いとをかし
教室の休み時間での出来事だった。千穂の右隣の席から、恐竜の悲鳴のような声が聞こえた。
「……」
普段から、右隣の席の住人が、如何な奇行蛮行に及ぼうが気にしまいと心掛けている。日常だからだ。しかしその叫びは教室中の視線を集めた。
見まい見まいとして結局見てしまう。怪談の典型のような状況だなと思いながら、千穂は結局、真香の方に視線をやった。
彼女は両手でA4サイズ程の用紙を手にして、虚空を見ている。それが先程返されたテストの答案だということはすぐに分かった。先生からそれを受け取った時、彼女は、そこに記された結末を断じて見ようとせず席まで引き返していた。向き合う勇気がなかったのだろう。時間を起き、心を落ち着かせ、休み時間になって、改めて、現実と向き合う意を決したのだと思われる。
見まい見まいとして結局見てしまう。悲しいかな、人とはそういう生き物であると知る。
千穂は顔を覗き込んで真香の答案の点数を眺めた。
「……あら、惜しかったじゃない。あと一問で追試回避だったのに」
真香はぎこちない動きでこちらを見た。すぐに瞳一杯に涙が溜まり、
「千穂……」
不意に抱きついてきた。
「ふええ!くやしいよおお!」
「よしなさい」
顎をつかんで引き剥がす。
「悔し涙というものは努力はした人間が流すものよ」
「らって、あひょいちもんらったろりぃぃ!」
一緒に頬を圧迫しているから、ろれつが回らず何と発しているかわからない。
真香は千穂の手の呪縛から逃れると、頬をさすりながら再び答案に視線を落とす。
「……だってさ、この回答絶対正解だと思ってたんだよ」
「どれ?」
次の言葉を現代語に訳せ。
“いとをかし”
「……」
真香の回答。
“たいへんなおかし”
千穂は深い溜め息をついた。
「……まあ、あんたにしては頑張ったんじゃない?」
「何よ!その言い方!」
「“いと”は合ってるわよ。でも“をかし”っていうのは滑稽、とかそういう意味なの。だからここでの正解は“大変滑稽である様子”ね」
本当は“をかし”には滑稽の他に趣のある、という意味もある。むしろに清少納言の“春はあけぼの”に知られる“いとをかし”では後者で訳す方が正解だ。しかし千穂は敢えて前者を選んだ。次のドヤ顔をする為に。
「今のあんたの事ねッ!!」
「ムッキーッ!!」
いきり立つ真香を嘲笑って、千穂は自分の席に戻ろうとした。がその時、
「おいっす!お二人さん!」
昭和のヤンキーのような髪型をした同級生、直也と、家は結構なお金持ちの絵理子が現れた。
「古文のテストどうだったよ?」
「私はまあまあだったわね」
「真香は?」
「聞かないで!!」
顔をおおいうつ伏せる真香。
「真香ちゃんも駄目だったですか……」
と、溜め息混じりに絵理子が呻く。千穂は、おや、と思った。
「絵理子、あんたも赤点?」
「……はい」
「あんた数学と美術以外はてんで駄目ね」
「……ううっ」
「案ずるな!俺も駄目だったぜ!」
と、意味不明に親指を立てて直也が叫んだ。千穂は半眼で彼を睨んだ。
「あんたは、うん、知ってる」
「ひでえ!」
「くやしかったらちゃんと勉強する事ね。あんた達の為に言ってるのよ。社会に出てから困るのは自分なんだから」
「でもさ、古文なんて出来ても社会でなんの役に立たないよね」
「成績が役に立つのよ。深く考えず与えられた課題に向き合いなさい」
「古文なんて勉強するなら今のネットスラングを覚えた方がよっぽどタメになるよ!」
「聞けよ」
「そういえばよ、俺この間、二匹の仔犬が戯れる動画観てたんだけどよ」
イカれた髪型してなんて可愛いものを見るんだ。
「コメントで“きゃわたん!”って流れてたんだ。大体雰囲気で意味は分かるんだけどよ、あれって何なんだ」
それが流行った(?)のもちょっと前だろう。千穂が黙っていると、また三馬鹿の語らいが始まった。
「可愛いって意味だよね」
と、真香。
「きゃわたんが既にきゃわたんですよ」
絵理子が言うとそれもまたきゃわたんに思う。
「“きゃわわ”とかも言うよね」
「ああいうのって、一瞬意味考えるぜ。意味考えても分からねえのもままあるしよ」
「某ホモネタとか、分からないの多いんだよね。元ネタの動画探しても消されてるみたいだし」
「絵理子データ持ってるですよ?」
「……ああ」
「真香ちゃん観たかったら貸すですよ?」
「いやいい……借りてまで観たいものじゃないし」
「えー!見て下さい!一緒に淫夢トークするですよ!」
絵理子は食い下がったが、真香は応じなかった。今回ばかりは真香の気持ちも分かる。人からそれを借りるというのは、何となく、越えてはいけない一線を越えてしまう事に思われる。千穂は終始会話に参加しなかったが、三人の語らいは続いた。
「ところで、さっき言ってた“いとをかし”を今風にネットスラングにするとしたら、なんて言うと思う?」
「うーん……テラワロスとかじゃねえか?」
「クソワロタ、とか?」
「ワロは、赴きがあるという意味ではちょっと違う気がするですよ」
「ネットスラングじゃないけど、マジヤバイ、が一番近そうだよね」
「ああ。ヤバイの汎用性は異常だからな」
「まいて、雁などのつらねたるが、マジ小さく見ゆるは、マジヤバイ……ですね!」
「有り難みが一気に失せたな」
「某翻訳サイトで再翻訳してみようか」
「真香ちゃん天才です!」
絵理子の端末を使って早速ネットダイブする。
「何語がいい?」
「安定の韓国?」
“春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる”
韓国で再翻訳してみた。
“春は、明け方. 夜雨や右白くなっていく、産気は少しあかりのに、ポラセクタジダルグルムが細く長く伸びてなった”
「新出単語きたですよッ!」
「ポラセクタジルだぅ……ッ!」
「噛んだ!」
「真香ちゃん噛んだです!」
真香は顔を好調させて首を横に振った。直也がその肩に手を置く。
「気にするな。仕方ねえよ。きっと人類にとって初めての単語だから」
「……ありがとう、あんた優しいのね」
直也は時折無駄にイケメンになる。無駄に。
「直也くんの言う通り、流石の某サイト先生もこれがなんであるかは教えてくれないですよ」
「紫すら何処にいったのかわからねえしな、これ」
「言葉は時代の流れと共にその姿を変えていくのね……」
だから、いい風に締めようとしているようだが、締まらない。
三人の談笑を聞きながら、千穂は溜め息を漏らした。
こいつら絶対追試の事忘れているだろう。
楽しんでいるようだが、こちらから見ればそれこそが、大変滑稽な様子、であった。