最近気づいた事だが
無上に壮大で、無限大なほどの博識さが求められる小説は特に顕著だ
俺は理想として、白紙のプロットと設定で物語が書ければ、究極の小説を生み出せると確信している。
だが現実は酷なモノで、プロットや設定が無ければ、なんと物語は執筆できないという不文律、ルールが絶対存在している。
これを解決するには第一に、他人にプロットや設定を任せる。
または、過去に、記憶が無くなるほど前に、プロットや設定を作り、自分で書くという手法だ。
だがどっちにしろ、既知の範囲内に収まる世界を展開させるのだから、微妙になる。
絶妙に曖昧に、書ければ良いが、どうも上手くいかない。
楽しく書くという一点に焦点を絞れば、俺はなにも考えないで適当に書きたい。
適当な世界観で、適当なやり口で、物語が書ければ、どれほど良いか。
だがこれも、現実は酷なモノであり、子供のように小説は書けないのが当たり前だ。
無垢な視点なんて、現実は弱者として淘汰するのだ。
理性的な大人として、現実に存在するのなら、どうすれば良い? という話になる。
俺は、どうでも良い、下らない世界を描くつもりは無い。
理性的に考えて、これから先に役立つような、
それこそ、小説という媒体だが、現実の高名な学会などが注目してしまうような、そういうモノが描きたいのだ。
でも、これも凄まじく面倒くさい、時間軸を無駄に浪費するような話だ。
俺は大学院に行って教授とかになり、第一線で研究するような有様には、成りたくないという事だ。
小説が描きたいのだ。
過去において小説に救われ、小説という媒体に、己の全てを捧げたいのだ、小説を愛しているのだ。
だから、どうすれば俺が心の底から楽しいと思える小説が書けるか、書けるようになるか、ずっと考えていた。
今でも、最終回答と言えるようなモノは見つからず、俺からしたら今も、だらだらと余生のような人生を送っている。
もっともっともっと、と、追い求め過ぎて、原点としての何かを失っている気がするのだ。
俺がやりたかった事は、果たしてこういう事だったのか? と。
そこで見つけたのが、此処だ。
此処には、原点という原点が詰っていた。
小説を見る目に自信なんぞ抱いたことなく、あらゆる小説を愛する俺から見ても、下らない小説と言わざるを得ないモノ達だ。
だが、それこそが俺の原点だ。
小説によって、人を変える、人を救う、その光景を目の当たりにしたい。
いろいろやってきたが、今の俺がしたいのは、つまりはそういう事だったのだ。
原点なんぞとほざいたが、俺の今の流行がそれだったのかもしれん、良く分からん。
ただ一つ言っておく、俺は全力でお前らを、俺が思うより良い形に変革してやりたいと思っている。
今日はこれにて以上、次もよろしく頼む。