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ローズ  作者: 紫藤なごみ
10/20

10.ローズ

一瞬、何を問われたのかと思った。

今宵限りの再会に、自分をたばかっているのかと思った。

しかし王女の目は真剣だった。

顔を赤らめるでもなく、恥らうでもなく、ただ彼の答えを待っていた。


なぜ今更そのようなことを聞くのか。


「好いているのかと問われれば、好いているに決まっています。これまであなたのことを一度たりとも忘れたことはなかったのだから」

「そうですか…ならば今すぐに私を、抱くことはできますか?」

「…は?」


だが王女はやはり真剣に彼に問うている。

表情を変えることなく、もし彼が彼女を抱きしめようものなら簡単に思うがままになる様で、自分の側に置いていた明かりを少し遠ざけた。

さすがの少年王も、彼女の言葉に、行動に、眉をひそめずにはいられない。

「お戯れもいい加減になされよ」

「戯れで女の方からこのようなこと、申せませぬ」

「フィリア王女…?」

彼がすべてを言う前に、彼女が抱きついてきた。

「ずっとずっと…あなたのことをお慕い申し上げてきたのです」


鼓動が、大きく跳ねた。

危うく口より飛び出してしまうのではないかと思われたほど。


ぼんやりとする意識の中、彼はこっそりと笑った。

これまで数え切れないほどの命を奪い、恨みと憎しみを一身に帯びてきた自分に、神は最後の夢をみせてくれたのかと。

信じられるのは己のみ。

それなのに神は最後の最後に我に情けをかけたか―?


自分の両親兄弟姉妹たちの死よりも、王女ただ一人の死の方が耐えられぬ苦しみだった。

だからこそ彼女につながる国を、父である王を、ためらいなく滅した。

その王女がまさか生きていた。そして自分のことを慕っているという。

これが笑わずにいられようか。


彼は信じていない神を仰ぎ見るように、彼の身体にぴたりと貼りついている彼女を抱きしめ返すこともせず目を閉じて顔をおもいきり上げた。

そしてしばしたって、彼の両手は彼女を一度も抱きしめることなく自分から引き離した。


「王女。俺にとってそのお言葉はこの世の何事にも変えられぬ至極。確かに俺は今でもあなたのことを好いてはいる。けれど…愛しい女が別にいるのです」

王女は目を見開いて彼を見上げた。

「その方も…あなたのことを愛しく思っておられるのですか?」

「いや。むしろ憎んでいるでしょう」

彼は声に出して笑った。


まさにこの時、王女にだぶっていたローズの影が消えた。


「俺は散々彼女に酷いことをしたゆえ、憎まれることがあっても好かれていることはまずありえない。けれど俺は彼女が愛しくてたまらない。それだけです」

「報われない想い、ですか。苦しくありませんか?」

「…あなたのおかげです。あなたのおかげで俺は再び誰かを愛することができた。ゆえにその気持ちを持って地獄に堕ちること、何ら恐ろしくありません」

彼は王女の手をとり、そっと唇を落とした。

「けれど、最後にあなたにお会いできて本当によかった。あなたが生きていてくれたこと、本当に…本当に嬉しかった…。俺がこのようなことを申し上げる資格はないのかもしれないが…親愛なる王女、あなたのこれからの人生が幸福でありますよう、ひたすらに心よりお祈り申し上げる」


そう、彼女の兄の言ったとおり、自分が死ねば恐らく本当にこの世界は救われる。

自分がこれまでやってきたこと、その事実は消えることはないけれど、自分の死を心から望み、喜ぶ者は多いはずだから。

これまで一度も死を恐れたことはなかったけれど、今まさに何かのために、誰かのために死んでも良いと思えたのは、迷うことなく彼女のおかげ。


ローズ。

今目の前にいる王女が幼い頃こよなく愛した花の名。

立ちはだかる棘の先に咲く美しき存在。


お前も、俺がいなくなれば救われる者の一人。

最期に、お前をいとおしく想う気持ちを抱いて逝くことをどうか許せ。



「羨ましいです。その方が」

王女は微笑んでぽつりと言葉をこぼした。

彼女はフッと息を吹きかけて持っていた明かりを消し、彼の顔に両手を添えた。

「けれど、あなたがそのような方で本当によかった」

明かりの消えた牢の中で彼女はそっと、彼の唇に自分の唇を重ねた。






それからどれほどの時がたったのか。

太陽の光が差し込まぬ牢の中では時間を推し量ることは容易ではない。

それを十分に知っている少年王であったが、いつの間にか眠っていたらしい。

身体を起こそうと動かすと、隣に感じる一つのぬくもり。

王女。

ついに王女も、一晩牢の中の彼の側で過ごしてしまったらしい。

彼女を起こさぬよう手を動かし、共に眠っている彼女の髪を梳いた。

ローズを思い出さずにはいられない。

「ん…」

彼女が寝返りを打った。

「起こしてしまいましたか…」

「いいえ。そろそろ起きねばならない時間でしょう」

「早くお戻りを。さもなくば俺を迎えに来た者たちと鉢合わせしてしまう」

彼女は身体を起こして、両手で髪と衣服を整えた。

「迎えは来ません。兄より私が、あなたを連れてくるよう申しつかっております」

そして、彼女は夕べしたのと同じように、牢の鍵を開けた。


「参りましょう」


王女に死刑台への道案内をさせるとは最後の最後まですばらしい演出をなさる。

彼女の兄王に心の中で苦笑しながら少年王ノイルは従って牢を出た。




さらばだ、ローズ。




今が一体何時なのか分からないまま、彼は王女に連れられて日の当たる場所に出た。

昨日たくさんの兵たちに囲まれて歩いたこの城は、彼の城よりも少々小さい。

しかしその豪勢な造りは新興国とは思えないほど贅沢だ。


なのに、城の中は恐ろしいほどに静かだった。


沸き立っていると思っていた。

悪名高い自分を処刑するこの城の王は、世界にとってまさに英雄。

あれだけ罵声をあびせかけてきたたくさんの兵士たち。一人もいない。

まるで、この城には王女と自分の二人しかいないのではないかと錯覚してしまうほど。


王女は何も言わずにただゆっくり歩いている。

その彼女の後姿を見つめたまま、彼も歩いている。

ああこの空気、自分が家族を殺したあの日とよく似ている。

だがあの日は不気味なほどに落ち着いていた自分であったが、今は妙に緊張している。

本当に、あまりにも静か過ぎて。


ようやく、ある部屋の前まで来て王女は歩みを止めた。

周りの部屋に比べて明らかに華やかな造りをしている。

ここが彼女の兄の部屋であることは明らかだった。

「王女。俺の行き先は処刑台では…?」

「最後にもう一度、兄があなたとお話をしたいと申しておりましたゆえ」

王女はドアノブに手をかけ、ゆっくりとそれを引いた。


てっきり、満面の笑顔をたたえた王がそこにいると思っていた。


「どういう…ことだ…?」

王女の背中越しに見えた部屋の奥。

そこに転がっていたのは…彼女の兄。

恐ろしいほどに目を見開いたまま、口からだらしなく唾液を垂れ流したまま、彼はベッドから上体を下に落とした体勢でそこにいた。

胸や首をかきむしったのだろうか。

両の手はその動作を予測させる形のままそこにあった。

そしてその側にもう一人。

それは恐らく彼の妻。

その女性も彼と同じような形ですでに事切れていた。


少年王の脳裏に、かつて自分が父王に刀を突き立てた光景が蘇った。

だが目の前にいる二人はあの時の父のように血を流すこともなく、いわば綺麗なままで死んでいる。

動かぬ王女をそのままに、彼は静かに二人に近寄り、様子を伺う。

「毒…?」

彼らに触れてみる。

推測にしかすぎないが、彼らはかなり前にすでに殺されていたようだった。

「王女!」

慌てて彼は振り返る。

ぼんやりとその光景を眺めている王女を何度も呼ぶ。

しかし彼女は反応しない。

彼は不思議に思いながらももはや自分がこれから処刑されるのだということを忘れて部屋を飛び出し、手当たり次第辺りを見て回った。

かつて、彼の父がそうしたように。


しばらくして彼は息を切らしたまま戻ってきた。

あの時と同じだった。

ただ、血の海に浸っていない、ただそれが違うだけ。

彼が戻ってきた時、王女は変わらずその場に立ち尽くしていた。

「すべてを確認したわけではないが、この城の者たちはあなたの兄君と同じように…」

言いかけて、彼はふと口をつぐんだ。

最後まで言葉にすることは、さすがの少年王にもはばかられた。

一体どういうことだ。

彼が牢に連行されてから今ここにこうしているまで、一日もたっていない。

それなのにこんなことがあり得るのか…?


王女は微動だにしなかった。

視線もそのままにすでにこの世のものではない兄を見つめていた。

彼には彼女の気持ちが分かるつもりだった。

呆然と、放心。

頭が真っ白。

言葉になど、言い表せない。


だがふと、彼は当然のごとく一つの疑問にぶち当たる。

一体誰がこんなことを?


「王女。あなたが牢にいらっしゃる前、異変などはありませんでしたか?怪しい者などおりませんでしたか?」

「…このような時であっても、もしかしたら今頃あなたは処刑台に上っていたかもしれないのに、私のことを心配して下さるのですね。お優しいところ、本当に変わっておられませんわ」

王女はようやく身体を動かして、手を伸ばして冷たくなった兄の顔に触れた。

「お兄様…」

少年王はどうして彼女がこれほどまでに落ち着いているのか分からなかった。

まるで最初から知っていたかのような…。

知っていた…?


「王女。誰が手を下したのかご存知か…?」

「ええ。知っております」


彼女はにっこりと微笑んで、彼の方を振り返った。

その笑顔を、彼は驚きの表情で見た。

まさに、子どもの頃に見たそれと同じそれ。

そして、かつて自分の城の牢に閉じ込めていたローズが最後にみせたものと同じ、それ。


「ロー…ズ?」

「…ようやくお気づきになられましたの?もっと早く気付いて下さると思っておりましたのに」

「だがあなたは俺の名を…」

「私が生を受けた時に父から授かった名は『フィリア・セシリア』。そしてもう一つ、あなたから頂いた名は『ローズ』。ですから私があなたの名を知っているのは間違いではないのです。だって幼い頃に直接あなたから教えて頂いたのですもの」


これ以上彼女に尋ねる必要はなかった。

誰が彼女の兄を殺したかなんて、彼女の笑みがすべてを語っているではないか。


彼女は立ち上がって真っ直ぐに彼の前にやって来た。

そして手を伸ばし、彼の頬に触れる。

「なぜ、このようなことを?おっしゃったではないか、この兄君が最後に残ったあなたの肉親だと」

「簡単なことです。昨日も申し上げたでしょう?ずっとあなたのことをお慕い申し上げていたと。ただ…それだけです」


それから彼女は彼に自国が滅んだ後の自分にあったことを語って聞かせた。

身を寄せていた姉の国が彼によって滅ぼされる直前、姉は彼女に平民の格好をさせて逃がしたこと。

命は助かったものの、しかし彼女も他の民と共に捕えられ、彼の国の奴隷となったこと。

そして…彼と再会したこと。


「初めからこの国の王が我が兄であることは知っていました。ゆえにあなたに連れられてこの国に来た時、自害して果てようと思っていたのです。あなたが去った後、テントから外に出た私はしばし彷徨うように歩き回った。そうこうしているうちに見かけた兄の兵に捕えられたあなたの姿」


名を名乗って兄と面会した。

兄は自分が故国のことを詳細に語ったこと、兄と姉の名を知っていたこと、それらの話と私の容姿を総合して私が自分の妹であることを認めた。

そして敵国の王はかつて自国に人質として出されていた王子であることも聞かされ、兄は一計を案じた。

私を使ってあなたの心をどん底につき落とし、絶望させた上で処刑してやろうと。

しかし本当に利用されたのは―兄。


「本当ならいつでも自害できたのにできなかった私は、やはりあなたを心底憎みきれなかったのでしょうね」


彼女が懐から取り出したのは小さな小瓶。

子どもの頃、大国の王女として何かあった時にはと父に渡されていた毒。

それを使って兄を、兄の城の者たちを毒殺したのは―私。

あなたを生かすために。


「王女…」

「申し上げたでしょう。私はもう王女ではないと。国を滅ぼし、父を殺したあなたのことを許せるはずがないのに、実際私がしたことはこの有様。一番愚かなのはこの私。でも…どうあっても…あなたを死なせたくなかった。あなたには…生きていて欲しかった…!」

その時、彼女の言葉を封じるように彼は力強く彼女を抱きしめた。

彼女が手にしていた小瓶が、音を立てて地に落ちる。

「すべては俺の責任だ。あなたにこのようなことをさせてしまったのも、あなたの人生を狂わせてしまったのも、すべて。本当なら俺こそがあなたに殺されてしかるべきなのに」


彼の瞳から、一筋の雫が流れ落ちる。

家族を殺した時でさえ流れなかったそれが、今この時、迷うことなく溢れ出る。

「本当に…謝っても謝りきれない…」

彼の涙が彼女の肌に落ちた。

その上に、彼女の涙も重なり落ちる。

「私に、あなたを殺すことなんてできるはずがないでしょう?あなたが、愛しいのに」

彼女はそっと彼の腕の中から離れ、彼の手を、自身の腹に添えた。

「あなたがたくさんの人たちの恨みや憎しみを背負って地獄に堕ちるというのなら、喜んで私もそれに従いましょう。けれどもこの子には…美しいものだけを見せてあげたいと願うのは、許されないことでしょうか…?」





主を始めすべてが死に絶えた静かな城の中に、二つの涙が入り混じる。

若干17歳の少年王ノイルがやがてこの世界に残ったすべての国々を滅ぼし、その頂点に立つことになるのは、この時よりあまり間を置かずしてのことである。

ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました。

次話以降はインサイドストーリーです。

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