2.暗闇の中で
「王は今どこにいらっしゃるのだ?」
王に仕える者たちの間でこのような会話が交わされることが多くなった。
元々不意に姿を消すことが多かった王ではあったが、最近は増してその頻度が高い。
先日、王が奴隷部屋から少女を連れ出したことを知っている側近たちは予想がついていたけれども敢えてそれを口にする者はいなかった。
ただ、こっそりと噂するのみ。
王はあの少女に妙にご執心であるな、と。
生きているのか死んでいるのか分からないあの少女に。
彼らの予想に違わず、王は城の地下牢に向かっていた。
そこにいるのは自身が名を与えた少女、ローズただ一人。
王の手にあるのは食事。
この様子を側近たち始め城に仕える者たちが見たらどう思うだろう。
だが王は、誰一人として地下牢に近づくことを許可しなかったのだ。
軋むような音をたてて地上と地下を隔てている仕切りが開けられる。
一瞬だけ差し込んだ光に地下牢は明るさを見出すが、しかしすぐさまそれは消えてしまう。
頼るべき明かりは、常に灯されている数本のろうそくしかない。
牢の中に、少女はいる。
「ローズ」
何度も聞かされたその言葉に、目を閉じていた少女は意識を取り戻す。
牢の中は王がここにやってくるたび持ち込んでいる豪華な布やら衣服やらで一杯になっている。
奴隷の頃であったよりは綺麗なものを身に着けている少女は、視線を定めているのかどうなのか分からないままに音のする方を振り向いた。
「毎日、よく飽きもせずいらっしゃいますね」
「褒め言葉ととっておこう」
王はニヤリと笑って慣れた手つきで牢の鍵を開け、中に入る。
そして手に持っていた食事を少女に渡す。
少女はぼんやりとそれを手に取る。
「王自ら奴隷に食事を運んでいるなどど他の方々に知れたら、この国は滅びますね」
「滅ぼされる前に滅ぼしてやるさ。俺はそうしてこれまで生き延びてきたのだ」
「本当に、酔狂な方」
少女はスープを一口啜った。
王は少女に向かい合って座った。
少女がスープを啜る様を見つめていた。
実は少女が食しているものたちはすべて自分用にと用意された食事の一部である。
だが少女の存在を隠している王がそのことを他の者たちに漏らすはずもなく、
故にこうして自分の食事を少女に与えるため、王自らが運んでいるというわけだ。
ゆっくりゆっくり時間をかけてそれをすべて体内に流しいれた少女は、
王に軽く頭を下げて皿を置き、再び目を閉じた。
「眠いのか?」
「…王がお与えになられた仕事以外に私にはすることがありません。
かといってこの暗い牢の中、今が朝なのか夜なのか知る術もありません。
ですからこうして眠ることしか私にはできないのです」
「今は俺がいる」
「それでも同じです」
王を拒絶しているわけでもなく、しかし受け入れているわけでもない少女を、
王は身を乗り出して求め、その場に横たえる。
しかし少女は目を閉じたままで王を見ようとしない。
少女の瞳を見ながらこの腕に抱いたのは最初に1回だけで、その後は常にこの様。
「目を開けよ」
命じても従わないのはこの少女くらいだろう。
しかし王に、この少女を命令違反だからとどうこうしようという気は起きない。
自分が持ち込んだ柔らかな布の上に広がる少女の長い長い髪。
波打つそれに包まれているように見えつつもしなやかに伸びる白い肢体に王は口付けを落とす。
毎日のように抱くその身体にはまだ色濃くこれまで自分がつけた跡がいくつも残っている。
吸い付くように己にまとわりついてくるその肌に、逆にこちらの意識が飛びそうになる。
「私、たった今お食事を頂いたばかりなのです」
「ならば今度は俺の番だ」
決して目を開けることのない少女の目元に、王は唇を押し当てた。
先日奴隷部屋で少女を見つけた時、少女はほとんど目を伏せていたけれども、
何度か自分を見つめたそれは酷く鋭いものだった。
憎んでいるのか、怒っているのか、それとも…?
そんな少女が今はおとなしく自分の腕の中に納まっているのが不思議だった。
最初のような抵抗はもうない。だからといって好意的にそれを受け入れてもいない。
ただただなされるがまま、そこに在るのみ。
幾度となく少女を抱いたが、王は決して『ローズ』に溺れているつもりはなかった。
女に溺れた王が治める国は必ず滅ぶ。
国政をないがしろにする。己の立場をないがしろにする。
それを知っているこの少年王は、しかし瞳を見ることの叶わぬ少女を今日も胸に抱いて、自分も同様何も身に着けないままに牢の中に横たわっていた。
見上げた先に見えるのは灰色とも黒ともいえる低い牢の天井。
そんな中揺らめいている数本のろうそくの火が、王の思考をかき乱す。
堅く閉じたはずの蓋のネジが緩むような気がした。
「…ローズ、眠っているのか?」
「いいえ」
「そうか。なら一つつまらぬ寝物語でも聞かせてやろう」
まるで暗示をかけるがごとくぼんやりと浮かび上がるろうそくの火から目をそらすように、
王も少女に寄り添って目を閉じた。
暗闇は嫌いではない。
子どもの頃、何かあるたび目を閉じて何もない世界に逃げ込んだ。
その度に自分をリセットすることができたような気がした。
見たくないものは見なければいい。そらすことができるならそらしてしまえばいい。
自分が最初に自分自身の経験から学んだものは、恐らくそれだった―。




