「戦いになんてなると思うな」
それは星降る夜のこと。
柄にもなく見上げた夜空には、幾筋もの流星が尾を引いて。
眼前に広がる幻想的な情景。星に願う言葉も用意していなかったからか。
輝く夜空に浮かぶ二つの瞳が、私を見ていた。
永劫の神・ウロボロス。
その日、私はソレに魅入られた。
『八災のノア』
*****
そんな夜から数年も経ったある日のこと。
私は、とある屋敷の扉をけたたましく蹴破った。
「…………は?」
家主のそんな間抜けな声が聞こえた。
豪奢な扉がガロンと転がる。大きくくの字に折れ曲がった扉は、二度と用をなさないだろう。
「邪魔するぜ」
こつり、こつり、こつり。
羽織った白衣をたなびかせながら、大理石の床をゆっくりと踏む。
「なんだ? 一体なんなんだ? どうして我が家の扉が急に吹っ飛んだ? うちの扉が一体何をしたって言うんだ?」
「扉には正直すまなかった」
無残な姿になってしまった扉に向けて十字架を切る。
だが、足を止める気はない。シャンデリアに照らされた豪奢な部屋の中央に立ち、家主に硬質の笑みを向けた。
「やあ、会いたかったぜ」
「――何者だ、お前」
「私か? おいおい、冗談はよせ。分かってんだろ、同類」
目を閉じていようと分かる。本能が互いを認識する。
固い絆で結ばれた私たちが、互いの正体を知らないわけがない。
「癒龍国エリクシルの勇者、ノア・スカーレット」
――殺しに来たぜ、魔王様。
ありったけの殺意を正面から叩きつける。
漆黒の礼服に身を包んだ魔王は、静かに表情を凍り付かせた。
「おい、おい、待て、待ってくれよ。魔王と勇者の戦いは8年後と宿命づけられているじゃないか。何もこんなに急ぐことは――」
「そうか」
短く息を吐く。
ゆっくりと息を吸う。
私の魂に宿る膨大な勇者の力。
それを、余さず解き放った。
「これでもか?」
「……冗談、だろう」
本気でやる気か、と、魔王は呟く。
当然だ。私は本気でお前を殺しに来た。
「なんなんだ、なんなんだよその力は! いくらなんでも無茶苦茶だ! そんなバカげた力、あり得ない!」
「あり得ないなんてことはないだろ。私は勇者だ、これくらいはやる」
「いくら勇者だからって……! 一体何をしたら、その年でこれほどまでの力を身に着けられる!」
こつり、と一歩踏み出す。
大理石の床が、私の歩行に耐え切れず大きく歪んだ。
「決まってんだろ」
私が放つ暴圧的な力が、部屋中を制圧する。
身に宿すは龍の力。癒龍ウロボロスがくれた勇者の力に、身も心も揺るがせながら、獰猛に歯を剥いた。
「日々の鍛錬だ」
「めっちゃ普通」
「毎日20回の腕立てと、30回の腹筋。それから1kmのランニング。その積み重ねが、私にこれだけの力をくれた」
「しかも、無理のない適度なトレーニングを心がけている……」
しょうがないじゃないか。あんまり体に無茶させると、身長に響くんだ。
同年代と比べても体格に恵まれなかった私としては、身長は気になるところだった。
「そもそも君、今いくつだ。あんまり小さい子が無茶をするんじゃない」
「小さくない。もう8歳だ」
「まだ8歳、って言うんだよ」
ふう、と魔王はため息をつく。
なんだかお疲れのようだった。
「もう帰ってくれ……。君のような幼女と戦わなきゃいけないなんて、僕はご免だ。8年後の決戦まで待ってるから、それまでお預けにしといてくれよ……」
「2つ。お前は誤解をしている」
何を言おうが止まる気はない。欠片もない。
こつり。また一歩、魔王に向けて歩を進める。
「1つ。何も私と戦う必要はない。戦いになんてなると思うな」
私はお前を殺しに来た。
勝算を手に、確信を得て、お前を屠りにここに来た。
私は戦いに来たんじゃない。私は、ただお前を殺しに来ただけだ。
「2つ」
白衣のポケットから拳を引き抜く。
我ながら頼りない細腕だと思う。いくらトレーニングをしても、筋肉がつかない体質が憎い。
握り固めた拳に勇者の力を強く込める。キィンと、高い音を響かせながら、溢れる力が圧縮される。
私が持つ暴力の結晶。それを掲げて、宣言した。
「私は、幼女じゃない!」
「そこ否定するの!?」
「勇者だ! 私は勇者! 幼女って言うな!」
「あーもう! 完全に幼女だよ! 大人びようとして一生懸命背伸びしてる幼女だよ!」
今度は私が息を吐く番だった。
あーあ。言っちまった。言っちまったよ、お前。
「生きて帰れると思うなよ……!」
「なんでちょっと涙目なんだよ! 弱いな! ごめんね、泣かないで!?」
目元に浮かぶ雫を拭う。
弱くない。私勇者。泣いてないもん。
「一体なんだって幼女に襲われなきゃならないんだ僕は……。何か事情があるなら話してくれよ。さっきから何度も言ってるけど、こちらに交戦の意思はないんだ」
「へえ、優しいんだな」
「君と同じで、僕も神に選ばれたから魔王なんてやってるけどね。本当はこんな事したくないんだよ。できるなら、誰とも争わずに――」
「誰とも争わず、世界を滅ぼしたい。だろ?」
言葉を引き継ぐと、魔王の口が固まった。
お前の罪なら知っている。そんな言葉遊びでやり過ごせると思うな。
「数か月前のことだ。この辺り一帯に、ある病が流行した。皮膚が黒ずみ、血が腐り落ちる致死の病だ。流行が国外に広がる前に食い止めたが、それでも数千人の犠牲者が出た」
「……それが?」
「事態を収束させた後、私は感染の経路を調べていたんだ。そして発症源を特定した。どこだと思う?」
こつり。
一歩、詰める。体から放つ力を強め、空間に意識を巡らせる。
「ここだよ」
お前だ。お前が、あの事態を引き起こした張本人だ。
逃がす気はない。逃げられると思うな。
「黒死病、と言ってね」
私の糾弾に動じるそぶりも見せず、魔王は平坦に答える。
「伝承の時代に語られる太古の病だ。一説によれば数万人を虐殺したらしい。実際にかなりのポテンシャルを秘めていたけれど、それだけの犠牲で抑えたのは称賛に値するよ」
「認めるんだな」
「事実だから」
誤魔化そうともせず、まるで当然のように魔王は微笑む。
とぼけた野郎だ。反戦派を謳いながら、やることはきっちりやっていやがる。
「根が腐り、はらはらと崩れ落ちながら滅びゆく命には美しさがある。それに逆らい、懸命に生き足掻く命には輝きがある。今でも夢に見るよ。あの時、街を駆け巡りながらこぼれていく命を拾い集める君たちは、本当に美しかった」
「戯言を抜かしてくれるじゃねえか」
「そう、戯言だ。まるで意味のない虚言、虚妄、虚構。つまらないことこそ面白い。だから、僕は、終焉へ至る戯曲を刻むのさ」
カツン。革靴を鳴らし、魔王が私に近づく。
二歩と半分離れた距離。わずかそれだけの距離で、私は殺意を、魔王は笑みを互いに向ける。
「それが僕の魔王道。気に入ってくれると嬉しいな」
「だったらこれが、私の勇者道だ」
力を宿した拳を突きつける。
相容れない。混じり合わない。理解しあうことは決してない。
私が勇者であり、こいつが魔王である以上。私たちの結末は一つしかない。
――違いがあるのなら。早いか、遅いか。それだけだ。
「いいよ、存分に相手してあげる。だが君一人で勝てるかな? これでも僕は、古代の魔術に精通しているんだ。歴史の彼方に封じられた千の禁忌と万の災禍、飽きるまで楽しんでくれたまえ」
「千でも万でも構わんが」
一足。強く踏み込む。
当て身の容量で胸に飛び込み、体重を乗せた一撃を穿つ。
「それは一つでも役に立つのか?」
「がっ……くっ……」
瞬間に展開された障壁が、私の拳を阻んだ。
――否、阻みきれなかった。それは砂糖菓子のようにひび割れ、砕け、バラバラと散る。
「ははっ……。ただの虚仮威しだったら、良かったんだけどね……!」
額に脂汗を流し、魔王は大きく距離を取る。
魔王は指先に魔力の光を灯し、空間に無数の文字を刻んだ。
空中に、蛇のようにうねりながらただよう文字たちは、一つ一つが悍ましき呪詛だ。
腐食の呪詛。惑乱の呪詛。石縛の呪詛。壊毒の呪詛。死滅の呪詛。
魔王を名乗るだけはある。一つでも触れれば、厄介では済まされないだろう。
――だが。
「少し、痛い目にあってもらうよ!」
放たれる呪詛を、私はただ力を込めて振り払った。
暴風のように荒れ狂う力が呪詛を乱す。崩し、かき消し、押し流す。
小細工など通じない。そんなものでは私を阻むことはできない。
言ったはずだ。
「お前を殺す」
「ふふ。強くて、いい言葉だ。できるなら別の機会に聞きたかったくらいだ」
この期に及んで魔王は軽口を続ける。
悪くない。こういう手合いは嫌いじゃない。できるなら、別の形で会いたかったとすら思った。
「本当に、とんでもないね君は……! これは骨が折れそうだ。今日のところは――」
「逃げられると思ったか?」
指を弾く。魔術を編み上げる。
魔術を使えるのはお前だけじゃない。それが戦う術ならば、私は何であろうと手にしてきた。
展開したのは結界の魔術。内と外を強固に断絶する、即席の大結界が道を阻む。
「……ははっ。こりゃ駄目だ」
魔王はそんな乾いた笑いを漏らす。
なんだろうと構わない。ただ、ここにあるのは決着だけだ。
「終わりにしようか」
天に向けて手を掲げる。どくりと、私の中の魂が鳴動した。
(さあ、受け取りなさい。あなたにはその資格がある。愛していますよ、我が娘よ)
「黙れ」
頭に鳴り響いた声に唾を吐く。お前は黙ってろ。
湧き上がる凄まじい力が私の魂を強く揺さぶる。これだけの力を振るうには、実のところかなりの無茶をしている。
決着を急がなければならなかった。
「世界樹の聖緑――!」
解き放たれた膨大な魔力が実体を結び、幻想の世界樹が顕現する。
編み上げるのは救済の魔法。そこらの魔術とは一線を画す、超越者にのみ許された神域の奇跡。
「これは、ただの魔術じゃない……! まさか、その年で魔法まで使えるのか……!?」
「…………」
言葉は返さなかった。
使えるだなんてそんなものじゃない。私にできるのは、この荒れ狂う力を我武者羅に振り回すことだけだ。
「砕けろ――ッ!」
世界樹から吹きすさぶ聖緑が、邪なる命を浄化する。
すべての不浄なるものを存在の根底から否定し、滅びの因果を結実する。
それが、私の魔法だ。
「なんだそれは……! 無茶苦茶にも程がある……!」
「わかるのか?」
「その魔法を発動された時点で、魔王には滅びが運命づけられた! 防ぐ術も、逃れる術も、逆らう術だってありはしない! 一体どこの誰が運命から逃げられるって言うんだ!?」
魔術や魔法に詳しいと言うのは嘘ではないらしい。だが、分かったところでどうする術もない。
世界級魔法。神域の奇跡と謳われるそれは、ただ一度の発動ですら歴史に名を残す。
「……お手上げだ。完敗だよ。魔法まで持ってこられたんじゃ、打つ手なんてありゃしない」
さらさらと自壊しながら、魔王はゆっくりと手を開く。
魔王はまっすぐと私を見る。その目は、穏やかで、なだらかで、そして何よりも。
「ここで僕を討ったこと、高く評価しよう。偶然か打算かは知らないが、君たち人類はただ一つ残されていた生存への希望を繋いだわけだ」
――狂気に、満ちていた。
「君の力もだいたい分かったよ。なあ、君、ノアと言ったか。あまり無茶はしないほうがいい」
「お見通し、か」
「もちろんだとも。その年でそれだけの力を持つには、それくらいの代償は必要だろうね」
それすらも称賛に値する。魔王はそう手を叩いた。
私はその言葉を、受け取ることはできなかった。
「それじゃあ僕はここで幕引きだ。また会おう、小さな勇者ちゃん」
魔王は優雅に微笑んで。
その身に刻まれた運命が命ずるまま、たゆたうように消えていく。
「――二度とは会わねえよ、イカれた魔王」
こうして私は、魔王を討った。
うららかな春の日のことだった。