ゆーれいチャンネル
そもそもはテレビやラジオを想像してみてください、その男はそ
う言った。
一杯飲み屋で偶然隣の席に座った男。年の頃なら六十位か。最近
では珍しいグレーの中折れ帽をかぶり、霜降りグレーの三つ揃いを
着ている。一見してどこぞの学校の校長先生、といった雰囲気で、
このような場末の一杯飲み屋には似合わない男だった。
「え? ラジオやテレビですか?」
俺が訝しげにそう聞き返すと、男は齢の割には綺麗な歯を、わざ
と見せるかの様にニヤッと笑った。口元の白い髭もそれに合わせた
かの様に上下する。
「はい。テレビやラジオもチャンネルを合わせないと何も映りませ
んでしょ? それと同じことなんですよ」
目の前に置かれた芋焼酎のお湯割を手に取り、一度目の高さまで
上げてから、その男はグラスに口を付けた。
年も改まり、七草粥も過ぎて、町にはいつも通りの日常が戻って
きていた。
冬至を過ぎてから三週間ほど経つのだが、夕方五時になるとあた
りは暗くなり、5時半にはもう町は夜の顔を見せ始める。店の、買
ったばかりだという電波式掛け時計が五時四十五分を示していた。
「チャンネルを合わせなければ映らない…なるほど」
俺はつまみのピーナツを口に放り込むと、それをビールで流し込
みながら頷いた。
「しかしね、お客さん、そんなもの、本当にあるんですかい? も
しあったならぜひとも欲しいものですよ」
焼き鳥をひっくり返しながら聞いていた店の親父がそう言った。
その男はさも当然とでも言いたげにグラスの芋焼酎を飲み干すと、
白い髭を手で拭いながら
「ええ、ありますとも」
そう断言したのである。
「じゃ、お客さん、疑うわけじゃありやせんが、それを見せていた
だけませんか?」
言葉とは裏腹に、疑惑の目を向けながら店の親父がそう言うと
「いいですとも。ほら、これをどうぞ」
男はそれが極当たり前であるかの如く、かぶっていた中折れ帽を
手にとって親父の前に差し出した。
「え? それですか?」
店の親父が受け取って、それを確認している処を見ていた俺は、
複雑な思いがしていた。それはそうだろう。それは極普通の中折れ
帽。グレーの、素材は見ただけでは判らなかったが、多分、ウール
フェルト製だろうか。リボンは黒色の帯が使用されていて、正面右
側に蝶がついている。大正から昭和中期まで、サラリーマン達がよ
くかぶっていた帽子の様だと言えば想像しやすいだろう。
それが、ゆーれいチャンネルを受信する受信機だと? やっぱり
からかわれたのだ。
事の起こりは店の親父の『ゆーれいって見たことあるかい?』と
いう一言だった。よくあるテレビの心霊特番を観たらしい親父が、
俺は見たことねーけど、お客さんは? の問に俺が躊躇していると、
いつの間にか俺の隣の椅子に座っていた男が語り出したのだ。
「幽霊と人間は住んでいる時間が違うのですよ。そもそもチャンネ
ルが違うのですから、普通の人間には見る事は出来ません」
「え? でも、テレビじゃ、霊能力者とやらが見えるって言ってま
したぜ?」
そんな親父の言葉にその男は
「ああ、あの連中は生まれながらに体の中に受信機が組み込まれて
いるのです。だから普通の人間に見えない幽霊が見える。そう、一
遍にふたつのチャンネルを見ているのと同じ事ですよ。生きてる人
間のチャンネルと幽霊達のチャンネル。通常はそれが別々にあると
考えれば判り易いですかな? そもそもは…」
そう言ってから芋焼酎のお湯割を注文したのだった。
「お客さん、この帽子、変わったところは何一つありやせんが。今
の話が本当なら一体どうやって使うんです?」
帽子を事細かに調べていた親父が降参するかの様にそう訊ねたの
は、俺がからかわれたに違いないと思い始めていた時だったから、
俺は親父に向かって言ってやった。
「親父さん、そのお方のジョークですよ。決まってるでしょ」
「え? そうなんですかい? ちょっとお客さんもお人が悪りいや」
男はそんな親父の言葉に首を横に振ると、また白い髭を上下に動
かし
「いやいや、決して冗談ではありませんよ。ま、何はともあれ、そ
の帽子をかぶってみてくださいな」
そう言って微笑んだ。その微笑みはまるで乙女のそれのようだと、
俺は感じた。
店の親父はその男の言う通りに帽子をかぶった。サイズはフリー
なようで、親父にもぴったりなようだった。
「え? 別にどうってことありやせんがね。極普通の当たり前の景
色しか映りませんが」
親父は辺りをキョロキョロと見回していたが、さも残念だとでも
言いたげな目でその男を見た。
そんな店の親父に男は、ああ、と言葉を続けた。
「これは失礼を。説明が足りなかったみたいですな。逆ですよ。逆
にかぶってみてくださいな。その帽子は正面と後ろ側でチャンネル
を切り替えるのです」
店の親父はその言葉の通りに帽子を逆にしてかぶってみる。と、
突然大きな声を上げた。
「うわぁ! なんなんだ? 嘘だろ、おい!」
その余りの驚きように、俺も尋常じゃない何かを感じたので親父
の頭から帽子を奪い取ると、それをかぶってみた。向きを慎重に確
認してから。
と、今まで見ていた風景とは全く違ったものがそこには存在して
いた。店はグチャグチャに壊れ、椅子もカウンターもその姿をとど
めていない。店の周りには立ち入り禁止の、よくドラマで見るよう
な黄色と黒のテープが張り巡らされている。
これは…まるで大型のダンプでも突っ込んできたような…
「お分かりですかな? いまあなた方のチャンネルは、ゆーれいチ
ャンネルに合わされているのがデフォなのですよ。ですから、逆に
かぶれば現実世界が見えると。そういうわけです。ほら、そこに落
ちている時計を御覧なさい」
瓦礫の中に埋もれている、電波式時計は五時四十五分で時間が止
まっていた。
俺はあわてて帽子を逆にしてみた。そこにはさっきまでと同じ、
店の様子が映し出されている。時計は…やっぱり五時四十五分を示
していた。
「時間が進まない?」
「だから言ったでしょ? ゆーれいと人間は住んでいる時間が違う
と。あなた方ゆーれいとはね」
男はそう言うともう一度白い髭を上下に動かした。
「そう言えば…店に入ってから暫くして何かとんでもない事が起こ
ったような…」
俺は微かな感覚を思い出そうと、目を閉じて考えていた。
「はい。店に大型のダンプカーが突っ込んだんですよ。時間は五時
四十五分でした。人間の世界ではもう一週間前になりますが。その
時、お客さんは貴方一人だけだったのは、不幸中の幸いでした」
俺は今の自分が何であるのかを、その男によって知らされたのだ。
「貴方はもしかしたら…」
俺の想像は多分当たっているに違いない。
「じゃ、そろそろ行きましょうか。ここにいてもいい事はありませ
んからね。生まれ変わった方が、先に希望が持てるってものですよ」
店の親父も涙を流しながらもうなずいている。
「地縛霊にゃ、いい事は無いってあの特番でも言っていたっけな
ぁ…」
三人は揃って店を出た。チャンネルは当然ゆーれいチャンネルに
合わされているのだ。店の外では沢山のゆーれい達が自分が死んだ
事にも気づかずに、町を闊歩している。自分で気づくまで、永遠に
同じ時を繰り返すのだろう。
「生まれ変わるまでは、お盆の時にこの受信機を持って現世に戻る
事も出来ますから。そうお気を落とさずにね」
死神の言葉に俺たちは苦笑いするしかなかった。お盆の時にこの
世に戻って残された家族の姿を確認できるのか。この帽子をかぶっ
て…ゆーれいチャンネルを現世の生きてる人間のチャンネルに変え
て。
中折れ帽には今の姿は似合わないかもな。ジーパンとダウンジャ
ケット姿の俺はそんなつまらない事を考えるしかなかった。
ゆーれいチャンネルは幽霊チャンネルと同じものです…ちなみにこの老紳士風の死神さんはザンパクトウなどは持ってはいませんw