懐古;5.散り散りに、乱れる
同情など、したわけではなかった。
牢に閉じ込められ、名を与えられ、彼のその胸に強引に抱かれるようになって数日。
ノイルは『寝物語』を彼女に語って聞かせた。
彼からすれば自分のことを知らぬ『ローズ』に話したつもりであったのだろうが、まぎれもなく彼女は『フィリア』。
はっきりとは言わなかったものの、その内容が彼の過去であることは明らかだった。
4年前に彼が一時帰国した後にあったこと、確かにそれは悲しいことであっただろう。
怒り、寂しさ、悔しさ…言い尽くせないほどのたくさんの感情が渦巻く中、まるで『復讐』するかのようにことごとく目の前にあるものを滅ぼし、手に入れたこの国。
だが所詮、それは彼の勝手にすぎない。
その後盲目的に世界を手中に収めるがために一体何人の血が流れたのか。
どれほどの屍を踏み越えて恨みの声に耳をふさいできたのか。
フィリアも彼を憎む者の一人。
しかし、憎しみだけでは前に進めないと冷静に考えている自分もいた。
彼は愚かにも王である立場を忘れてか彼女を抱いた後、隣に身体を投げ出してそのまま眠る。
そしてまるで自分を試すかのように「恨んでいるだろうな」であったり「牢を出たいか」であったり尋ねては苦笑する。
そんな理解できない彼の行動が、かえって彼女を冷静にしたのかもしれない。
何度も身体を重ねた今であっても心は許していないけれど、重圧のごとくのしかかるこの負の感情から逃れる術は知った。
何も求めずに、受け入れてしまえばいいのだと。
上辺だけ笑って、適当に相槌を打って、欲しいというならばこの空の身体、くれてやればいい。
自分の内に秘める心に何を抱こうとも、これだけは自分のもの。
そう。
私の、もの。
「ローズ、牢を出たいか?」
ある日、ふとやってきたノイルはぼんやりと視線を伏せたままのフィリアに尋ねた。
またいつもの気まぐれな質問が投げかけられたのだと彼女は思ったのだけど、声だけを伺うに、覇気がないような気がした。
わざわざ顔を上げずとも彼が自分を見ていることは分かっている。
全身を刺すがごとく自分に向けられている彼の視線。
その視線が、今日はなんだか…。
その後、王である自分の子を生むか、または自分を殺すかすれば出られると言葉を続けた彼に、フィリアは怒りにも似たような感情で顔を上げずにはいられなかった。
一体この王は何を言っているのか。
本当に私があなたを殺せると思っているのか。
私があなたの子を生むことを望んでいると思っているのか。
だから言ってやった。
私は死を恐れてはいないのだと。
あなたから賜ろうとも、自ら選ぼうともどちらでも良い。
その時が来たならば、ためらうことなくそれを受け入れよう。
あれだけ容赦なく人の命を奪ってきたこの王は、なぜ私を殺そうとしないのか。
私を『フィリア』であると思っている様子はない。
こんなところに閉じ込めて奴隷である私を抱くことは王であるあなた自身の評判を落としかねないのに。
私に『フィリア』を見ているのか、それともただの気まぐれか分からないけれど。
もしかしたら彼に向けた視線は、彼を睨みつけていたかもしれない。
一瞬表情をゆがめた彼は彼女を力強く胸に抱き、一言告げた。
「2日後の早朝遠征に出る。お前も連れて行く」
目を見開いて彼を見ずにはいられなかった。
両手の自由を奪われたまま彼の籠に乗せられ、牢の中にいる時と同じように強引に抱かれ、そして夜、テントの中に呼ばれたフィリア。
酒の匂いを漂わせながらすでに酔っていた様子の彼の『戯れ』に適当に相槌を打ちながら、フィリアはすでにある一つの決断を下していた。
奴隷が外の世界に出ることを許されるのは死して身体が冷たくなった時のみ。
かつて姉夫婦が治めていた国で彼の手によって奴隷となり、彼の国に連行され、閉じ込められた時、二度と生きて外の空気を吸うことはないのだとあきらめていたのに、今、彼の気まぐれによって牢から出され、城から出され、こうして外界にいる。
ここは、遠い昔に兄が婿として入った国。
間違えるはずがない。見覚えのある景色と、至る所に咲いているローズ。
まだ幼い頃、この国の先代の王に父が挨拶に行くという時、兄に会いたいがばかりに駄々をこねてついてきたことがあった。
ああ。自分はこのようになってしまったのに、ここはあの時と全く変わっていない。
これこそが、死を決した自分に対する神のご加護なのかもしれない。
姉の言葉に従い、なかば意地でこれまで生き延びてきたけれど、死した身体のみが触れることを許されるこの空気に触れた今こそ、きっと自分の最期を看取る時が来たのだ。
それに。
もう二度と人を殺す彼の姿を見たくない。
姉の国にいた時、直接彼が手を下したところこそ見なかったけれど、彼の命を受けたたくさんの者たちが、彼の意思に忠実に従い、彼に成り代わって多くの血を流す。
響き渡る悲鳴が、断末魔が、耳から離れない。
あの光景が、頭にこびりついて離れない。
豪勢な鎧に身を包み、豪快に酒を仰ぐ今の彼の姿を目の前にして、フィリアの記憶に残っていた昔のノイルの姿は次第に影を薄めていった。
ローズ1本手折ることを躊躇した彼が、今は容赦なく人の命を奪う。
そしてそんな彼を愛した自分自身。
外に出られたこの機会に自分の後始末をつけても、先に逝ってしまった姉や父は決して自分を責めやしないだろう。
だからこそ、きっと彼に両手を差し伸べることができたのだろう。
無理矢理に飲まされたワインを口からこぼしてしまった彼女の口を思う存分味わった王が離れていかないよう、フィリアは両腕でしっかりと抱きしめた。
かつて愛した人。
建前で感情に結論を導き、一種自己完結したとはいえ、その奥の奥ではやはり彼を憎む気持ちが残っている。
そしてきっと。
表裏一体の如く、確かに抱いた彼をいとおしむ気持ちも恐らく残っている。
だからこそ最後に、彼を自ら抱きしめておきたかった。
しっかりと見つめて、意識して微笑んで、できるだけ優しく、そっと。
この時初めて、フィリアは自分から彼に口付けをした。
自ら彼に触れるのは、これが最初で最後。
翌日、ふと目が覚めて彼女はまず驚いた。
初めて、彼の隣で『眠った』のだ。
これまでは彼が隣にいる時は眠ったふりをしながら一晩中空虚な時間を過ごしてきた。
牢の中にいるという現実、自分をどん底に陥れた彼の存在を身近に感じているという現実。
変えようのない現実と多々入り混じる感情に心を乱され、決して彼の側で眠ることなどできなかったのに。
だからこそたった一人きりにならなければ眠ることなどできなかったのに。
突然覚醒した意識に反してなかなか開こうとしなかった目をゆっくりと開けて見たその先には、姉の国を滅ぼされたその日に見たものと同じ、武装した彼の姿があった。
彼女はそれを直視できずにしばし視線を彷徨わせながら乱れた己の髪を整えた。
そしてようやく、意を決して彼を見た。
「出発のお時間ですか?」
そう問うた彼女に、彼は微笑して口付けを落とした。
それからいくつか言葉を交わした後、彼は迷うことなく言ったのだ。
お前に自由を与えると。
そう言ったくせに。
最後に彼が彼女に置いていった言葉を聞いて呆然とした。
「俺が再びここに戻った時、もしお前が逃げずに留まっていたなら…俺は二度とお前に自由は与えない。生涯、放さない」
どれほどの時がたっただろう。
変わらず呆然としていた彼女の耳に、突然砲撃の音が聞こえてきた。
我に返ってテントから顔を出すと、遠くに見えるのは煙とたくさんの人間の叫び声。
始まったのだ。
ここからはよく見えないが、たいして時を経ずして今あるこの国の風景は、見るも無残なものに変わってしまうのだろう。
無意識のうちに眉間に皺が寄る。
もう、見たくない。
フィリアは衝動的にテントから飛び出し、方向も分からぬまま走った。
手に一つ、小瓶をぎゅっと握りしめて。




