「え、木枠から全部?」
「作れるんですか?」
「うん。まず、ホームセンターで木材を買ってきて、それをのこぎりで切って組み立てて、規定のサイズに合わせて木枠を造るでしょ。それにこの帆布みたいな布を張って、タックスっていう金具で留めていくの。そうしたら、コストをかなり抑えられるんだって」
「でも……大工仕事ができないと、難しいですよね……」
「そうだねー。私たちは、そんなに枚数を描くわけじゃないし、やっぱ業者さんから既製品を買うのが一番だと思うよ」
望月部長は、とても気さくで面倒見の良い人だった。いろんなことを、とても分かりやすく教えてくれる。他の部員もみな優しそうだ。
私は、内心で少しほっとしていた。スパルタ方針が悪いと言うつもりは無い。実際、体育系の部活に打ち込んでいる人を、眩しく感じることもある。ただ、そこに楽しさが無かったら、それはちょっと辛いと思うのだ。
私は絵の方面に進みたいわけじゃないし、どちらかというと活動内容より人間関係とかの方が気になる。でも、今日見た限りだと、特に諍いや確執のある部ではないようだ。
美術部で一通りの説明をされた頃、下校時間がやってきた。私は悠衣と途中まで一緒に、下校することにする。
悠衣は電車通のため徒歩だが、私は自転車なので、途中まで自転車を降り、それを押しながら悠衣と並んで歩くことにした。
「何だか、楽しそうな部だったね」
「ああ。あまり堅苦しくなさそうで良かった」
「だよねー。一生懸命にやるのもいいけど、やっぱ部活は楽しい方がいいかな」
「明日から頑張ろうな」
「うん!」
「それじゃ、私はこっちだから」
「また明日ね」
悠衣は私に手を振った。私は両手を自転車のハンドルに取られているから、頷きを返す。それから、自転車に跨って坂道を降りた。悠衣は駅まで歩いて行って電車に乗るそうだ。
私の家は、虹ヶ丘高校から北に上ったところにある。多少、道は上下するものの、俵山の後ろはすぐに山間部になるため、全体的には上り坂が多い。登校するときは楽だが、下校するときは大変だ。
(家では当分、美術部に入ったことは内緒にしておこう。ばあちゃんや晴夏、舞夏はともかく、蒼司には絶対に知られたくない)
私はそう固く心に決め、家路についたのだった。
家に帰ると、既に舞夏が家に戻っていて、居間でくつろいでいた。煎餅を齧りながら、少女漫画誌・『月刊ピュアラブ』の今月発売号を読んでいる。
今は漫画を描く方はそれほど忙しくないらしい。私に気づくと、雑誌から顔を上げて話しかけてきた。
「あ、おかえりー、立夏。遅かったね」
「うん、学校でちょっと……提出する課題を仕上げてた」
「ふーん? ……そういえば立夏、蒼ちゃんのお弁当はちゃんと食べた?」
「……まあ、一応な」
「美味しかったよねー! イケメンで料理も上手いなんて、ホント最強じゃん!」
「その……舞夏の弁当はどうだった?」
「どうって?」
「いや、白米に海苔で文字とか……」
言葉を濁しつつ尋ねると、舞夏は不思議そうに首を傾げた。
「文字? 何それ。確かに、ご飯の上に海苔は乗ってたけど、文字なんて何も無かったよ。
(つまり、あの『ざまあ。』は私にだけか。そんな事だと思った。まったく、蒼司のやつ……!!)
どこまでも性格の悪い奴め。蒼司は、舞夏と晴夏には、絶対に自分の嫌なところを見せないのだ。要領がいいのだろうが、被害に遭う方としては、殺意が湧いてくるレベルで腹が立つ。
苛々としながら台所へ行くと、ばあちゃんが夕飯の支度をしていた。怪我をしている時くらい、楽な格好をすればいいのに、今日もいつものように着物に帯を締めている。
「ばあちゃん、台所仕事して足は大丈夫なのか?」
「そりゃ、一日中、寝転んでいるわけにもいかないからね」
「私、二階で着替えてくるから。そしたら、手伝うよ」
「そうかい、助かるよ。歩くと、まだ痛みが残っているみたいでねえ。……ああ、いやだいやだ。これだから、齢は取りたくないよ」
「もー、ばあちゃんってば! 足を捻ってからそればっかじゃん」
ばあちゃんが後ろ手で腰をさすると、台所にやって来た舞夏が口を開いた。どうやら喉が渇いたらしく、冷蔵庫からアップルジュースを取り出して、コップに注いでいる。私はそれを見かね、舞夏の背中をべしっと叩いた。
「舞夏も居間で寛いでないで、ちゃんとばあちゃんを手伝え」
「いたっ! いったぁ……もう、立夏のバーカ!」
私服に着替えた私は、舞夏と二人でばあちゃんを手伝い、夕飯の準備をした。因みに今日のメニューは、キャベツの千切りと豚肉の生姜焼き、そして根菜の白和えとみそ汁だ。
やがて晴夏も学校から戻ってきたので、家族そろって夕飯を食べることになった。居間のちゃぶ台に全員が揃うと、舞夏はその中に蒼司がいない事に目ざとく気づき、ばあちゃんに尋ねる。
「……あれ? 蒼ちゃんは、いないの?」
「蒼司は離れだよ。絵を描くことに集中したいから、夕飯は後にするそうだ」
「そっか。蒼司くんは昔から絵を描くのが好きだったもんね。やっぱり、アトリエの中にいるのが落ち着くのかも」
晴夏がどことなく残念そうに言うのに対し、舞夏はあからさまに不服を口にする。
「なーんだ、残念。イケメンを見て心を癒されたかったのにー」
私はムッとして、舞夏を睨んだ。
「……。舞夏、お前のそれも大概どうかと思うぞ」
「えー、何で?」
「癒されたいとか……蒼司はペットじゃないだろ」
「いいじゃん、別にー。蒼ちゃんと付き合いたいって言ってるわけじゃないんだし、あたしは眺めてるだけで満足なんだから。蒼ちゃんには何ら実害が無くてあたしも眼福だし、みんな幸せじゃん。大体、立夏は蒼ちゃんの事が嫌いなくせに、こういう時だけは正義面するんだ? それって、なんかヘンじゃない?」
「私が言いたいのは、そういう事じゃなく……!」
蒼司は舞夏の前ではにこにこしているが、その好意には当然、気づいているだろう。そしてあいつは、おそらくそれを、特別なことだとは考えていない。自分が女性から好意を寄せられるのは当然、くらいの認識しかない。
いつか舞夏の好意が、何らかの形で悪用されてしまうのではないか。そう考えると、気が気でないだけだ。
それに、舞夏がきゃぴきゃぴして蒼司を持ち上げるから、あいつもつけあがるわけだし。私にとっては、いい迷惑以外の、何ものでもない。苛つきもしようというものだ。
「立夏も舞夏も、おやめ。食事中だよ」
ばあちゃんにぎろりと睨まれて、私と舞夏は慌てて口を閉じた。
「はあい……」
「ごめん、ばあちゃん」
「それから、立夏。食事が終わったら、蒼司の膳を離れへ運んでおくれ」
「な、何で私が……?」
ぎょっとして反論すると、ばあちゃんは事も無げに言う。
「何故って、社のお供えも、いつも立夏が持って行ってくれるじゃないか。嫌なら舞夏か晴夏に頼むしかないけれど……」
すると、ばあちゃんのその言葉を遮って、舞夏が挙手をした。
「あ、はいはい! 私が行く! 蒼ちゃんと離れで二人っきりなんて、超ラッキーじゃん!」
目を輝かせる舞夏のとなりで、晴夏も急にそわそわとし始める。
「舞夏、ずるい! いつもばあちゃんから用事を言いつけられた時は、何だかんだ理由をつけて逃げようとするくせに!」
「何よ、晴夏も離れに行きたいの?」
「えっ……べ、別にそういう事じゃ……! ただ、まだ離れには一回しか行ってないし、じっくり見たことが無いから、リフォームがどうなったのか興味あるし……」
「だったら、明日行けばいいじゃん。お膳はあたしが運ぶね」
「そ、そんな……ひどい……! 舞夏はいつもそうだよね。美味しいところばかり独り占めして……勝手すぎるよ!」
「はあ? あたしのどこが勝手なのよ? 晴夏が単にはっきりしないだけでしょ」
口論を始める舞夏と晴夏。あまりも不毛なその内容に、私は溜息をつく。
「……分かった。分かったからやめろ、二人とも。蒼司のところへは私が行く。それでいいだろ、ばあちゃん?」
「そうだね。それが一番、無難だろうね」
舞夏は頬を膨らませ、晴夏も残念そうにしていたが、二人とも声に出して反論はしなかった。ばあちゃんが決めたことは、この家では絶対だからだ。
食後にラップを施された膳を持って、蒼司のいる離れへ向かう。西の離れは母屋から見て、中庭を挟んだ反対側にあるため、私は膳を持ち、靴を履いて暗い庭を歩いた。
我が家は古いだけあって様々な曰くがあり、子どもの頃は夜に庭へ出るのが怖くて仕方なかった。私は実際に心霊体験に出くわしたことはないが、昔は珍しくない頻度で起こっていたらしく、ばあちゃんがその話を懐かしそうにするものだから、余計に怖くて仕方なかった。
私がばあちゃんにお社のお供えを頼まれたら、決してそれを断らないのは、そういった話の数々を今でも心のどこかで信じているからかもしれない。
でも、今や私も高校生になった。暗い庭を歩いて離れに向かうのも、すっかり慣れっこになっている。
離れは、元は農機具を置いていた納屋だ。二階建てであったため、古い建物ながら高さもかなりある。一階は物置きにし、二階では穀物を保存したり、養蚕をしていたこともあるらしい。
それをリフォームをした結果、蒼司は一階をアトリエにし、二階をプライベートスペースにしたようだ。
入口に近づくと、母屋の玄関とよく似た構えになっていた。一応、気を利かせて雰囲気を合わせたのかもしれない。
ノックをしようとしたが、扉の引き戸が僅かに開いているのに気づき、何とはなしに中を覗いた。
離れの中は完全に改装されていて、仕切りが一切なく、広々とした空間になっている。冷暖房も完備されていて、思ったより快適そうだ。
土を固めただけの床は、底上げされていて、フローリングになっていた。まるで、お洒落な和モダンのカフェみたいだ。
壁は障子が嵌め込まれていて、その前には巨大な絵がイーゼルに支えられ、ずらりと立て掛けられている。美術部の上級生が描いていた絵より、ずっと大きな絵だ。
蒼司はその真ん中で、キャンバスに向かっていた。
私は不覚にも、どきりとする。どんなに性格が悪い奴でも、真剣な姿というものはそれなりの魅力があるものだ。それに、あまり認めたくないが、絵を描いている蒼司を目にすると、昔の甘酸っぱい気持ちが甦って来る。
だが、よく見ると、蒼司の表情はどうも冴えない。無機質でなんの感情も感じられないのだ。
よく知らないが、創作する人間は、大なり小なりもっと集中していたり、生き生きしているものではないか。舞夏も漫画を描いている時は、普段のちゃらんぽらんさから想像がつかないほど真剣だ。
だが、キャンバスに向かっている蒼司は、そういった空気が全くない。どちらかと言うと、魂が抜けたかのような虚無が、その身を包んでいるように見えた。
(……? 蒼司のやつ、どうしたんだ……? キャンバスの前にいるのに、全く筆を動かす気配が無い……)