第10話 蒼司、結城家に上陸する
全ての授業が終わり、いつものように虹ヶ丘から自転車で帰宅すると、私はまっすぐに母屋の玄関へ向かった。カラカラと音を立てる引き戸を開け、だだっ広い玄関に足を踏み入れる。
「ただいまー。……ん?」
思わずそこで足を止めたのは、玄関の土間に見慣れない靴が揃えて置いてあったからだ。
それは男物の靴だった。カジュアルなスニーカーみたいだが、やたらと高そうな質感とデザインをしている。
おっさんはこういうセンスをした靴を履かない。多分、若い男の靴だ。
でも、一体誰の靴だろうか。
(誰だ……? セールスとかかな)
だが、あのばあちゃんが、セールスマンを軽々しく家に上げるとも思えないし、そもそもセールスマンならかっちりした革靴を履くだろう。
だとしたら誰の靴なのか。近所にこんな洒落た靴を履くような若い男はいないし、親戚はみな結城の家を恐れ、忌み嫌っているので殆ど寄りつかない。
考え込んでいると、居間の方から見慣れない若い男が顔を覗かせた。
「おかえり、立夏ちゃん」
「ん……? お前……蒼司か!?」
私は若い男の顔をまじまじと凝視し、その正体に気づくとぎょっとして、思わず叫んだ。
その男の名は、月宮蒼司。
結城一族ではなく、ばあちゃんの方の親戚だ。壱夏ばあちゃんには姉がいるが、その姉の孫が蒼司なのだ。
子どもの頃から何度も会っていてよく知った仲であるため、年上だが敬語を使った事はない。よく見知った、遠縁のお兄さんという感じだ。
もっとも、蒼司は『お兄さん』と親しみを込めて呼べるほど、できた人格ではない。私が、「男は顔じゃない」と考えるようになったきっかけ……何を隠そう、それが蒼司の存在なのだ。
そう――つまり蒼司は、世に言うイケメンとかいうヤツなのである。だができるなら、あまり会いたくはなかった。そんな私の胸中を知ってか知らずか、蒼司は笑顔を浮かべ話しかけてくる。
「久しぶりだね。あれからまた、背が伸びた?」
「そりゃ、多少はな。……っていうか、何でお前がここにいるんだ? 東京に行ったんじゃなかったか? もう二度と会う事は無いと、心から安心してたのに」
「ははは。そういう辛辣なとこ、相変わらずだねー、立夏ちゃん。でも……かなり大人っぽくなったよ。……きれいになった。一瞬、誰かと思っちゃった」
甘く、囁くような声。それが、たいそう整った顔から発せられるのだから、普通の女子なら間違いなく、顔を赤らめ恥じらっていたことだろう。
いや、もしかしたら、私もそうしていたかもしれない。もし、蒼司の本性を全く知らなかったなら。
けれど生憎と私には、蒼司の魂胆などお見通しだ。だからすっと目を細め、言ってやった。
「子ども相手に、何言ってんだ、お前? 脳みそ湧いてんのか」
半眼で冷ややかに答えると、さすがに蒼司は目を見開いた。まさか、そんな返答が返って来るとは思いも寄らなかったのだろう。しかし一瞬後には、元の笑顔に戻っていた。
「あははははは! ほんと、変わらないなー。立夏ちゃんは」
そして、蒼司はこれでもかとにっこり笑って見せる。形の良い白い歯が、キランと、光線を発するんじゃないかという勢いだ。
確かに蒼司はイケメンだ。しかもタチが悪いことに、自分がイケメンだという事を誰よりしっかりと自覚している。昔からよくモテたし、普通の男が躊躇うようなセリフも、何の臆面もなく口にすることが出来るヤツだ。
もっとも、私は蒼司のそういうところがあまり好きではない。というか、ぶっちゃけ嫌いなくらいだ。できるだけ、関わり合いになりたくないと思っている。そのため、態度も自ずと刺々しくなってしまう。
「ちゃん付けはやめろ、鬱陶しい。……それより、うちに何しに来たんだ? ばあちゃんは?」
「壱夏おばさんなら、足を痛めて、今は病院だよ」
「病院……? 足を痛めたって……何で!?」
ぎょっとして尋ねると、蒼司は土間で靴を履きながら教えてくれた。
「壱夏おばさん、植木の剪定をしていたみたいだね。その時、脚立から足を滑らせて、落っこちちゃったんだよ。その時、ちょうどタイミングよく僕がこの家を訪ねたから、急いでタクシーを呼んで病院まで連れて行ったってワケ。これからまた、迎えに行くんだよ。今度はこの家の車でね」
蒼司によると、病院に急行したものの、ばあちゃんが私たちのことをひどく心配したらしい。だから、蒼司が一度、この家に戻って様子を見てくることになったのだそうだ。
これから再び病院へ行き、ばあちゃんを連れて帰って来ると言う。家と車の鍵を預かってきているらしく、それを私に見せる。
(ばあちゃん……だから植木の剪定は、危ないしやめとけって言ったのに……!)
やっぱり昨日の夜、もっと強く止めていればよかった。私たち三姉妹は植木の剪定なんてできないし、できる事と言ったらばあちゃんを手伝うくらいだ。残る選択肢は、やはり業者に頼むことだろう。お金はかかるかもしれないけど、ばあちゃんが怪我するよりはよっぽど良い。
激しい後悔に襲われていると、蒼司が慰めるように言った。
「大丈夫だよ、足首の軽い捻挫だって。骨折まではしてないみたいだから、安静にしていたら良くなるよ」
「うん……」
「そんなわけで、僕は行かなきゃだけど」
「あ、ああ。ありがとな、ばあちゃんを病院へ連れて行ってくれて」
気に食わない相手だが、ばあちゃんを助けてくれたのだから、きちんと礼は言うべきだ。まあ、本音を言うと、あまり関わりたくはないのは変わらないけど。
すると蒼司は、再びにっこりと笑う。そして顔を近づけてきて、私の耳元で囁いた。
「……ふーん? そういう風に素直にもなれるんだ。可愛いんだね、立夏は」
「お前っ……いいからとっとと行け、バカ!」
まったく、油断も隙もあったもんじゃない。蒼司はいつもこうだ。そういう思わせぶりな態度を取っていれば、女はみなコロッとなびくと勘違いしているんだ。
私が蒼司と初めて出会ったのは、小学生の時だった。
蒼司が大学生だったころ、夏休みにこの結城の家に長期滞在したことがあった。私が蒼司と初めて会ったのも、ちょうどその時だ。
そもそも、蒼司は昔から絵の才能があり、大学もそっち方面へ進んだ。しかし、月宮の家は厳格で、そういった芸術事には全く理解が無く、蒼司はかなり肩身の狭い思いをしていたらしい。
特に蒼司の母親は教育熱心で、大学の下宿先まで追いかけてきて、別の大学に入りなおすよう蒼司に迫ったそうだ。それに辟易とした蒼司は、この結城の家に転がり込んできたというわけだ。
その事情を知っていて、蒼司を可哀想に思ったじいちゃんとばあちゃんが力を合わせて蒼司を匿ったため、蒼司の母親も、さすがにこの家には足を踏み入れられなかったらしい。そして大学の二年と三年の夏、それぞれ二か月ほどずつ、蒼司は結城家の離れで過ごした。
蒼司は当時からイケメンで、よくモテた。涼やかで、どこか寂しげな目元。鼻筋はすっと通っており、唇は艶やか。奇妙に大人びていて、いかにも生意気そうなところが、これまた女性を惹き付けるのだろう。
背は高くも無いが低くもなく、百七十の後半はある。スタイルもいい。その辺をぶらぶらしているだけで、女子の視線を釘付けにしている。
それだけなら、まあ、私も蒼司を敵視したりしなかった。蒼司の悪いところは、自分がよくモテる事を知っていて、欲望のままにそれを楽しんでいるところだ。
奴の大学時代も、この結城の家にしょっちゅう女の子が押しかけてきて、大変だった。相手は女子高生から女子大生、社会人までとさまざまで、中には人妻まで含まれていたのは本当にどうかと思う。
結城の家の中でさえその有様だったから、外ではもっと節操のない交際をしていたのだろう。
蒼司に夢中になった女性たちは、時には蒼司の関心を引くために嬌声をあげ、時には私とあの子、どっちが大事なのと火を噴いたように怒り出し、そして時にはどうしてもっとそばにいてくれないのと、蒼司に取り縋って泣いていた。
子どもながらに、なかなかドン引きする光景だ。
しかし、それだけならまだいい。モテること自体は悪いことではない。その中から、『かけがえのない一人』を、ちゃんと選ぶ気があるのであれば。
蒼司の怖ろしいところは、どれだけ女性たちに好意を寄せられても、決して蒼司が誰かを好きになることはない、というところだ。そりゃ、はっきりそうだと蒼司が言ったわけじゃないが、客観的に見てそうなのではないかと私は思っている。
あいつは、人としての重要な何かが、絶望的なまでに欠けているのだ。
ただ一つ、蒼司は私に有意義な教訓を与えてくれた。それは、男は見た目ではない、という事実だ。
イケメンは、避けて歩くに限る。無理して関わっても良い事はない。何事も、『普通』と『そこそこ』が一番なのだ。
(それにしても、蒼司はうちの家に何の用だったんだ……?)
蒼司はここ数年、全くこの家には顔を出していなかった。それなのに、なぜ急に前触れもなく現れたのだろう。私は首を捻った。まあそれも、ばあちゃんと蒼司が家に戻ってきたら分かるだろうが。
私は取り敢えず、家事をしながらそれを待つことにした。
その日の夕飯はカレーにすることにした。理由は、市販のルーさえあれば、私でも作ることが出来るからだ。ルーの箱に書いてある作り方に従えば、失敗することも無い。
玉ねぎやニンジン、ジャガイモの皮むきをしていると、舞夏と晴夏が連れ立って家へ戻って来た。
「ただいまー」
「ただいまあ」
「二人とも、今日は一緒だったのか」
一緒になって台所に入って来る二人にそう言うと、晴夏がそれに答えた。
「うん、バス乗り場のとこで、ちょうど降りてきた舞夏と出会ったんだ。ね?」
「そう、そう。漫画の締め切りも、ようやく終わったし。溜まってた学校の課題を提出してたら、遅くなっちゃったんだよねー」
「そうか、お疲れ」
時々、ぶつかることもあるけれど、私たち三姉妹は基本的に仲がいい。遠慮のない物言いも、仲の良さの裏返しだ。それぞれ、良くも悪くも性格がはっきりしているせいか、喧嘩することがあっても、長く引き摺ることはない。
舞夏は喉が渇いているのか、コップでさっそく水を飲む。一方の晴夏は、まな板の上に載っている野菜を見て、嬉しそうな顔をした。
「ねえ、立夏。この匂い、今日の夕飯はカレー?」
「カレーだぞ。因みに、私が作ってる」
「おいしそう……でも、珍しいね。夕飯は大抵、ばあちゃんが作ってくれるのに。……そういえば、ばあちゃんは?」
「足を痛めて病院へ行った」
すると、晴夏と舞夏も血相を変える。不安そうな表情を浮かべ、黙りこくる晴夏に対し、舞夏は私に詰め寄って来た。
「足? 何でよ!? あっ……もしかして植木のせい!?」
「そうらしい。蒼司が病院へ連れて行ったんだ」
「ソウジ……? ソウジって誰だっけ?」
「昔、家に来たことがあるだろう。夏の間だけ一緒に住んでた」
そう説明するが、舞夏はなかなか思い出せないのか、首を傾げるばかりだ。それに対し、晴夏は蒼司の記憶が残っていたらしく、「ああ!」と声を上げた。
「……もしかして、月宮の家の蒼司くん!?」
「そう、その蒼司だ」
「あー、あたしも思い出した! 確か蒼ちゃんって、当時もめっちゃイケメンだったよね? 今、どんな風になってるんだろ? ……立夏はもう会った?」
「ああ、会ったぞ。最悪なまでにばったりとな」
「えー、ずる~い! 蒼ちゃん、結城の家に寄ってくれるかな? あたしも会ってみたいんだけど。蒼ちゃんは服の趣味も良かったし、大人っぽくなってるだろうな~! ああ、想像しただけで、キュン死にしそう!」
舞夏はつい先ほどまで蒼司の事をけろりと忘れていたくせに、思い出した途端に、やたらとはしゃいでいる。舞夏は私と違って面食いだし、流行のものにも飛びつく傾向がある。要するに、ミーハーなのだ。
「舞夏……お前まさか、ああいうタイプが好みなのか?」
私が眉を顰めて咎めると、舞夏は悪びれもせずに答えた。
「そりゃ好きだよ。イケメンは正義だもん」
「……何だそりゃ。安い正義だな」
「そんなこと言うけど、女子はみんなイケメンが好きだよ。会話して良し、愛でるも良し、漫画に出てくるキャラクターのモデルにもなるし、一石三鳥じゃん! 少女漫画だって、イケメンの出て来ない作品は一つも無いよ? イケメンは正義。女子の基本だよ!」
「分かった、分かった。でも一つ言っとくが、女子がみんな少女漫画の基準で生きてるわけじゃないからな」
「はいはい、そうだよねー。立夏は脳の恋愛回路が壊死してるもんねー?」
「そうかもな。でも、恋愛厨になるよりはマシだ」
「何それ? まさか、何でも『厨』ってつければ、マウント取れると思ってるわけじゃないよね? まともに恋愛もできないなんて、何のために生きてるのか分からないじゃん」
「恋愛そのものは否定しない。それは個人の自由だ。でも、そもそもお前みたいな、『イケメン★ヒャッハー』は、恋愛とは言わないだろ」
「私はただ、かっこいいものをかっこいいと言ってるだけだよ。それのどこが悪いの? 変な意地を張る立夏の方が、よっぽど訳が分からないよ」