第13話 夏祭りの夜の教訓
あれは、私がいくつの頃だったろうか。まだ、じいちゃんが生きていた頃だから、十年近くは前のことだと思う。
その年、結城家には、珍しく長期滞在客がやって来た。ばあちゃんによると、その青年は私たちにとって、とても遠い親戚にあたるのだと言う。
どういった事情があるのかは知らないが、夏休みのおよそ二か月間、彼は結城家にいくつかある離れの一つに、寝泊まりすることになったのだ。
大学生だと言うその青年は、私たち三姉妹にも優しく、すぐに打ち解けた。
晴夏や舞夏も青年によく懐いていたし、私もその青年の事が嫌いではなかった。子どもながらに、その青年の容姿が麗しい事は分かったし、人柄も決して悪くない。
だが私は何より、その青年の描く絵がとても好きだった。青年はよくスケッチブックを持っていて、それを私に見せてくれた。
そこに描かれているのは、私の家だったり、そばに広がる田んぼだったりと、見慣れた風景ばかりのはずだった。しかし、青年の手によって描かれたそれらの風景画は、見慣れた光景だとは思えないほどキラキラと輝いて見えたのだ。
私はたびたび、青年に絵を描いてくれとせがんだ。結城家の中に祀ってある神社や、近所の柴犬、そして道端に鎮座しているウシガエル。
青年は無茶なリクエストにも気を悪くした様子はなく、それらをさらさらと絵に描き、私に見せてくれた。そしてその絵は、やはり魔法にかかったみたいに煌めいて見えるのだった。
やがて青年は、私たち三姉妹のアイドルとなった。青年は朝のラジオ体操やもちろん、毎年、町内会が催しているお祭りなどにも積極的に付き添ってくれた。そして、その秀麗な容姿のせいか、どこへ行っても人目を惹き、注目の的だった。
子どもだった私たちは、その事がとても誇らしくて、自分のことのように嬉しかった。
その頃はまだ、その麗しい容姿がトラブルを招くことになるのだという事は、思いもしなかった。
青年は、翌年の夏休みにもやって来た。私たち三姉妹は当初、それをとても喜んだ。
しかし、その年は前年とは勝手が少々、違った。青年を目当てに、女の人が訪れるようになったのだ。
しかも一人や二人ではない。青年は女性が訪れるたびに丁寧に断り、女性を送り帰していたが、どんなに追い払っても別の女性が次から次へとやって来る。おまけに、私たちよりずっと大人で、素敵な女性ばかりだ。
青年は芸術を学ぶ大学へ通い、普段は都会に住んでいるという。そのせいか、青年を追ってやって来た女性たちはみな、田舎育ちの私たちが気後れするような、お洒落で洗練された格好をしていた。
結城家の所在地である俵山では、滅多に目にすることの無い、流行の最先端を行く服や靴、そして鞄。同じく俵山の美容院では、絶対に再現不可能な、お洒落な髪型。
青年を追ってきた女性たちはみな、しなを作って青年に媚びたり、恥ずかしそうに詫びたり、或いは歓声を上げて再会を喜び、抱きついたりした。青年はそれを拒絶したり嫌がる素振りこそ見せなかったものの、殆どの女性をその日のうちに帰してしまった。
けれど、どうしても断り切れなかったのか、中には宿泊していった女性たちもいた。じいちゃんやばあちゃんはそれに対し良い顔をしなかったが、まだ子どもだった私は、特別、何も感じなかった。あの青年がそこまで好かれる理由は、理解できる気がしたからだ。
ただ、青年は女性が押しかけてくるようになってから結城家に居辛くなってしまったらしく、スケッチブックを片手にたびたび外出するようになってしまった。外でスケッチをしてきます、と言い残して。
その事だけが、私たちはとても残念だった。
しかし、その認識が一変する出来事が起きる。
それは夏祭りの時に起きた。私たち三姉妹は毎年そうしているように、浴衣に身を包んでお祭りに参加する予定だった。もちろん、大好きな青年と共に。彼と、そういう約束をしていたのだ。
しかしその直前、青年は今年、夏祭りには参加することが出来ないと言い出した。残念だったし、一緒に行こうと幾度も誘ったが、やはり青年は具合が悪いとかで、夏祭りには行かないと言う。
後ろ髪を引かれる想いだったが、私は晴夏や舞夏と共にじいちゃん同伴で、お祭りの会場である、俵山で一番大きな星陽神社へと赴いた。
その時、夏祭りで何をしたのかは覚えていない。ただ、確かに盆踊りに参加し、屋台で買い物をしたにもかかわらず、その記憶は殆ど残っていない。
何を見て何を食べても味気なく感じたのは、青年が一緒ではなかったからだ。
晴夏と舞夏も同じであるようだったが、二人は賑やかな人の波に身をゆだね、華やかな屋台や、自治体の企画した打ち上げ花火を見ているうちに、青年の事を忘れてしまったらしい。
結局、私は一人、何となくつまらない感覚から最後まで抜け出せず、じいちゃんに先に帰ると告げ、一足先に家路へ着いた。星陽神社は結城家から歩いて十分ほどだし、お祭りにやって来るのは地元の知った顔ばかりだ。
じいちゃんは一度、私を引き留めたものの、それ以上、強くは言わなかった。
子どもだった私は、若干ふてくされながら、神社へ向かう人の波に逆らって家へと向かう。すぐに、家は見えてきた。結城家の敷地は、古くて大きな木々に囲まれており、入口は坂になっている。
その坂の入口に人影が下って来るのが見え、私はふと立ち止まった。
月明りの下、おぼろげにしか見えなかったが、それは間違いなく一対の男女だった。女性は浴衣を着ている。お祭りに行く途中の、俵山の女性だろうか。よく分からない。しかし、男性の方はすぐに分かった。暗くても見間違えるはずがない。私の大好きな青年だ。
二人はいやに親密そうに肩を寄せ合い、結城家から出てくると、私とは反対方向へ歩いていく。私は不思議に思った。相手の女性が着ているのは浴衣だ。おそらく、夏祭りに行く途中なのではないか。それなのに、どうして二人は、星陽神社とは真反対の方向へ歩いていくのだろう。
青年が、私たちと一緒に祭りに参加しなかったのは、このためか。おそらく、あの浴衣の女性と会うためだったのだ。
それを悟った瞬間、私は二人の後をそっと追いかけていた。別に、追ってどうにかしてやろうという、何か具体的な考えがあったわけではない。ただ、二人がどこに行くのか、気になって仕方なかったのだ。
そして私は、すぐに自分のその行動を後悔することになる。
二人が向かったのは、俵山の町を流れる川のほとりだった。きれいに護岸工事がしてあって、遊歩道や広場も設けてある。普段は散歩目的の老人や、学校帰りの学生がたむろしていたりするが、今は夜であるため他に人けもない。
青年と浴衣の女性、二人はそこまでやってきて立ち止まると、面と向かって互いを見つめ合った。
浴衣の女性は、手にしていた紙袋を青年に渡す。高級感のあるお洒落な紙袋で、どうやら、彼へのプレゼントらしい。青年はそれを受け取ると、女性の耳元に顔を寄せ、何事か囁いた。女性は真っ赤に頬を染め、俯く。
青年は、そんな女性の顔に右手を添えた。
そして二人は、おもむろに抱きしめあい、唇と唇を重ねたのだった。
いくらその時、私が子どもだったとはいえ、そういった状況が待っている事を全く想像できないほど幼くはなかった。むしろある程度、そんな予感はしてたから、ああやっぱりな、というのが率直な感想だった。
ただ、それでも――たとえ想像はついていたとしても、心のどこかで裏切られたような感覚を覚えたのも、また間違いのない事実なのだった。
私は物陰に隠れて、二人を見つめた。いけない事だとは分かっていたけれど、目を離せなかった。
因みに、浴衣を着た女性の正体も、その時になってようやく分かった。彼女は、私の同級生のお姉ちゃんだった。その同級生と遊んだ時に、幾度か言葉も交わしている。
とても清楚で大人しそうな人だった。こんな大胆な事――子どもの私にとっては、十分に大胆だった――をするような人には見えなかったのに。
そう思うと、私の中で何とも言えない感情が込み上げてきた。今思えば、あれは青年に対する怒りと失望だったのではないかと思う。しかし、当時の私はそれが何なのか、よく分からなかった。それが同級生のお姉ちゃんに対する感情なのか、青年に対する感情なのかすらも自分でよく分かっていなかったのだ。
ただ、とにかく悲しくて、その場をそっと離れたのだった。
どこをどう歩いたのか、もう覚えていない。とにかく、気づけば私は、結城家の母屋に戻っていた。
その時には既に、じいちゃんや晴夏と舞夏も家に戻っていた。一人でしょんぼりしながら、遅れて戻ってきた私を、じいちゃんもばあちゃんもとても心配してくれたが、私は川のほとりで目にしたことを誰にも言わなかった。
それだけならまあ、よくあるトラブルだったかもしれない。青年は結城の家に居づらくなったのか、たびたび外出していた。そして同級生のお姉ちゃんと出会ったのだろう。もしかしたら他にも何人か魅了されている俵山の女性がいたかもしれなかった。
青年はいわゆる『イケメン』だったから、もしそうだったとしても不思議はない。
私の青年に対するイメージが決定的に変わってしまったのは、その翌日のことだった。
祭りのあった日の夜、私は何となくモヤモヤしてよく眠れなかった。次の日の朝も早くに目が覚めたが、晴夏や舞夏はまだぐっすりと眠っており、他にすることも無い。
私は着替えを澄ますと、青年の生活している離れへと向かった。多分、その時の私は、青年に会いたかったのだと思う。会って、昨日の晩のことを尋ねたかったのだろう。
もし、本当に彼と会っていたら、実際にそう尋ねていたかもしれない。
離れに近づいた私は、裏手から煙が上っているのに気づいた。何か燃えているのだろうか。もし火事なら大変だ。不審に思った私は、慌てて離れの裏手に回った。
するとそこには青年の姿があり、彼の足元には一斗缶があった。よく見ると、煙はそこから出ている。どうやら、青年が一斗缶で何か燃やしているらしい。
彼はその四角い缶の中に、どんどんいろんなものを突っ込んでいく。どれもカラフルでお洒落な包装紙に包まれており、リボンが掛けてあるものや、可愛くラッピングしてあるものもある。
しかし、青年はどれにも興味が無いらしく、ひどく冷ややかな表情で、淡々とそれを一斗缶に放り込んでいく。
中には見覚えのある紙袋もあり、私は、はっとした。それは昨夜、あの浴衣の女性が青年にプレゼントした紙袋だった。
私の地元では絶対に手に入らないような、とてもお洒落な包装紙。彼女はおそらく、彼のためにわざわざ遠くの街へ行って、それを買ってきたのだろう。青年を喜ばせたいという、ただそれだけのために。
その包装紙の中身が何なのか、私は知らない。だが青年は、やはり躊躇がなかった。その紙袋を無造作に掴むと、乱暴に一斗缶の中へ投げ込んだのだった。
それを目の当たりにした私は、瞬時にして悟った。青年が燃やしているのは、彼の元を訪れた女性たちが、彼に送ったプレゼントの数々であると。
物陰からその様子を見つめていた私は、青年の表情を目にして更に戦慄した。燃える一斗缶の中を見つめる青年は、何の感情も感じられない、機械のような無機質な顔をしていたからだ。
私は気づいた。女性たちの贈り物は、青年の心をこれっぽっちも動かしはしなかったのだと。浴衣の女性が送ったプレゼントも、彼にとってはありがた迷惑のガラクタだったのかもしれない。
それは何故か。
ひょっとしたら――いや、ほぼ間違いなく、青年は彼女たちの一人として真剣に愛していなかったのだろう。あれほど大勢の女性に囲まれ、あれほどたくさんの愛を耳元で囁かれても、青年がそれに答えることはない。
そして青年は、全く愛情など抱いていない相手とも、さも愛し合っているかのように熱いキスを交わしてしまえる、そういう人間なのだ。
その時、私が青年に抱いていた想いは、完膚なきまでに粉々になって砕け散った。私の中の青年像は、本当の彼とは全く違う。それを知った時、まるで、夢から醒めたような心地だった。
私は――いや、私たちはみな幻を見せられていたのだ。私たちが彼に勝手に幻を重ねていたのか、それとも彼が私たちに巧妙に幻覚を見せていたのか、そのどちらかなのかは分からない。はっきりしているのは、青年は私たちのアイドルなどではない、という事だ。
青年は、誰のことでも受け入れるし、誰にでも優しい。おまけに麗しい外見を持ち、筆を手に取れば夢のような美しい絵を描く、素晴らしい魔法使いだ。
だが、彼は誰も愛さない。周囲の人々に好意を寄せているふりをしているが、その心の中はきっと、限りなく冷たくて空虚なのだ。
私はその事がいちばん悲しかった。青年が一緒にお祭りに行ってくれなかったことよりも、浴衣の女性とキスをしてたことよりも。
何よりそれが悲しくて仕方なかった。
それを知ってしまってからというもの、私は青年を避けるようになった。子どもの私が青年に対し抱いていた感情が、怒りだったのか、それとも悲しみだったのか。或いは、敢えて冷たく振舞う事で、本心では構って欲しいと願っていたのか。本当のところは分からない。
ただ、青年が露骨に避けるようになった私の変化に気づき、少しだけ哀しそうな顔をしたことを覚えている。
いや、あれもまた幻だったのかもしれない。期待をするのは禁物だ。彼は誰も愛さない。そういう人間なのだから。あれはおそらく、そうであって欲しいという私の心が見せた、甘美な幻覚に過ぎなかったのだろう。
青年が実は大学でかなり派手に遊んでいた事、そして大勢の女性を弄び、泣かせていたらしいという事を人づてに聞いて知ったのは、私がもう少し大きくなってからのことだった。
青年は私に大きな失意をもたらしたが、一つだけ大きな教訓を与えてくれた。
そう、男性は――いや、男女問わずありとあらゆる人間は、見た目だけで軽々しく判断してはいけないのだと。
厳密に言うと、外見で人を判断するか否かは、個人の自由なのだろう。だが、時にその判断は、高い代償を支払わされることもある。
舞夏はああ言ったが、間違っても、『イケメンは正義』などではないのだ。