懐古;1.芽生え
記憶が正しければ、初めて彼に会ったのは10才の時。
父王に呼ばれてフィリアが謁見の間に行くと、そこにいたのは一人の少年。
遊学に来たのだという。
だがすでにこれまでたくさんの他の国々の王子たちが『遊学』という名目で自分の国に来ていたことを知っていたフィリアが、本当の意味を知らぬはずがなかった。
「初めまして。第8王女、フィリア・セシリアと申します」
フィリアはドレスの端を両手で少し持ち上げ、小さく礼をした。
「私は…ノイル・アレイダと申します」
緊張しているのか、それとも恐怖しているのか、彼女の目の前にいる少年は名乗ったきり黙りこくってしまった。
まともにこちらを見ようともしないノイルに対して眉をひそめたフィリアは、どうしたらよいのでしょうかと尋ねるような視線を父に向けた。
彼女の父は、フィリアの背中を軽く押して彼に近づけ、微笑んだ。
「フィリア。ノイル王子は本日この国に参られたばかり。同じ年の頃ということでお前に王子の面倒を見て欲しいのだよ。共に学び、語らい、王子の良き友となって欲しい」
「私が…ですか?」
父王は大きく頷いた。
フィリアはやはりますます眉をひそめずにはいられなかったのだが、父とはいえ王の命令。
従わないわけにはいかず、頷いた。
どうして王女の自分が遊学に来たのだという王子の面倒を見る羽目になったのか、後日父から聞かされたフィリア。
―そりゃ誰だって正妃の子が人質に出されるなんて思わないわよ。
今でもこの国に滞在している他国のたくさんの王子たちは皆側室腹の者たちばかり。
いくら王子という身分であっても母の身分は将来を大きく左右する。
ノイルの国に比べれば王女の国の方が大きいのだけど、さすがに正妃の子ということで、父王も最大限に心を砕いたのだろう。
その結果が自分というわけか。
年が同じだというだけで面倒を負わされたとフィリアはこっそりそう思わずにはいられなかったのだが、しかし故郷を離れ、いわば敵国に放り込まれた王子のことを考えればなおざりにすることもできなかった。
この世界には数え切れないほどの国々が存在している。
互いに笑顔の裏にたくさんの思惑を潜めて心の奥を探り、虎視眈々と相手の隙を狙っている。
その犠牲になるのはいつも王の子女たち。
男子は跡継ぎ以外は人質として他国に出され、女子は政略結婚の道具に使われる。
フィリアの兄たちも長兄以外はすでにこの国にはいない。
姉たちも皆他国の正妃・側室としてすでに嫁いでいる。
順番からいけば次は自分か。
10才という年齢を考えれば、そのような話がいつきてもおかしくない。
父によって対面させられたノイルのいわば世話役になって数日。
しかしフィリアが話しかけなければ絶対にノイルが声を発することはなかった。
発しても「はい」「そうですね」のみ。
相手は他国の正妃の子。しかもこの国に来て間もない。
そう思えばこそ最初は我慢していた彼女だったけれども、それも幾日も続けばさすがに「一体何なのか」と思わずにはいられなくなってくる。
「姫様。王様にこのお役をおろさせて頂けるようお願いしてみてはいかがですか?」
フィリアの様子を察してか、数人の侍女たちが声をかけてきた。
「お父様直々のお願い事だもの。そう簡単にはお断りできないわ」
そうは言ってみたものの、しかしフィリアにもそろそろ限界がきていた。
今日もいつもの決まった時間にフィリアの部屋のドアがノックされた。
一冊のノートを持って静かに現れたのはノイル。
どうぞと招かれて彼は小さく頭を下げ、中に入る。
その時フィリアは丁度侍女が摘んできてくれた花を花瓶に生けているところだった。
「申し訳ありません。少しお待ち頂けますか?」
フィリアの言葉に無言で頷いてノイルは腰を下ろす。
いつもであればそのままノートを開いて勉学にいそしむのだが、今日に限っては違っていた。
彼に背を向けて花を生けていた彼女だったけれど、なんだか妙に視線を感じるような気がして振り向くと、彼がじっとこちらを見ているではないか。
彼女がこちらを見たことに驚いたのか彼はすぐさま俯いてしまったけれど、しかしすぐに迷うようにチラリチラリとフィリアの方を見る。
これまで彼がそのようなことをしたことがなかったので彼女は首を傾げた。
「何か…ありまして?」
「い…いえ…そうではなく…その…」
「?」
「その…あなたが生けていらっしゃるそれ…。それは…花ですか?」
「え…ええ」
フィリアは気をつけて棘のないところを持って彼に見せた。
彼は身を前に乗り出してそれを眺めた。
「美しい花ですね」
「もしかしてご覧になったことがないのですか?」
「私の国にそのような花はありませんから」
いつもは必要以上に言葉を発しない彼が自分に応答することに驚きを覚えた。
初めてまともなコミュニケーションがとれたのではないかとフィリアは感じつつ、今度は花瓶ごと彼の前に差し出した。
「ローズ、という花です。この国の国花であり、私の一番好きな花でもあります」
ノイルの様子に戸惑いながら、フィリアも彼の側に腰を下ろした。
ノイルは食い入るようにローズを眺めていた。
「これは…赤い色だけなのですか?」
「いいえ。色々な色があります。けれど私は赤いものが一番美しいと思っています」
「触っても…いいですか?」
「構いませんけど、棘にはお気をつけ下さい」
フィリアは一輪花瓶から取り出して用心してノイルにそれを渡した。
ノイルはとても驚いた様子で手に持った花を不思議そうに見ていた。
「棘のある花も初めて見ました。私の国にも花はたくさんありますが、やはりこれは見たことがありません。美しい、けれど棘がある。これは身を守るためなのでしょうか」
「そこまでは分かりませんけど、きっとローズにとって必要なものだからあるのでしょうね」
しばしローズを眺めた後、ノイルはそれをフィリアに返した。
そしてふとノートを開き、何かを描き始めた。
「ノイル様?」
「勝手なこと申し訳ありません。けれどこの花を描きとめて今度我が国に戻りし折、ぜひ父や母、兄弟たちに教えてやりたく思いまして」
あまりにも必死な形相でペンを走らせるノイルに、おもわずフィリアは噴出してしまった。
「構いませんけど、どうせなら本物をお持ちになられた方がよろしいのでは?この国にはたくさんのローズが咲いています。ノイル様に何本かお分けいたしましょう」
「いいえ、とんでもない。私の国にこのローズがないということは土地や水、空気、天候が合わぬということ。そのような所へ持ち帰ってたら死なせてしまうだけです」
「お優しいのですね」
フィリアがニコリと微笑むと、ノイルは恥ずかしそうに俯いてしまった。
やはりフィリアは、口元を緩めずにはいられなかったのだけど。
この日、フィリアとノイルはローズについて語り合った。
これがきっかけになったのか、その後彼はしきりにこの国の自然や社会について知りたがり、フィリアと会うたび彼女を質問攻めにした。
フィリアは、それら一つ一つに丁寧に答えていった。
「姫様、最近とても楽しそうですね」
「そ、そうかしら」
「ええ。とても」
気付けば彼に対してフィリアが眉をひそめることはなくなっていた。
ようやく彼とたくさん話せるようになって、彼はとても博識であることを知った。
花の命さえ気遣う彼の優しさに、いつしか自分も穏やかさを感じるようになっていた。
質問と返事以外の会話が普通にできるようになった頃、彼女は彼に尋ねたものだった。
どうしてずっと俯いていらしたの?お話をしてくださらなかったの?
それは単に私が…小心者であるがゆえです。
頬を少し染めてはにかむ彼に、フィリアは何か形ないものを感じずにはいられなかった。




