第14話 弁当男子
自室のベッドで目を覚ますと、時計の針はもう、六時半を回っていた。何か、子どもの時の夢を見ていたような気がするが、定かではない。目が覚めると同時に忘れてしまった。
低血圧で頭がふらふらするが、起きて学校へ行く支度をしなければならない。別に学校が嫌いだというわけではないが、一日のうち朝のこの時間帯だけは、どうにも登校が億劫に感じてしまう。もっとも、それは低血圧のせいだと分かってるから、学校を休むことはないけれど。
(でもまあ、良い事もある。離れのリフォームが完成したから、今日から蒼司の顔を見なくて済むようになるって事だ)
昨日、離れのリフォームは完成した。晴夏と舞夏はさっそく蒼司のアトリエに出掛けていったらしく、きれいだの素敵だの、蒼司は相変わらず絵がうまいなどと話していたが、私はそれに参加しなかった。
あいつがどこで何をしようが、私には関係ないし、そもそもできるだけ関わり合いになりたくない。どうせ蒼司にとって、私は奇妙な珍獣に過ぎないと分かっている。
(くそ、蒼司め……台所で私にした事、忘れてないからな!)
あの時、蒼司は最初から私にキスをするつもりなど、さらさらなかったのだろう。ただ、私をおどかしたかっただけなのだ。
あの時の一部始終を思い出すと、それだけでムカムカしてくる。別に珍獣なら珍獣でも構わない。けれど、からかわれ馬鹿にされるのはごめんだ。私にだってプライドはあるし、そこまでして蒼司に付き合ってやる義理などない。
(……まあいいや。私は学校に通っていて、朝と夜しか家にいないし、蒼司も離れで絵を描くつもりだろうから、これからは特に顔を合わせることも無くなるだろ。台所でのことは、犬か猫にでも噛まれたと思って、さっさと忘れよう)
私は制服に着替えると、一階に降りた。今日の朝はパンにしよう――そんな事を考えながら。そして、台所の引き戸を開ける。すると、すぐに中から声をかけられた。
「やあ、おはよう。立夏ちゃん。よく眠れた?」
確かに、台所から人の気配はしていたが、それが蒼司だとは夢にも思わなかった。てっきり、ばあちゃんが弁当を作ってくれているのだと思っていたのに。私は台所の入口に立ち尽くし、きつく蒼司を睨んだ。
「蒼司……? お前、台所で何やってるんだ!?」
「見れば分かるでしょ、壱夏おばさんの代わりに弁当を作ってるんだよ」
「弁当って……ばあちゃんは?」
「壱夏おばさんは、足が痛いから台所に立てないって。だから代わりに、こうして僕が台所に立ってるというわけ」
「お前、料理なんてできるのか?」
「ひどいなあ。一人暮らしが長いんだから、料理くらいできるよ」
「でも、外食した方が早いだろ。都会はコンビニやファミレスもすぐそこにあるだろうし」
「そりゃまあ、時々はね。でも、外食ばかりだと健康に悪いでしょ。健康管理をきちんとしないと、どんどん体力がなくなっていくし、そうなったらいい絵も描けない。案外、体力仕事なんだよ。絵描きって」
(……そんなものか?)
若い男性の生活パターンなど、私が知る由もない。絵描きの生活となると尚さらだ。
「それより……いつまで戸口に立っているつもり? いい加減、中に入ってきたら? そう警戒しなくても、何もしやしないよ」
蒼司は完成したおかずを弁当箱に詰めながら、呑気にそう言った。どの口でそれを言うか。私は怒りのあまり、目を吊り上げる。
「嘘つけ! この間、この台所で私に何をしようとしたか……こっちは忘れてないぞ!」
「ああ、あれか。あれは立夏も悪いよ」
「はあ!? 私のどこが悪いんだ。言ってみろ!」
「だって、さんざん僕を試すようなことを言ったじゃない。あまりひどい事を言うから、こっちの気を引きたいのかと思って」
「ちっがーう! 断じて違う!! 別に試したんじゃないし、お前の気を引きたかったのでもない! あれは私の、心からの本音だ! 何を都合よく勘違いしてるんだ!?」
怒鳴り散らすと、蒼司は心底ワケがわからないと言わんばかりに、不思議そうな顔をする。
「そうなの? 僕、あまり女の子からガチで嫌われたことが無いから、よく分からないんだよね」
「お前っ……よく恥ずかしげもなく、そんな事が言えたな!? そんなだから、私はお前が嫌いなんだ!」
すると、蒼司はまっすぐに私を見つめて言った。
「でも、立夏は僕を拒まなかったじゃない」
「は……!?」
「本当に嫌なら、普通は手を振り払うなり、抵抗するなりするものでしょ。でも、立夏はそれをしなかった。それは、本心ではそれほど、僕の事を嫌ってないからじゃないかな?」
それは、あまりに突然の事で、頭が真っ白になったというだけだ。最初からそう来ると分かっていたら、迷わずぶん殴っていた。こいつ、大人のくせにそんなことも分からないのか。
いや、もしかしたら本当に分からないのかもしれない。蒼司は自分がイケメンであることをよく分かってる。ある意味、生まれながらの特権階級であり、それによる利益を思う存分、享受して生きてきた。
だから、世の女性はみな自分に好意を抱くものと思っているし、何をしても許されると思い込んでいるのかもしれない。
「蒼司、お前……一応、絵描きとはいえ社会人だよな? そんな残念な認識力で、よく今まで生きてこられたな?」
脱力半分、軽蔑半分でそう呻ると、蒼司は憎たらしいほど涼しい顔をして答える。
「そりゃまあ、認識力が残念だったとしても、経済的に自立していたら生活することはできるからね。……知ってる? 社会人って、どれだけ人格が破綻していても、社会のルールを守ってさえいればそれなりに生きていけるんだよ」
「ああ、そうか。それならとっとと、東京にでも戻ったらどうだ? 言っておくが、俵山のような田舎は人間関係が密だから、人格破綻者が生きるのには辛い土地だぞ」
「隙あらば、ぼくを追い出そうとするね、立夏は。……でも、残念。その手には乗らないよ」
そう言うと、蒼司は意地悪く笑った。顔はイケメンだが、完全に悪役じみた邪悪な笑いだ。追い出せるものなら、追い出してみろとでも思っているのだろう。
実際、私に蒼司を追い出す術は今のところなく、ぐぬぬぬ、と蒼司を睨み返すしかない。
するとその時、舞夏と晴夏が台所にやって来た。二人とも、既に制服に着替えている。
「おはよー、蒼ちゃん! 立夏もおはよ!」
「おはよう、蒼司くん」
舞夏も晴夏も、目は蒼司の方しか向いていない。
(二人とも、私の事は完全についでだな……別にいいけど)
一方の蒼司は、それまでの意地の悪い顔を一変させ、好青年らしいにこにことした笑みを浮かべるのだった。おまけに、声音も猫撫で声だ。
「おはよう、晴夏ちゃんと舞夏ちゃん」
「あ、蒼ちゃんお弁当、作ってくれたんだ! っていうか、料理できるんだねー。びっくり!」
「本当。しかも、すごく美味しそうだし、意外……!」
「二人まで、ひどいなー。そんなに僕が料理をするのは変?」
「あ、ごめんなさい。そういう意味じゃ……」
「ううん、全然! そんなことないよ。むしろ、エプロン超、似合ってるし! ……ね、立夏?」
舞夏は話を振ってきたが、私はムスッとしてマグカップに牛乳を注ぐ。
「私、弁当は持って行かないからな」
そう答えると、舞夏と晴夏はぎょっとして私の方を見た。
「立夏……?」
「ど、どうしたの?」
「売店でパン買って食べる。だから、弁当はいらない」
「……」
蒼司は悲しげに目を伏せた。そんな顔をしたって無駄だ。誰がお前の作った弁当なんて食べるものか。私はフンと鼻を鳴らし、牛乳パックを乱暴に冷蔵庫の中へ仕舞う。
ところが、それを聞いていた晴夏と舞夏は、慌てて私の腕を引っ張ると、強引に廊下へと連れ出したのだった。
「立夏、ちょっと……ちょっとこっち来て」
「何だよ?」
「立夏、どうしたの? らしくないよ」
「らしくないって、何がだ?」
「……何がだ? じゃないよ! だって蒼ちゃん、せっかくお弁当を作ってくれたんじゃん。ばあちゃんの代わりにさ。三個分、ちゃんと作ってあったの、立夏も見たでしょ?」
声を荒げる舞夏に続き、晴夏も咎めるような口調になる。
「そうだよ! 本来は、ありがとうってお礼を言うところだよ? それなのに、お弁当を持って行かないとか……あまりにも、蒼司くんが可哀想だよ……!」
「あのな、あいつは晴夏や舞夏が考えてるような性格じゃないんだ。愛想がいいのは上辺だけで、腹の中は真っ黒なんだ。そんな奴のことを、そこまで心配してやる必要はないんだぞ」
すると、晴夏と舞夏は、一斉に非難するような視線を私へ向ける。
「立夏、ひどすぎ! そんな言い方するなんて、完全に見損なったよ!!」
「何だそりゃ……事実だろ! 私が悪いのか!?」
「当然でしょ!? 蒼ちゃんが家に来てから、立夏はずっと変だよ! 何ていうか……蒼ちゃんに冷たすぎる!」
どこがだ? 私が蒼司に冷たいのは、あいつが私の事を馬鹿にしたりからかったりするからだ。あくまで因果応報なのであって、蒼司は決して非力な被害者じゃない。舞夏にそう言ってやろうと口を開くが、晴夏が畳みかけるように続ける。
「私もそう思う。蒼司くんはいい人だよ。昔からそうだったでしょ? 立夏は良い事や正しい事もたくさん言うけど、蒼司くんに関しては立夏の方が間違ってるんじゃないかな?」
(だからそれは、二人があいつの下衆な本性を知らないからだって!)
だが、いくら弁明を重ねても、無駄なのは分かっていた。実に腹立たしい事に、蒼司は絶対に晴夏や舞夏の前では、その性悪な本性を出さないのだ。二人にとって蒼司は善良な人物であり、私が一方的に陰湿な嫌がらせをしているようにしか見えないのだろう。
「とにかく……せっかく蒼司くんが作ってくれたんだから、ちゃんとお弁当、持って行かなきゃ駄目だよ?」
晴夏は腰に両手を当て、説教モードでたしなめるが、私は到底、納得できない。
「いやだ! あいつの作った弁当なんて……そんなもの食べるくらいなら、道端の草でも食ってた方がマシだ!」
せめてもの抵抗を試みると、舞夏は呆れかえって、尚且つ怖い顔で睨んでくる。
「あんたね……遅れてきた反抗期かっつーの! 仮にもお姉ちゃんなら、朝っぱらから、訳の分からない駄々をこねないでよ!!」
そこへ、蒼司が台所から顔を出した。
「みんな、お弁当ができたよ」
すると、晴夏と舞夏はコロッと態度を豹変させ、上機嫌で蒼司に返事をするのだった。
「あ、はーい!」
「蒼ちゃん、ありがとー! ……ほら、これ。立夏のぶん」
「……わ、分かったってば!」
舞夏と晴夏に睨まれ、私は渋々、弁当箱を手にする。できれば、学校には持って行きたくない。どうにかして家に置いていけないかと考えていると、蒼司はにっこり笑って私に言った。
「これでも、頑張って作ったから。立夏ちゃんにも是非、食べて欲しいな」
どの口が言うか。私は蒼司を睨み付けたが、それに気づいた晴夏と舞夏が、逆に私に向かって、厳しい視線を送って来る。
そこで私は、慌てて弁当箱を持って居間に向かい、鞄の中へ弁当箱を突っ込んだ。そしてそそくさと朝食をかき込み、身支度を整えると、ばあちゃんの部屋へ様子を見に行く。
それから自転車にまたがると、逃げるようにして家を後にしたのだった。