単位をめぐる冒険
三月。
卒業を間近に控えた底辺大学生たちには、避けては通れない一つの儀式がある。
かの十二年生御大に、「これなくしては卒業できぬ」とまで言わしめたこの儀式。大学じゅうを影に日向に主に影に、やたらめったら這いずりまわる真面目系クズから単なるクズに至るまで、全クズ諸賢にその名を知らぬものはない。それともあるいは、真に運のない留年間際のみなさまも、どこかで耳にしたことくらいはあるだろう。
そう――教授への単位嘆願めぐりである。
これこそ春の風物詩。何事にも無気力な、心身ともに地の底を這う大学生たちのその雄姿。三月の綻びはじめた桜と相まって、何とも言えない儚さを感じられることだろう。
ちなみにこの単位嘆願めぐり、大学によって呼び名はそれぞれ違うだろうが、我が大学では通称スタンプラリーと呼ぶ。
期末試験の終わりから、成績が確定するまでの短い間、両手で足りない単位の不足を埋めるため、いかに効率的に頭を下げてまわるべきか。落ちた講義をリストにまとめ、あちこちを巡っては教授の温情をもらい、リストにチェックをつけていく。
まるで各所のスタンプを集めるようだと言ったのは、いったい何年前の留年生だったであろうか。楽しいスタンプラリーの記憶を苦痛と自責の記憶に塗り替えたその人物は、どれだけのひねくれものだったのであろうか。
いや、多少のひねくれでもなければ、留年などそうそうするまい。
そして留年した挙句、さらには卒業に余裕のない三月を迎えることもあるまい。
かくいう私もまた、そんな留年生の末席に名を連ねる身である。
大学五年生。留年生の中ではまだまだひよっこの私。今年はじめて、この儀式という名の闘争に参加することになる。
単位を取得するためのこの儀式は、儀式とは名ばかりの戦いであることは、私もすでに聞き及んでいた。
一見すると、教授を狙った単位狩りのようにも思えるだろう。逃げ惑う教授。隠し持つ単位。平身低頭それを狙う私たちは、いつしか強者のようにさえ錯覚する。
しかし否。断じて否。あまりに浅はかであると言わざるを得ない。
単位を狩ろうとする私たちもまた、狩られるものであるのだ。
春の風が吹く大学構内。春の日差しが柔らかく、冬を遠く感じさせる。影にトイレに生きる正統派底辺の私には、今日の陽気は少しばかり暖かすぎた。
今年はついに研究室に配属され、卒業研究だけはなんとか終わらせた私であるが、代償として他の講義をほとんど落とした。
すでに同級生は卒業あるいは院進学。春に雪が溶けるようにごく当たり前に疎遠になり、過去問も得られず出題傾向も読めず、疑問を抱いても教えてくれる友もなし。さりとて下級生には聞くことができぬ誇り高くも孤高の大学生に、大学の講義は難しすぎたのだ。
スタンプラリーのリストは長い。気合を込めて顔を上げると、すでにリストを持って走り回る、歴戦の雄たちの姿が目に映った。
行かねばならぬ。私も負けてはいられない。
比較的温厚な教授にまずは狙いを定め、私は弁解と嘆願を胸に教授の居室へと足を向けた。
そこはすでに戦場であった。
数多のむくろが地に伏せ、悲鳴と嗚咽、留年生の血反吐が飛ぶ悪夢の空間。教授の居室はまだはるか遠く、私にはその扉を視認することすらできない。
むくろの続く学部棟の廊下を歩きながら私は困惑していた。なにが、いったいなにが起きているというのか。そこかしこに転がる、無残に散っていった留年生たちに声をかけてみるが、彼らは死んだ大学生のような目をしたまま、なにも答えない。かなたの教授室に目を向ければ、さらに数を増し、死体の道は続く。
恐れながらも歩を進める私は、ついに教授の部屋の扉を見つけたとき、この惨状の理由を知った。
開け放たれた教授室。明るい蛍光灯の光が漏れ、コーヒーの香りが鼻をくすぐる。数人の談笑する声。一つは老成した男性の――教授のもの。残りは若々しくも自信に満ちた――これは、すでに卒業が確定し、院進学を決めた優秀な大学生の声だ。これまでの学習や今後の研究についてなどを、冗談も交えながら話し合っている。
部屋からあふれ出るアカデミックな空気に、ほうほうの体で辿り着いた留年生たちは近づくことさえままならない。部屋の周囲を取り囲みつつ、なんとか機会をうかがっている状態だ。
私も、私も行かねば。
さらに教授室に近づこうと足を踏み出した私に、しかし「待て」と静止の声が入る。誰の声かとあたりを見回せば、地に倒れた留年生の一人が、虚ろな目で私を見上げていた。
その容貌、まさしく歴戦の雄。一留や二留では見せることのできない偏屈さが全身から滲みだしていた。
だが、いったいどういうことか。
彼はその軟弱極まる針金のような体を廊下に横たえ、息も絶え絶えなのである。目当ての単位も取れていないらしいことは、彼の表情からわかった。
「行かない方がいい……俺みたいになるぞ……」
「……なにがあったのですか?」
私はおそるおそる尋ねてみた。たしかに勉学薫る教授室は、勉学から逃れに逃れた末に至った留年生たちにはあまりにも居心地が悪い場所であるだろう。並みの留年生であれば、彼らの瘴気に充てられただけで、悲鳴を上げて憤死しかねない。
しかし、彼――いや、ここにいる彼らはみな、等しく歴戦の雄。友人たちの卒業や就職という現実から逃げることなく、五年、六年の歳月に負けることもなく、大学に居座った連中だ。
彼は苦しげなうめき声を一つ上げた後、顎で教授室の内部を示した。
「見ればわかる」
苦悶の声に導かれ、私も彼の示す先を追う。
開け放たれた教授室。明るい学生たちの談笑が、不意に止む。椅子に腰かける教授の姿と、その前に立つ、一人の勇敢な留年生が見えた。
「何か用ですか?」
足を組みながら、穏やかな声で教授は言った。留年生は慌てて頭を下げ、学年と名前を言う。それから要件を述べようと口を開いたとき――気づいてしまった。
――――談笑を止めた学生たちが、一斉に見ていることに。
彼らはどこか奇妙そうに留年生に目を向けている。何しに来たのだろう、とその目が言っている。
あの人ってもしかして、留年していた人? 研究室も違うのに、何しに来たんだろう? あれ、もしかして単位落としたのかな? えっじゃああれって噂の単位嘆願? 試験落ちたくせに単位寄こせって? えーマジ留年生? やだー。キモーイ。キャハハハ…………
もちろん、学生たちは実際にこんなことを言っているわけではない。ただ、珍客のために口をつぐんでいるだけだ。部屋は相変わらず和やかな雰囲気で、学生たちもすぐに興味を失い、留年生から目を逸らす。
しかし留年生は、確かに彼らの視線から、確かにその意味を受け取ってしまった。投げられてもいないものを、留年生のたくまざる妄想が勝手に受け取ってしまったのだ。
瞬間、室内にいた留年生が吹き飛んだ。衝撃波が扉から外にまで伝わり、周囲を取り囲んでいた多くの留年生も巻き込まれる。圧倒的な空圧に、留年生たちはなすすべもなく薙ぎ倒された。
唖然とする間もなく、その衝撃波は私の元まで届いた。押し潰されそうな圧力に私は経っていることもできず、ただただ強く目を閉じた。
次に目を開いたとき、私は奇妙な光景を見た。
地獄絵図。まさにそう形容するにふさわしい、すべての留年生が地に伏せるであろうこの状況下で、ただ一人立ち続けている者がいた。
紛れ込んだ成績優秀者、あるいはリア充などではありえない。とりあえず結んだだけのいつの間にか伸びちゃった系長い髪、化粧っ気のない顔、長い間誰かと話すこともなく、おしゃれを忘れた適当スタイルのその女。彼女のにおい立つような偏屈さと、外見からうかがえる根性曲がりなその性質は、紛れもなく留年生特有のものであった。
彼女は一人胸を張り、なに恐れることなく教授の部屋へと突き進む。
再び発生する、優秀な学生の視線による衝撃波。しかし彼女は涼しい顔だ。彼女は怯むことなく教授に向かい、頭を下げる。
爆風の中、彼女は遠回しに今回の試験の点数を聞きだし、なんとか救済措置を引き出そうとする。徹底的な平身低頭。揉み手さえもしかねない彼女の姿は、まさに見本となる留年生であった。
彼女はいったい何者であろうか。
目的を果たし、部屋から出ていく彼女の後ろ姿を見て、私はここでようやくその疑問を抱いた。
孤独、偏屈、対人恐怖――病気でなくともコミュ障と言い張り、どこもかしこもところかまわず逃げの一手を先んじて、人との接触を逃れ続けるのが留年生の留年生たるゆえんだ。人が多ければ逃げ、教授の傍に誰かがいればそれだけで逃げ、リア充の気配を察知すれば、その姿を見る前に逃げる。それが留年生のはずだ。
恐れを知らず単位を請求する彼女は、紛れもない勇者であった。
彼女の立ち去った後、教授室の並ぶ廊下に談笑が戻ってくる。
すでに多くの留年生は息絶え、再び単位嘆願めぐりに参戦することはできないようだった。彼らが息を吹き返すのは来年。再びの留年生活を経て、何も学習しないままにこの時期を迎える時だ。
留年生は何度でもよみがえる――勉強をせずに単位を得るために。
散っていった留年生のために祈りをささげていると、私はふと、廊下の影に小さな人影があることに気づいた。
数多の死体におののきつつ、彼女の去っていった方角に目を向ける姿。それは一見すると、少女のようにも見えた。背が低く、肉付きがよく、まるで苦労の知らない顔。数多の留年生に比較して、人好きのする容貌を持ってはいるが、彼女もまた我々と同類の臭いがした。
彼女は私の存在にも気づいていない様子で、ふらふらと廊下の半ばに立ちつくした。まるで、もう見えないあの女の背中を見つめているかのようだった。
「あの子……どうして……。まだこんなことをしているなんて……」
どことなく悲壮な声でそう言い、彼女は女の消えた先を追って、小走りに駆けて行った。
私は一度、先の教授の元から戦略的撤退をすることにした。あの凄惨な戦いを見せられ、なおも挑むだけの勇気は私にはなかったのだ。ゆえに一度身を引いて英気を養い、明日、もしくは明後日に再度挑むことにした。
何せ目指す単位は一つではない。無理をすれば、あの場で散った留年生たちの二の舞である。戦場においては、冷静で的確な判断こそがなによりの武器になるのだ。
このような戦略的理由により、私は今、別の教授を攻めている。ターゲットはやや気難しい性質だが、頼み込みによる単位の再考を受け入れた実績のある人物だ。期待を持ってもいい相手だろう。
風の噂で、少し前に一人で大学付属の図書館へ向かったらしいと聞き、私はすぐさま後を追った。誰かと接触する前に、教授への単位嘆願を終えなくてはならない。
私と同じ考えの留年生は少なくない。普段は閑散とした図書館へ続く桜並木が、今は留年生で溢れかえっていた。
我先にと走る体育会系留年生。あたりの様子を窺いつつ、慎重に歩を進める頭脳派留年生。徒党を組むチーム留年生。徒党を組みたい孤高の留年生。
種々の留年生の姿に未熟な私は圧倒され、思わず並木道の手前で足を止めてしまった。
それが幸いだった。
突如悲鳴が聞こえたのは、不意に吹いた強い風の後だった。やけに生ぬるく、湿った風だったことを覚えている。風は桜を散らし、視界を一瞬の間覆い隠した。
その直後に起きた惨劇のことを、いったいどう言葉にすればいいだろうか。
前を行っていたはずの体育会系留年生が、声もなく倒れていた。頭脳派大学生が並木の影で震え、チーム留年生が統率を乱し、混乱窮まった悲鳴を上げる。かろうじて立っていられるのは、せいぜい留年生くらいなものだった。
風は吹き続けている。奇妙なほどに桜が舞い、ざわめきが聞こえる。
はじめは、木々のこすれる音かと思った。風と合わさり、妙な具合に音が聞こえてくるのだ。そう思っていた。
それがあまりにも楽観的で、現実にとらわれた考えであると、私はすぐに思い知った。事実はもっと恐ろしく、身の毛もよだつほどにおぞましいものだった。
私は聞いた。
並木道の外に立っていてさえ、聞こえてしまったのだ。
――――……卒業しなくても、いいじゃないか。
頭の中に、そんな声が直接響いてくる。
――……単位の何が、そんなに大事なんだ? 大学は八年までいられるんだぞ……。
思考をかき乱し、卒業へ向かう強い意思をくじくような声だった。その声は優しく、仲間に語りかけるように親しく、そして甘美なものだった。
――……どうして卒業に必死になるんだ……。卒業して、社会の歯車になんてなりたくはないだろう……? なあ、いいじゃないか、大学にもう一年残っても……。俺と一緒に留年しよう…………。
何より恐ろしいのは――――それが、私の知るかつての大学八年生、現在は大学から除籍されたサークルの先輩の声だったことだ。
あわてて桜並木から離れると、私はそこではじめて、目で見える異常に気がついた。
桜吹雪――いや、もはや桜の花弁であることさえも曖昧な、白い塊が、留年生たちの周囲にまとわりついているのだ。それらはもやのように彼らの体を覆い、優しく、猫を撫でるような声で囁き続けている――――もう一年いても、いいじゃないか、と。
あれは……あれもまた、留年生。単位救済の余地すらなく、卒業不可が確定した留年生たちの怨念だった。
彼らはあくまでも優しく、親しく声をかける。努力を惜しみ続ける留年生たちに、より怠惰な道を選ばせようとする。甘美な囁きかけをする。
それはすべて、仲間を増やすための行為であった。自らと同じ再留年、あるいは卒業できないまま除籍の道を辿らせようとしているのだと、渦中に居てはわかるまい。どうやらあの白いもやは、他の留年生たちには親しい友人のように見えてさえいるらしいのだ。その証拠に、留年生たちは白いもやに親しげに語りかけ、微笑みかけさえする。それが罠だと、気づきもせずに。
留年生が微笑みかければかけるほど、白いもやは濃さを増していく。それらは留年生たちを次第に覆い尽くし、その姿を隠していく。
そして、留年生を完全に覆いきったとき――。
もやはたちまちに掻き消え、留年生だけが残った。
すでに息絶え、単位嘆願に出向くことができなくなった――再留年の確定した留年生だけが。
並木道に立っているのは、いつの間にか数人のぼっちのみになっていた。彼らは幸運にも、声をかけてくる知人がなかったためだ。しかし、彼らもまたすっかり萎縮し、おのおのが道の端にしゃがみこみ、半泣きでぷるぷると震えているばかりだった。
私もまた、恐ろしくて並木道に足を踏み出すことができなかった。あの先輩の声が聞こえてくるような気がするのだ。一緒に留年しよう、と。すでに先輩は、大学を除籍になったはずなのに。
怯える私の傍を、ふと、一人の女が横切った。まっすぐに桜並木に向かって進んでいく女の背を見て、私はすぐに、彼女が先ほど教授室で見かけた、髪の長い留年生であることに気がついた。
行かない方がいい。いくら彼女がリア充を恐れぬ勇士であっても、この先はあまりにも険しく、恐ろしい道だ。
そう声をかけようとしたが、すでに早足の彼女は並木道に入ってしまっていた。また風が吹く。
――白いもやをまとったおぞましい風が、あの不気味な声を携えて。
白いもやは、見る間に彼女の全身を覆った。木々のこすれるようなささやきが、私の元にまで聞こえてくる。
――――……卒業より大切なことがあるだろう……?
――……学生の内でなければできないことがたくさんあるだろう……?
――……俺たちのこの才能を、会社なんかで潰したくはないだろう……?
――……もう少し残ろうぜ……一緒にいろんなことしようぜ……お前と一緒にもっと過ごしたいんだよ……大丈夫……留年するのはお前だけじゃないんだから……みんな待っているんだから……親なんて気にするなよ……大学で過ごすのは親じゃなくて、俺たちなんだぞ…………。
甘い誘惑の声だった。私の耳には除籍済みの先輩の声に聞こえたが、おそらく彼女には彼女の知人の声に聞こえていることだろう。耳を押さえ、うずくまりたくなる衝動にかられながら、私は並木道を往く彼女の姿を探した。
道から外れ、おぼろげに聞こえてくる声でさえこれほど辛いのだ。意志薄弱な留年生が、こんな声を聞いて立っていられるはずがない。さすがの彼女も立ってはいられまい。そう考えていた。
しかし、彼女は立っていた。白いもやに全身を覆われ、綿菓子のように肥大化してもなお、歩き続けていた。倒れる留年生にも、ともすれば白いもやさえも目に入れず、彼女が見据えるのはただひたすら、教授がいるであろう図書館のみだった。
なぜだ。なぜ歩き続けられるのだ。
頭の中にはまだ、あの声が響いているはずだ。事実、歩を進める彼女の表情は蒼白で、額から汗が滲み出している。
「私は……卒業するのよ……!」
だけど彼女は進む。
「そのために、勉強以外のすべてを頑張ってきたのよ……!」
どうして彼女は進む。
「一緒だなんてごめんだわ……! 私は一人でも必ず……!!」
留年生とは、本来意志薄弱なもの。勉学から逃げ、交友関係から逃げ、大学から逃げ、しかし退学することからも逃げ続けるのが、本来の生き方だ。なのになぜ。どうして彼女はあれほどまでも。
重い足取りながら、振り返らずに一心に図書館を目指す彼女の姿は、なぜか私には痛々しく思えた。まるで、まるでかなわぬ夢を追っているようにさえ思えたのだ。
「あの子……」
あまりに彼女の背中に見入っていたためだろう。不意に聞こえた声に、私は飛び上がるほど驚いた。
声の持ち主は、私よりもやや後ろに立っている、少女じみた留年生のものだった。先ほど廊下で見かけたのと同じ、やや小太りな彼女だ。
あの女を追っているのだろうか。彼女の目は、ただ並木道の先だけを見ている。
「止めないと……あの子を……! そうでないとあの子が…………!」
「あ、あの」
切羽詰まった彼女の口調に、私は思わず声をかけた。彼女はそこで初めて私の存在に気がついたらしい。目を見開き、驚きを露わにして私を見る。
「あの、あなたはさっきの女を知っているのですか? 彼女はいったい、何者なのです?」
私の問いに、彼女はしばし苦悶の表情を浮かべた。答えあぐねているらしい。静寂の戻ってきた並木道の手前で、私は根気強く彼女の答えを待った。
やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。
「あの子は……私の友人です。……友人でした。あの子は……単位に、卒業に囚われてしまったのです」
「卒業……に……?」
「単位さえあればいい。ただ卒業すればいい。そう考えてから、あの子は変わってしまいました。他の留年生を陥れても、自分は卒業する。卒業だけしか、もうあの子の目には見えていない。……でも、あの子は気がついていないんです。それがあの子自身を滅ぼすのだということに…………」
ああ、と私はうめいた。修羅。あの女は修羅となってしまったのだ。
大学生活の楽しい思い出をすべて苦痛に塗り替え、友人との付き合いもなにもかも切り捨てたのだ。教授に媚びるために楽しくもない飲み会に出席、居場所のない研究室に毎日通い、勉強の振りをしてユーチューブを見る日々。後輩に頼み、レポートを写させてもらうと言う辛酸を舐め、勉強をしているアピールとして質問はするが理解はせず、試験の際は解答用紙の余白に、心にもない教授への感謝と賛辞を書いて、なんとか点数を押し上げようとする。
ひたすらに心を殺して、殺して、殺して。彼女は卒業以外のなにもかもを、この大学でなくしてしまった。
「あの子を止めないと。あの子に、卒業以上に大切なことを、思い出してもらわないと……それが、友だちのすることだから」
彼女は私に一度微笑みかけ、それから強い決意を宿し、顔を前に向けた。
「私、行かないと」
あの子を止めないと。そう言った彼女もまた、私には修羅に見えた。
新たな教授をターゲットに、私もまた単位をめぐる冒険を再開した。
もはや道々に、息絶えた留年生の亡骸が転がっていることにも動じなくなってきていた。
留年生が卒業するためには、同じだけの留年生の犠牲が必要なのだ。そのことを、次第に悟るようになった。
単位とは、無限に湧き出す泉ではない。数限りがある単位の中で、誰かが手にし、誰かが失う。そういうものなのだ。
単位の取得、卒業。その旅路には、幾人もの留年生の、犠牲と悲しみがあふれている。留年生たちは旅の中で心を殺し、誇りを奪われ、悲しみの果てに修羅になる。ただ、単位だけを求める――。
彼らは勇士なんかではなかった。ただの哀れな単位の亡霊。それだけだ。
だが、それがわかったからといって何になる。
苦しみ、誇りを打ち砕かれ、疑問を抱いたとしても、それが私の足を止めることはできない。
私もまた、単位を求めてさまようほかにない、一人の修羅なのだから……。
彼女の姿を再び垣間見たのは、単位嘆願の中でも最も激戦区と言われる、とある教授の居室の前だった。
広々とした廊下には、血と怒声が飛び交う。廊下の脇にはいくつもの留年生の死体が折り重なり、再留年が確定されていたが、目にとめるものはほとんどいなかった。
留年生を殺したのは、同じ留年生だった。戦友とも呼ぶべき仲間同士で、容赦なく討ち合っているのだ。その根性の曲がり切った性根から言葉の暴力を放ち、年を経た熟練の嫌味で迎え撃つ。
そのような精神を殺し、心を打ち砕く言葉の応酬に、耐えられなくなったものから倒れていく。恨みの声とともに血反吐を吐くもの。絶叫を放ち爆発四散するもの。静かに息を引き取るもの。阿鼻叫喚の有様だ。意志薄弱の名の元に、打たれ弱くもプライドだけは高い留年生の面々に、精神への攻撃はあまりにも痛すぎる。
彼らが戦う理由を、私はすでに知っていた。
とある教授――暗黒教授と呼ばれ、恐れられるその人物。留年生よりもなお偏屈で、気難しい彼の講義には、毎年数多者落伍者が出ていた。あまりにも単位のばらまきが少なすぎる、と大学事務から苦情が行くほどだ。ゆえに教授はいたしかたなく、毎年単位の救済措置を講じていた。
それが、十名限定救済措置――再試験を申請し、受験したものの中から上位十名だけに単位認定をするというものだった。
十名――そう、単位の枠に限りがあるのだ。もしも再試験に向け、しっかりと勉強していれば、この上位十名に入ることは難しくないだろう。だが、我々はあくまでも留年生。勉学以外の方法で単位を求め続けてきた、無謀なる挑戦者たちなのだ。
勉強をせずとも、十名の枠に入る方法はある。
試験を受けるものが、十名以内であればいいのだ。ゆえに戦う。他の誰をも蹴落とし、己が単位を掴むために。
血しぶきが飛び、絶叫がこだまする。次第に留年生は数を減らしていく。血の臭いと留年生の無念、すすり泣きの聞こえる廊下は、もはや悲壮感だけを漂わせていた。
戦い続ける留年生が、泣きながら悪態をつく。倒れ、死にゆく留年生が、後悔ばかりを繰り返す。戦う彼らもまた、苦しいのだ。同じ留年生ではないか。なぜ、同士討ちをしなくてはならないのか。
しかし、悲しみに打ちひしがれたものから討たれていく。彼女――長い黒髪の、もはや表情すら失ったあの女によって。
女は顔色一つ変えず、淡々と留年生を殺す言葉を放つ。彼女の言葉は刃となり、留年生を切り刻む。親の苦労や学費の問題、将来のこと、時間の浪費、そして自業自得という言葉。留年生たちが目を背け続けていた禁句をも平然と繰り出す彼女は、感情さえも失っているように思えた。
一際高く積まれた死体の山の傍で、彼女は冷たく周囲を見渡した。その瞳は、もはや人のものではない。鬼だ。彼女は卒業のために、鬼に堕ちてしまったのだ。
身の内から湧き上がる恐怖に、私は立っていることさえ困難だった。今すぐ逃げ出したいと思った。
いや――逃げ出すべきだったのだ。
――――周囲の留年生を仕留め、さらなる犠牲者を探す彼女の視線に、私が捉えられる前に。
冷徹な彼女と目が合ったとき、私は情けなくも腰が抜けてしまった。
その場に崩れ落ち、ゆっくりと歩み来る彼女を眺めることしかできなかった。
留年生の亡骸を踏み、一歩、また一歩と彼女が近づいてくる。私の体はかたかたと震え、ともすれば悲鳴を上げてしまいそうだった。上手く息がはけず、瞬きさえも覚束ない。
人は、これほどまでに鬼になれるのか。
単位は、これほどまでに魔力を持つのか。
同じ留年生でありながら、慈悲もないのか。
目の前まで来た彼女を、私は放心したまま見上げた。心の中は恐怖と――わずかな憐憫に満ちていた。
――単位がそれほど欲しいのか。単位は彼女にとって、それほど……
「それほど単位が大切なの!?」
突然聞こえた叫び声に、女の視線が逸れた。
何事だ。振り返る間もなく、私の前に一つの影が飛び出してくる。女と私の間に割り込み、かばうように私を背にするその姿。あれは――そう、女の友人であると言った、小太りな留年生の姿だった。
「単位にどれほどの価値があると言うの? ねえ、こんな風に、いろんな人を傷つけてまで必要なものなの!?」
「あんたは……!」
女の目に、一瞬の光が宿る。目の前の留年生に驚き、人間じみた逡巡がその表情に浮かぶ。
が、すぐにそれはかき消えた。幻かとも思えるほどに、元の冷たい瞳に変わる。
「……単位より必要なものなんて、ない」
「そんなことない!」
「なら、単位以上に必要なものはなに!? あんたは、今年卒業ができるからそんなことが言えるのよ!」
突き放すようなその言葉に、小太りの留年生は息を詰まらせた。傷ついた様子でうつむく小太りの姿を見て、女のほうもまた、どことなく傷ついているように、私には見えた。
「友情も同情も、単位の助けにはなってくれなかったわ。それに、卒業したらもう、みんなろくに連絡もくれない。あんただってきっとそうよ。自分だけ先に単位を集めて、卒業していくんだわ。――だけど単位は裏切らない。集めた単位だけは、ずっと私のものよ!」
女の声は震えていた。うつむいた小太りの握りしめた手も震えていた。
小太りは卒業できるだけの単位を得てしまった。それが、二人の友情を分かつことになったのだ。胸が抉られるような思いだった。誰も、なにも悪くなんてないのに。
「私は卒業するの。もう、留年はごめんだわ。誰になんと言われようと。……単位より大切なものなんて、どこにもないのよ――――」
「ばかっ!!」
女の言葉を遮り、小太りの短い叫びと、小気味良い平手の音が響いた。
一瞬の沈黙。十人枠をめぐり、争いをしていた留年生たちですらも無言でこちらを見守っていた。手を上げた小太りと、頬を押さえる女。この場で動いているのは、ただその二人だけだった。
「わかっていない! あなた、なんにもわかってないよ!」
「なによ! 単位より大切なものがあるっていうの!? あんただって単位のために、私を置いていくんでしょう!?」
「置いていかないよ!」
目に涙をため、小太りは言った。女は頬を押さえたまま――瞳を潤ませたまま――えっと短く声を上げた。本当に驚いたらしい。
「私も残るよ。……単位より大切なものが、あるから」
小太りは一度深く息を吐き、それから女の顔をじっと見つめた。無意識にか、小太りは両手で女の手を優しく包み込んでいる。かつて存在した、二人の友情を表すかのように。
「単位より……大切な、もの?」
呆けたような女の声。そこにはもう、修羅の響きは含まれていない。ただの、平凡な留年生の声だった。
「そう」
小太りは目に涙を蓄えたまま微笑んだ。
「――……内定、だよ」
女は小太りの手を取りながら、ゆっくりと、その場に崩れ落ちた。愕然とした面持ちで、しばらく瞬き、それから――――静かに泣いた。小太りはそんな彼女の体を抱いてやった。
「一緒に、もう一年いよう。単位なんて来年取ればいいんだよ。大丈夫、また来年も、私が一緒に居るから」
抱き合う二人の姿。しばらく聞こえた女の泣き声。それから。
それから――誰かが手を叩いた。それに合わせるように、私も手を叩く。生き残った留年生たちも拍手をした。いつのまにか、大喝采になっていた。
周囲を見渡せば、誰も彼もが泣いていた。美しい友情に、単位よりもずっと大切なものに、内定を持たない、自分たちのために。
もう誰も、争いを続けようとはしなかった。
割れんばかりの喝采だけが響き渡る。
この悲しい、虚しい争いの終結を祝福するように。
○
こうして私は留年した。
卒業できました。