第15話 美術部に入ろうよ
「は~あ……」
午前の授業が全て終わり、教室で深々と溜息をついていると、悠衣が声をかけてくる。
「どうした、りつのすけ? 何かあった? 朝からずっと溜め息ついてるじゃん」
「まあ、ちょっと……家でいろいろあってな」
「そうなの? りっちゃんが深々と溜め息をつくくらいだから、よっぽど大変なんだね」
「大変というか……あれだな。ムカつくって感じだな」
「何があったの? 私でよかったら、話を聞くよ」
悠衣に話したからと言って、問題が解決するわけではない。でも、今は誰かに話を聞いて欲しい心境だった。晴夏や舞夏は、猫を被った蒼司にすっかり騙されている。家の中に、私の味方はいないのだ。
「話せば長くなるが……一週間ほど前、家に勝手に野良猫が棲みついたんだ。そいつは他の家族の前では猫撫で声で甘えまくってるくせに、私と二人きりの時は容赦なく噛みついてくる。どうにかして追い出したいのに、出て行かないんだ」
その野良猫が蒼司の事を指しているのは、言うまでもない。
「猫かあ……あたしは好きだけどな。でも、噛みついてくるのは確かに嫌だね」
「だろう? でも、悠衣に話を聞いてもらって、少しだけすっとした。その猫はしたたかで、家族の前では絶対に本性を見せないから、誰にも気持ちを分かってもらえないんだ」
「それは確かに、猫と言えども腹が立つね。でも、相手が野良猫なら、放っておけばすぐにまた出て行っちゃうんじゃないかな?」
「そうかもな。……そうだといいけど」
どうすれば、蒼司は我が家から出て行ってくれるのだろうか。手掛かりは全く無しだ。そもそも、私は何故、蒼司がうちにやって来たのか、それすらも知らない。それを知ることが出来れば――或いは、蒼司を追い出すこともできるかもしれないが。
その時、腹の虫がキュルキュルと鳴く。
「あー、悩みを打ち明けたら、何だか腹が減って来た」
「あはは、あたしもお腹すいてきちゃった。お昼にしよっか」
私と悠衣は、それぞれの机に戻って弁当を取り出した。悠衣は自分の席にそのまま座り、私は持ち主に断って、その隣の席を座らせてもらう事にする。私の手の中にある弁当は、今朝、蒼司が用意してくれたものだ。
(蒼司の作った弁当か……できれば食べたく無いけど、残したらきっと舞夏や晴夏がうるさいだろうし……。まったく、あいつが家に転がり込んできてからというもの、災難続きだな)
私はひどく憂鬱になりながらも、弁当箱の蓋を開けた。弁当箱は二段構えになっていて、上の段にはおかずが敷き詰めてある。
「あれ、りっちゃんのお弁当、今日はすごくカラフルだね」
悠衣の言う通りだった。いつもばあちゃんが作ってくれる弁当は、栄養重視で見た目は後回しなので、全体的に茶色っぽいが、今日の弁当はとても鮮やかだった。
赤いトマトに茹でた緑のブロッコリー、黄色い卵焼き。ハンバーグや、ケチャップで味付けされたスパゲティまで入っていて、ハムはくるくる巻きになってピンでとめてある。品目といい、見た目といい、まさに理想のお弁当だと言っていいだろう。
「……。何だ、意外と見た目は普通だな……」
私は拍子抜けし、思わず小さく呟いた。ぶっちゃけ、蒼司がここまでクオリティの高い弁当を作るとは、思ってもみなかった。朝から手作りのハンバーグとか、けっこう大変だったろうに。それを考えるとさすがに、朝に冷たく当たって悪かったかな、という気になって来る。
因みに弁当箱の下の段には、ご飯が敷き詰められていた。おまけに私の好きな海苔弁だ。その海苔で何か書いてある。
その文字を読むと――そこには、『ざまあ。』と書いてあった。
しかもムカつくことに、ご丁寧な明朝体で。
おそらく蒼司は、朝、台所の廊下で、私が晴夏や舞夏に叱られていたのを、全部聞いていたのだろう。そして、いい気味だと忍び笑いをしながら、この弁当を完成させたに違いない。
(蒼司……あいつ、暇かっ!!)
私が肩を戦慄かせていると、悠衣が不思議そうに弁当箱の中身を覗き込んだ。
「『ざまあ。』……? どういうこと?」
「……何でもない!」
私が凄まじい剣幕で箸を手にし、ガスガスとご飯をかき混ぜ始めたので、悠衣はすっかり黙ってしまった。それ以上、聞いてはならない何かがあると、察したのだろう。
そのせいで、私たちは弁当を食べる間中、いつもより会話が少なかった。悠衣には申し訳ないと思ったが、それでも腹が立って仕方なかったのだ。
自棄になって弁当を完食し、持参した水筒の茶で喉を潤してようやく一息ついたところで、どうにか怒りも収まって来た。悠衣はそのタイミングを見計らったように、話しかけてくる。
「りっちゃん、そういえば部活動の話、覚えてる?」
「ああ、うん。美術部に入りたいって言ってたよな」
「あの件ね、両親に相談してみたの。そしたら、やってみなさいって言ってくれたんだ。お金のことは、気にしなくていいからって」
「そうか。良かったな」
「うん! それで相談なんだけど……りっちゃんもどう? 一緒に入らない?」
「そうだな……」
(家に早く帰ったって、蒼司のやつと顔を合わせるだけだ。あいつがいつまで、うちの家に居座るつもりか知らないけど……蒼司の相手をするくらいなら、部活動やってた方がずっとマシだな)
もちろん、蒼司の事が無かったとしても、私は美術部に入部する話を断らなかっただろう。悠衣と一緒に部活動に励むのは楽しみだ。絵を見たりするのも好きだし、断る理由が無い。
「分かった。私も美術部に入る」
「本当? いいの?」
悠衣はとても嬉しそうに、目を輝かせた。それを見ていると、私の顔も自然と笑顔になる。
「うん。ばあちゃんには、部活動は好きにしたらいいと言われているし。美術部なら――選択科目も美術だし、そこまで画材費も気にしなくていいだろ」
「それじゃ、さっそく入部届を書こうよ! あたし、紙をもらって来たんだ!」
「私のぶんもか?」
「うん!」
悠衣があまりにも、あっけらかんと笑うので、私も思わず笑ってしまった。悠衣とこうして話していると、嫌なことも忘れてしまえるから不思議だ。悠衣の用意してくれた用紙に、希望する部の名前と、自分の名前をボールペンで書き込んでいく。
そこへ、男鹿がやって来た。男鹿は悠衣と中学の時からずっと同じクラスらしい。そのせいか、二人はまるでドラマなどの幼馴染みたいに仲がいい。
もっとも、本人たちは、腐れ縁だと思っているようだけど。
悠衣が男鹿と仲がいいので、私も男鹿とはよく話す。そのせいか、最初は互いに「男鹿くん」、「結城さん」と呼び合っていたが、今は完全に呼び捨てだ。
「お、お前ら二人とも、美術部に入るのか」
すると悠衣は、男鹿をちろりと睨んだ。
「何よ、男鹿。何か用?」
「何だよ、その態度。かわいくねーなあ」
「だって男鹿の事だから、どうせ下手の横好きとか言うんでしょ?」
「ひでえな、さすがにそこまで言わねえよ。っつか、お前の中で俺のイメージって、どうなってんだ?」
男鹿は頭を掻いてそう呆れる。確かに一見すると、悠衣の態度はちょっと酷すぎるようにも見える。それは多分、悠衣がクラスメートの視線を気にしているからだ。
過剰に男子と仲良くしていると、気があるんじゃないかとか、付き合っているんじゃないかとか、いろいろ陰で囁かれることもある。それが嫌なのだろう。
ちょっと気にしすぎじゃないかと思わなくもないが、悠衣は中学時代にいろいろあったみたいだから、どうしても神経を尖らせてしまうのだ。
少し険悪になってしまった場を和ませようと、私は男鹿に話しかけた。
「そういえば……男鹿は本格的にサッカー部へ入ったのか?」
「まあなー。小学校の時からずっとサッカーやってきたし、高校で特にやめる理由も無いしな」
「小学生の時からサッカーやってるのか。すごいな。サッカー選手になるつもりなのか?」
すると、男鹿は笑って肩を竦めた。
「まさか! 子どもの時からスポーツやってる奴なんて大勢いるよ。プロになれるのは、その中の選ばれし一握りだけだ。俺は完全に、好きでやってるだけ」
「そういうものなのか。……厳しい世界だな」
「何でもそうだろ。プロになれるのは、よほど根性のある奴か、よほど運や才能に恵まれた奴だけだ。普通の奴は、そういった道を目指しても、途中で挫折して終わりだよ」
「……」
確かに男鹿の言う通りだと、私も思う。なりたいと思うことと、実際になれることは別物だ。みんなが、なりたい商業に就ければ平和かもしれないが、そうでない人もたくさんいるのが現実だ。
それを考えると、蒼司は絵を描くのが好きでそれで食っているのだから、一応、その点に関してだけはすごい奴だと思う。
(まあ、あいつの場合は、努力っていうより運や才能にぶら下がってそうだけど……って、何でそこで蒼司が出てくるんだ? やめ、やめ! あいつのことを考えたって、気分が悪くなるだけだ!)
私は頭を振ると、完全に蒼司のことは忘れることにした。せっかく楽しい学校生活の最中なのに、あいつのことなんて思い出したくない。
放課後、私と悠衣は揃って入部届を手に、美術室へ向かった。美術部の部室は美術室だからだ。
美術室に入ると、二年や三年と思しき生徒たちが大きな作品を広げていて、私たちはそれに圧倒されてしまった。襖のような大きさの油絵やアクリル画、日本画が並んでいて、仲には彫塑に取り掛かっている人もいる。
「うわあ、すごーい……!」
「本当だな……。同じ高校生が描いた絵だとは思えない……」
悠衣と私がぽかんとしていると、美術部員の一人が私たちに気づいて近づいてきた。縁の細い眼鏡をかけていて、耳の下で長い髪をツインテールにし、胸元へ垂らしている女子生徒だ。その物怖じしない立ち振る舞いから、上級生であることが窺える。
「ふふ、驚いた? 君たち、ひょっとして入部希望者?」
「あ、はい! 私は姫崎悠衣です」
「私は、結城立夏です。こんにちは」
「私たち、美術部に入部したいんですけど……」
すると、美術部の先輩は全身をプルプルと震わせた。そして、感無量といった表情で、私たちに抱き着いてくる。
「やーん、二人ともありがとう! 実は去年、漫画同好会が発足したせいで、入部希望者が激減しちゃったの! 今年の新入部員は、君たち以外に、まだたったの三人だよー」
「そ、そうなんですか……」
「うちの部って活動ユルいし、イラストっていう形で漫画やアニメみたいな絵もオッケーだったから、以前はそっち方面の子も入部してくれてたんだけどねー」
確かに、美術部の棚を見ると、絵画や彫刻、デザインなどに関する専門書の他に、漫画、アニメやゲームなどのイラスト集といったものも置いてある。資料という扱いなのだろう。
「あ、そーだ。自己紹介がまだだったね。私は二年の望月蓮花。美術部の部長なんだ。よろしくねー!」
「はい!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「それじゃ、まずは入部届を提出してもらおうか。それから、美術部の活動をざっと説明するね」
美術部は三年生と二年生がそれぞれ十人ほど、一年が私たちの他に三人。とても和やかな雰囲気の部活だった。
いつ部活に来て、いつ帰るか、それもほぼ個人の自由で、厳格な決まりがあるわけではないらしい。
妹の舞夏が言うには、星蘭高校の芸術部などは、そちら方面へ進学を考えている生徒も多いから、部活動であっても、まるで居合斬りのような緊張感に包まれているらしい。けれど虹ヶ丘の美術部は、マイペースに活動するスタイルのようだ。
ただ、文化祭と年に一回ある全国展に向け、少なくとも一点ずつ、作品を制作しなければならない事を説明される。