懐古;2.一時の安らぎ
「いいこと?お父様には内緒よ?」
必死に彼女を止めようとする侍女たちを振り切って、軽装に着替えたフィリアはノイルを連れて城下に繰り出した。
初めこそ彼女の行動にただただおろおろしていたノイルだったけれども、見たことのないものたちが立ち並ぶ街の様子に次第に興奮し始めていた。
「フィリア様、あれは何なのでしょうか?」
「あれは我が国特産の果物です。あれもノイル様の国には?」
「ありません。あれは甘いのでしょうか?」
「ええ。よろしければ食べてみましょうか」
まるで子どものようにはしゃぐノイルに、フィリアは口元を緩めた。
城下の郊外に大きな木がある。
ノイルに街を見せてやろうと思ったこともあるが、フィリアはどうしてもそこへ彼を連れて行きたかった。
好奇の視線をあちらこちらに向けながら彼女の後を着いてきたノイルは、ふと目の前に現れた大木に圧倒される。
「これは…随分と大きな木ですね」
「ええ。もう樹齢もどれほどなのか分からないものなのです。お父様はきっとこれが国で一番の古木だと申しておりましたわ」
そう言うと、フィリアはおもむろに両腕をグルグル回し始めた。
そしてノイルに手を差し出す。
「さあノイル様、参りますわよ」
「え…どこへ、ですか?」
「あちらです」
彼女が指差したのは大木の上。
「ノイル様は木登りはできますか?」
彼が答える前に彼女はその手をとって大木に近寄る。
そして慣れているかのように木を登り始めた。
「危ないですよ」
「大丈夫です。幼い頃、よくお兄様方と登りましたから」
木の下でどうすることもできずにいるノイルを尻目にフィリアはスルスルと木を登る。
そしてある程度登った所で動きを止め、彼を呼ぶ。
「さあノイル様も早く」
しばし悩んでいたノイルだったけれども、大きく息を吸い、意を決して大木にしがみついた。
フィリアがかかった時間よりも長くそれをかけて彼女のいる場所までたどりついたノイルの目に飛び込んできたモノ。
「わあ…」
「すごいでしょう?ローズのことをとても褒めてくださったから、ぜひこれをノイル様にお見せしたいと思いましたの」
太い枝に腰掛けて二人眺めたその先に広がっているのは―まるでローズの絨毯。
真っ赤なローズばかりがそこに咲き、見ている彼らの視線を独り占めする。
ノイルは感嘆しながらしばしそれを眺めていた。
そしてその様子を、フィリアは嬉しそうに眺めていた。
「昔は…一緒にこれを眺めてくださるお兄様方がたくさんおりました。けれどお一人またお一人と他国に行ってしまわれて…。花を摘んで語り合ってくださったお姉様方ももうおりません。ですから誰かとここへ来たのは本当に久しぶりなのです」
「フィリア様?」
フィリアは微笑みながら目を伏せた。
「いつか私もお姉さまたちと同じようにどこか知らない国へ嫁ぐのでしょうね」
フィリアの突然の言葉に、ノイルは目を見開いた。
「そのようなお話が出ているのですか?」
「いいえ。けれどすぐ上のお姉さまは11歳の時に嫁がれたの。だから…」
いつも彼に対して笑っていた彼女がこのような表情を見せたのは初めてかもしれなかった。
彼女と仲良くなって、いつしか安らぎを感じるようになって、忘れていたのかもしれない。
自分と彼女の立場を。
けれど。
「悔しいです。もし私に力があったなら…あなたを国の道具にはさせないのに」
「仕方ありませんわ。王族に生まれた故の運命ですもの。私も、あなたも」
「ですがだからといって自由をあきらめてしまわなければならないのですか…?」
どうしても彼女の言葉を否定しないではいられなかった。
そうそれは、彼が彼女のことを一人の女性として見た瞬間。
自分が人質として出されたのは彼女の国との争いを避けるためであるのに、それに抗ってまで彼女のことを欲した瞬間。
それから3年の月日がたった。
13才になったノイルは国と国との協定により、一時的にではあるが帰国することを許された。
単純に嬉しいと思った。
けれどもフィリアと離れがたくも思った。
同じく13才になったフィリアは幸運にもまだ嫁がずに国に残ってはいたが、彼女自身が言ったとおり、いつ他国に嫁いでもおかしくなかった。
数日自分の国に留まった後、再びこの国に戻っては来るけれど、その短い間に彼女がいなくなってしまうことを否定できない。
けれど今の自分に、彼女に気持ちを伝えることなどできるはずもなかった。
小国の人質の身分である自分に。
帰国の朝、わざわざフィリアが見送りに出てくれた。
今はローズの咲く季節ではない。
あれから何枚も何枚もノイルはノートにローズの絵を描いた。
それをしっかりと携えている彼の様子にフィリアは噴出しそうになりながらも一時の別れの言葉を告げる。
「ご帰国おめでとうございます。ずっとお寂しかったでしょう?」
「…いいえ」
「あら、ご遠慮なさらなくてよろしいのに」
この3年でフィリアはまた一段と美しくなった。
それはまるであの真っ赤なローズのように。
「…フィリア様。お土産、何がよろしいですか?」
「お気を遣わなくてもよろしいのに」
「そちらこそご遠慮なさらず」
「なら、ノイル様にお任せいたしますわ」
馬の声が高く遠く響く。
名残惜しそうにノイルは自国からやってきた馬車に乗り込んだ。
フィリアは、いつもと変わらぬ笑みで彼を見送った。
その翌日、フィリアは父王の命令によりすぐ上の姉が嫁いだ国に使者として旅立った。
様子伺いという名目で、今はその国の王となっている姉の夫に父王の手紙を届けに行ったのだ。
王女自らが使者に立つということは、それほどに内容が重要であるということ。
ノイルに心配をかけたくないがため内緒にしていたが、フィリアは近々自分の国とどこかの国が戦争に入ることを知っていた。
それゆえ、同盟国として加勢して欲しいという父王の手紙を届けることになったのだ。
フィリアと再会した姉は大喜びで彼女を抱きしめた。
「国の様子はどう?お父様は変わらずお元気?」
色々なことを問われつつもフィリアは姉との再会を心から喜んだ。
「ええ。お父様はとても元気よ。時期になると、国にはローズの花がたくさん咲いているわ」
「せっかく会えたんだもの。ゆっくりしていきなさい。どのぐらい滞在できるの?」
「ごめんなさい。あさってには帰ろうと思っているの」
「王のお話では近々どこかの国と戦いが起こるかもしれないとのこと。そんなに早く帰っては危ないのではないの?」
「でも、帰ってやらなければならないことがあるの」
フィリアは姉から目をそらして、視線を定めずに遠くを眺めた。
彼は3日後に戻ってくると言っていた。
戻ってきた時、自分が不在であるのは申し訳ないような気がして。
ううん。私が、あの方にお会いしたいのよ。
彼女もまた、一つの感情に行き着いていた。
しかし彼とは違って、この感情の名がなんというものなのか、はっきりさせられずにいた。
だが、二度とフィリアが自国の土を踏むことはなかった。
国へ帰ろうというその日、急の知らせが父王より届いたからだ。
【戻ってはならぬ。何があっても、国に戻ってはならぬ】
たったこれだけの知らせに、姉と共に呆然とした。
その後自国がノイルによって滅ぼされたという知らせがフィリアの元に届いたのは、その翌日のことであった。




