カリダの襲来
「『カリダ』が住んでいるのはちょうどこの辺りだよ」
たっぷりの睡眠と近くで見つけた果物の新鮮な朝ご飯を摂取して、ご機嫌にレンガの道を進んでいた詩衣に太陽が言った。
「カリダって何?」
詩衣はその聞き慣れない名前に首をかしげた。
「わん! わん!」
トトまでも「聞いたことないよ?」と訊ねるように吠える。
それに応え、太陽がおぞましいことを言うようにびくびくと説明してくれた。
「そ、それはね。ど、胴体がクマみたいで頭がトラみたいなか、怪獣なんだ。そ、それで爪はとっても長くてす、す、すんごく尖ってて……と、とにかくめちゃくちゃ怖い奴なんだ。ぼ、僕なんかひとたまりもないよ」
「またまたぁ~。あんたは何にでもすぐ怖がるんだから。そのカリダってのも実は小さいリスみたいなのとかいうオチじゃないの?」
太陽の必死な説明も詩衣は信じない。
「ほ、本当だよぉ~」
太陽がそう少し涙ぐんだその時、草陰からガササと何かが動く音がした。
「わっ! カリダ!?」
太陽が詩衣に勢いよく飛びつく。
「きゃあ!」
もちろん詩衣の体では、太陽の巨体を支えられるわけがない。
そのまま勢いよく地面に倒されてしまう。
「いたた~っ! もう! 違うわよ! 見てみなさい! ただの鳥よ! あんたはほんとぉ~に臆病なんだから! なんでそんなにビビりなの? 一応あんた、ライオンでしょ! もっと自分に自信を持ちなさいよ!」
「だ、だってドロシー! こ、怖いものはど、どーやっても怖いんだよ! し、しょうがないんだよぉ~」
太陽が泣きそうになりながら言う。
そんな太陽に詩衣は冷たい。
「だ・か・ら! 私は堂炉詩衣だって! もう! あんたも麦もルルも何なのよ! この国の住人はみんなそうなのかしら! 人の名前もちゃんと言えないなんて! て・か! そろそろ離れなさいよ! いつまでビクついてるの! このへたれライオン!」
「ひ、ひどい……」
そんな風に詩衣が太陽を突き放し、前を見ずに前進しようとすると急に誰かに首根っこを掴まれた。
「きゃあ! いきなり何するのよ! 白銀!」
その犯人は白銀だった。
詩衣がいきなりのことにじたばたと暴れると、麦までも一緒に肩を掴んでくる。
「何するのよ! 麦まで!」
詩衣が文句を言っても二人は離さない。
むしろ麦には珍しい緊迫した声で詩衣を諌める。
「ドロシーさん! 暴れないで下さい! 落ち着いて、ゆっくり足下を見て! 前方が崖になっているんですよ!」
「……えっ? 崖? ……きゃあ! 落ちる! 落ちちゃう!」
詩衣が前を見ると、確かに黄色いレンガの道は一旦途絶えていて、また道が再開するまで十メートル以上の距離が空いていた。
下をのぞくとそこだけ刃物でスッパリ切ったような絶壁になっており、底は深過ぎて見ることができない。
「ド、ドロシー落ちひゅいて! ゆ、ゆっくり後ろに下がれば大丈夫ひゃから!」
崖に気づいて暴れる詩衣を今度は太陽までが口で服の裾を噛んで支えにかかる。
太陽に口に物を入れた、くぐもった声で注意されて、やっと詩衣も我に返った。
三人に支えてもらったままゆっくりと後ろに下がる。
「はぁ! はぁ! 怖かったぁ~! 死ぬかと思った! みんなありがとうね!」
詩衣が恐怖のあまり息を切らせながら麦達にお礼を言うと、それを白銀はあいかわらずの余計な一言で返す。
「ふん。本当にお前はバカ女だな。俺が止めてやらなかったら、そのまま落ちていただろ。バカの上に注意散漫とは救いようがないな」
「……くっ!」
大変むかつくが、正論なので今回ばかりは詩衣も返す言葉がない。
悔しさで歯軋りをしている詩衣に、麦が側にあった石を崖に投げ落としながら、取り成すように言う。
「まぁまぁ。良かったじゃないですか! 何はともあれドロシーさんにケガはなかったのですから! それよりこの崖をどうすればいいのかを考えないと」
「そ、そうだね。こ、この高さじゃ、一回降りてからまた登るとかもできない…………ひ、ひゃあ! み、み、み、みたいだしね。ど、どうしようか……?」
麦が落とした石が底に辿り着く音が、いつまでたっても聞こえないことに気づいた太陽が、寒さを堪えるように体をプルプルと震わせながら言う。
その太陽の問いに答えたのは意外にも白銀だった。
「なら、お前が跳べばいいじゃないか? お前なら俺らを背中に乗せて向こう岸までジャンプすることが余裕でできるだろう?」
「そうか! さすが白銀! 伊達に偉そうじゃないわね! 行ける? 太陽?」
詩衣も珍しく白銀に賛同したがしかし、言われた太陽は激しく首を横に振った。
「む、む、む、無理だよ! こ、こんな高い所! だ、だって底が見えないんだよ? む、無理! ぜ、絶対に無理! ぼ、僕には無理だよ!」
「怖いのはわかるわ! でも、そこをお願いよ! だって、あなたが跳んでくれなきゃ私達、先へ進めないんだもの!」
しかし、太陽は頑として首を縦に振ろうとはしない。
「む、無理! な、なんて言われようとも絶対に無理だよぉ~! だ、だって怖いもん!」
「もう! このへたれライオン! 最悪にかっこわるいわよ!」
「ひ、ひどい……!」
そんな口論をしている詩衣達に麦が徐に声をかけた。
「……じゃあ、こんなのはどうです? ブリキさん……いや黄金さん? にそこの大きな木を切ってもらって橋にするというのは? たぶんこのメンバーが全員乗っても大丈夫なくらいの強度の橋ができると思うのですが」
「……誰が黄金だ。俺は白銀だ。……しかし、案としてはいいだろうな」
呼び名を間違えられたことに気分を害したようだったが、白銀もその名案に珍しく素直に同意した。
「すごい! 麦! やるじゃない! あなたの頭に藁しか詰まってないなんて嘘みたいだわ!」
白銀が木を切る間に詩衣がそう麦を褒める。
「いやいや。そんなに褒めないで下さい。たまたまなのですから。ドロシーさん」
「私の名前を間違えるのはいつまでたっても直らないのね……」
「ひ、ひくっ! ひ、ひぐぐっ!」
二人がそんな漫才のような会話を繰り広げる中、太陽はいつまでも泣き止まず、水っぽい音をたてて鼻をすすっていた。
「いつまで泣いてるのよ! 跳ばなくてよくなったんだから、良かったじゃない!」
「だ、だって……。だ、だって……!」
詩衣がそう言っても、太陽は何が悲しいのか泣きながらそう繰り返すばかりだ。
そんな中、「木が切れたぞ!」と白銀が言い、ドドーン! 大木の倒れる轟音が響くのと――「グゥウゥウーーッ!」と不気味な獣の鳴き声が轟いたのはほぼ同時だった……。
太陽が悲鳴に近い叫び声を上げる。
「う、うわぁ! カ、カ、カリダだ!」
「……な、何……? あれ……? 本当に大きい。し、しかも二頭も……。どうしよう……。私達じゃ敵わないわ……」
太陽の声に導かれて、急いで吠え声がする方向を見た詩衣も絶望的な声を上げる。
――それほどカリダは大きく、恐ろしい姿をしていた。
太陽が言っていた通り、その胴体はまるでクマのようにがっしりしているが俊敏そうで、頭部はトラのように眼光が鋭く牙が長い。
何より恐ろしいのはその爪だ。
ただでさえ鋭い牙よりも更に鋭利に尖っていて、爪と言うよりは刃と言った方が正しいような形状をしている。
きっとこの爪にかかれば固い鉄板なども簡単に切り裂けるだろう。
まして詩衣などひとたまりもない。
紙切れのように容易く細切れにされる自分を想像し、詩衣は逃げることを忘れてその場に立ち竦んだ。
そんな呆けている詩衣に白銀が怒鳴る。
「バカ女! 止まっている暇はないぞ! 急いでこの木を渡れ!」
「そ、そうよ! 急いで逃げなきゃ! トト! 麦! 太陽! 行くわよ!」
その声で我に返った詩衣も大きな声でみんなを誘導する。しかし……
「うわぁ! 追いかけてきますよ!」
カリダはその木の橋の上にまで登ってきたのだ。
その巨大な体の重さで木がたわむ。
「きゃああ! ど、どうしよう! これじゃあ橋を渡れても、向こう岸で食べられちゃうわ……! かと言ってこんな狭い場所じゃ、何も反撃できないし……」
恐ろしいカリダが迫る中、橋の上で行くことも、下がることもできず立ち往生していると、グイっと殿に飛び出してきたのは太陽だった。
太陽は震える声で言う。
「み、みんな先へ行って……! ぼ、ぼ、僕がみんなが渡りきるまで……み、みんなが遠くに逃げ切るまでぜ、絶対に食い止めてみせるから……! ぼ、僕だってライオンなんだ! た、た、倒せなくてもカリダの一頭や二頭、く、食い止めるぐらいできるさ!」
「な、何言ってるの! あなたそんなに震えてるじゃない! 弱虫のくせに強がらないで一緒に逃げましょう? 一生懸命走ればどうにかなるかもしれない! だから……」
しかし、太陽はうなずかない。
さっきよりも震えが少ない、確かな声で言う。
「……そ、そんなの無理だってわかってるでしょ? だ、大丈夫。ぼ、僕は強いライオンなんだ。こ、こ、この震えだってむ、武者震いさ。さ、さぁ、い、行って!」
「太陽!」
「待つんだ!」
カリダの方に向かおうとする太陽に急いでしがみつこうとした詩衣を白銀が止める。
「はなして! 太陽が! 太陽が! あの子は臆病で、キツネにさえ敵わないのよ! それがあんな恐ろしい化け物に勝てるはずがないわ! つれ戻さないと!」
手を払い除けようともがく詩衣を、白銀はがっしりと掴んだまま怒鳴る。
「その臆病な奴が俺らのためにカリダを足止めするって言っているんだ! それがどれだけ勇気がいる行為なのかわかっているのか! ここに留まっていたら自分の命だけでなく、その好意さえも無駄にすることになるんだぞ! 奴を助けるにしろ、何にしろ、早くこの狭い橋を渡りきらないことには何もできない! 奴を……太陽を助けたいならギャアギャア喚くより先に、まず体を動かせ!」
「……白銀」
「そうですよ。ドロシーさん。まずはここを渡りきりましょう? 大丈夫です。私に考えがありますから。木星さん……あの勇気に満ち溢れている人をきっと助けてみせます」
「……麦。ありがとう。でも、木星じゃなくて太陽……」
「そんなことを言っている暇はない! 急げ!」
詩衣は一度後ろを振り返ると、向こう岸に向かって全速力で駆けた。