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婚約者に『お前の手作りなんか要らない』と祖母の形見のエプロンを捨てられた私、実はそのエプロンの刺繍には莫大な遺産の鍵が隠されていました〜今更『返して』と言われても、もう遅いです〜

作者: uta
掲載日:2026/06/09

「そんな古臭いエプロン、みっともないから捨てろ」


 裕也の言葉が、私の胸を鋭く抉った。


 リビングのソファに深く腰掛けた婚約者は、私の手元をまるで汚物でも見るような目で睨んでいる。その視線の先にあるのは、色褪せた木綿のエプロン。野花と小鳥が踊る、祖母の手刺繍。


「……これは、おばあちゃんの形見で」


「だから何?」


 裕也は溜息をついて立ち上がった。整った顔に浮かぶのは、隠そうともしない嫌悪感。


「花織、お前のためを思って言ってるんだ。来月には母さんとの顔合わせがあるんだぞ? そんな貧乏くさいもの持ってるところ見られたら、俺の顔に泥を塗ることになる」


 貧乏くさい。


 その言葉が、じわじわと心に染み込んでくる。


(……そう、なのかな)


 私は無意識にエプロンを胸に抱きしめていた。木綿の柔らかな手触り。微かに残る、お日様の匂い。祖母がいつも身につけていた、あの温もり。


『花織、このエプロンだけは、絶対に手放さないでね』


 病室のベッドで、骨と皮だけになった手で私の手を握りながら、祖母は確かにそう言った。あれが最期の言葉だった。


「聞いてるのか?」


 裕也の苛立った声で、私は現実に引き戻される。


「……ごめんなさい。でも、これだけは」


「これだけは?」


 裕也が一歩、私に近づいた。整髪料の香りが鼻をつく。付き合い始めた頃は素敵だと思っていたはずなのに、今は息苦しさしか感じない。いつからだろう、こんなふうになったのは。


「なあ花織。俺はお前を高城家の嫁にしてやろうとしてるんだ。感謝こそされても、我儘を言われる筋合いはないと思うんだけど」


 ——してやろうとしてる。


 その言い方に、小さな棘が刺さる。でも私は何も言えない。言えるはずがない。両親を事故で亡くし、祖母に育てられ、祖母も亡くなった今、私には何もない。学歴も、財産も、頼れる親戚も。


 裕也は一流企業勤務で、実家は都内に一戸建てを持つ家柄。そんな人が私を選んでくれた。それだけで十分すぎる幸運だと、そう思わなければいけないのに。


「……分かりました。顔合わせの時には、しまっておきます」


 精一杯の譲歩だった。でも裕也は満足しなかった。


「違う。捨てろって言ってるんだ」


「えっ……」


「日本語分からないのか? 捨てろ。処分しろ。なくせ。そう言ってんだよ」


 頭が真っ白になった。


 捨てる? このエプロンを? 祖母が毎日身につけていた、祖母の手が触れ、祖母の想いが込められた、世界でたった一つの——


「それは、できません」


 気づけば、私は首を横に振っていた。


 裕也の目が、すっと細くなる。


「……何だって?」


「できません。これだけは、絶対に捨てられません」


 声が震えている。膝も震えている。でも、これだけは譲れなかった。譲ってはいけないと、心の奥底で何かが叫んでいる。


 裕也は数秒間、信じられないものを見るように私を見つめていた。それから、ふっと鼻で笑った。


「へえ。お前にそんな度胸があったとはな」


 その笑みが、ひどく冷たい。


「いいよ、分かった。じゃあ母さんにそう言えばいい。『私は古臭いエプロンの方が大事なので、息子さんとの結婚は諦めます』ってな」


「そんな……」


「俺は別に構わないぜ? 他にいくらでも候補はいるんだ。お前みたいな地味で面白みのない女に、わざわざ執着する理由もない」


 ——地味で、面白みのない。


 分かってる。分かってるよ、そんなこと。私に取り柄なんてない。顔も普通、スタイルも普通、学歴も大したことない。唯一の特技は手芸と料理。でもそれすら裕也は『主婦の趣味』と笑う。


(どうして私は、いつもこうなんだろう)


 涙が滲んでくる。悔しいのか、悲しいのか、自分でも分からない。


 その時、ふと裕也の視線が動いた。私の背後——窓の外へ。


「……まあいい。今日のところは許してやる。ちょっと言い過ぎた」


 急に態度が軟化したことに、私は戸惑う。裕也はさっさとジャケットを羽織ると、玄関へ向かった。


「来週、母さんの店で食事だから。ちゃんとした格好してこいよ」


「……はい」


「あと、そのエプロンの件は保留な。母さんに相談してから決める」


 バタン、とドアが閉まる。


 静まり返った部屋で、私はしばらく立ち尽くしていた。


(保留……)


 裕也の母、芙美子さん。あの人に相談されたら、結果は目に見えている。『花織さん、あなたのためを思って言うのだけれど』——あの慇懃無礼な笑顔で、きっとこう言うのだ。『そんな古臭いもの、恥ずかしいでしょう? 処分なさい』と。


 力が抜けて、その場にしゃがみ込む。


 エプロンを広げると、祖母の刺繍が目に入った。色褪せてはいるけれど、野花と小鳥の図案は今も鮮やかに息づいている。黄色い花、青い鳥、緑の葉。祖母の細やかな針目が、一針一針、想いを込めて紡いだもの。


『これは私の一番大切な物語なの』


 祖母はよくそう言っていた。物語って何のことか、最後まで教えてくれなかったけれど。


「おばあちゃん……」


 ふと、エプロンの裏地に目が留まった。


 何か、ある。


 裏地の端、よく見なければ分からないような場所に、微かに文字のような刺繍が施されている。


「……これ、前からあったっけ」


 見覚えがない。いや、今までちゃんと見たことがなかったのか。


 何か意味があるのだろうか。単なる飾りなのか、それとも——


 スマホが震えて、思考が中断される。裕也からのメッセージ。


『来週の食事、あの土地の話もするから。お前んちの実家の近く、再開発で価値上がってんだろ? 相続の手続き、ちゃんと進めとけよ』


 土地の話。


 裕也は最近、やたらと祖母の家の周辺のことを気にしている。相続の手続きを手伝うと言ってくれたのは嬉しかったけれど、なんだか妙に詳しいのが気になっていた。


(気のせい、だよね……)


 疑念を振り払おうとして、でも振り払えない。


 窓の外では、夕暮れの空がオレンジ色に染まっていた。祖母と二人で見た、たくさんの夕焼け。縁側でお茶を飲みながら、刺繍を教わりながら、たわいない話をしながら。


(おばあちゃん、私、間違ってないよね?)


 エプロンを抱きしめる。返事のない問いかけが、静かな部屋に溶けていく。


 誰かが——きっと祖母が——『大丈夫よ』と言ってくれる気がした。


 でもそれは多分、私の願望が見せた幻。


 私には何もない。何の力もない。


 裕也に捨てろと言われたら、結局従うしかないのかもしれない。


 ……そう思っていた。


 この時の私は、まだ知らなかった。この色褪せたエプロンの中に、祖母が六十年もの間、隠し続けてきた秘密が眠っていることを。そしてその秘密が、私の人生を根底から覆すことになるなんて。




         *




「ねえ花織さん、聞いてる?」


 芙美子さんの声で、私ははっと我に返った。


 高級レストランの個室。白いテーブルクロスの上には、名前も分からない前菜が並んでいる。私の向かいには裕也が座り、その隣に芙美子さん。三人の食事会、という名の『嫁審査』。


「す、すみません……」


「困るわねえ、うわの空で。私、大事なお話をしていたのよ?」


 芙美子さんは溜息混じりに微笑んだ。微笑んでいるのに、目が笑っていない。初めて会った時から変わらない、あの目。


「あなたのためを思って言うのだけれど——」


 来た。


 心の中で身構える。この言葉の後に続くのは、決して私のためではない何かだ。


「——嫁入り前にね、身辺整理はきちんとしておくものよ。古いものを溜め込んでいると、新しい幸せが入ってこないって言うでしょう?」


「……はい」


「裕也から聞いたわ。お祖母様の形見のエプロンですって?」


 心臓が跳ねる。


 裕也を見ると、彼はワイングラスを傾けながら、興味なさそうに視線を逸らした。


「お祖母様を大切に思う気持ちは分かるわ。でもね、花織さん。高城家に嫁ぐということは、それなりの品格が求められるの」


「品格、ですか……」


「ええ。古臭い手作りのエプロンなんて——失礼だけど、みすぼらしいでしょう? うちの親戚に見られたら、『どういう教育を受けた方?』って思われてしまうわ」


 ——みすぼらしい。


 祖母が何十時間もかけて刺繍したものを、そう言うのか。


「処分なさい」


 芙美子さんは、まるで親切なアドバイスでもするかのように穏やかに言った。


「その方が、あなたのためよ」


(私のため……)


 本当に?


 私のためなら、どうしてこんなに苦しいんだろう。


「返事は?」


 裕也が横から口を挟む。


「母さんがわざわざ言ってくれてるんだ。感謝しろよ」


「……で、でも」


「でも?」


 裕也の目が、獲物を追い詰めるように細められる。


「まだ分からないのか? 俺と結婚したいなら、余計なものは捨てろって言ってるんだ。単純な話だろ」


 単純な話。


 そうなのかもしれない。古いエプロン一枚と、これからの人生を天秤にかければ、答えは明白だ。


 でも——


『花織、このエプロンだけは、絶対に手放さないでね』


 祖母の声が、耳の奥で響く。


 あの日の祖母の目。必死で何かを伝えようとしていた、あの目。


『これは私の一番大切な物語なの。いつかあなたが、この意味を分かる日が来るから』


 物語。意味。いつか分かる日。


 祖母は何を伝えようとしていたんだろう。結局、聞けないまま逝ってしまった。


「花織さん?」


 芙美子さんの声で、また現実に引き戻される。


「……お返事、いただけるかしら?」


 逃げ場がない。二対一。この圧に、私が勝てるはずがない。


「少しだけ……時間をいただけませんか」


 精一杯の抵抗だった。


「時間?」


 芙美子さんの眉が、ぴくりと動く。


「心の整理を、したいんです。おばあちゃんの形見ですから……」


「へえ」


 裕也が鼻で笑う。


「心の整理ね。要するに、今日のところは断りたいってことだろ?」


「そういうわけでは……」


「いいよ、分かった。母さん、今日はこのくらいにしておこう」


 裕也が芙美子さんに目配せする。何か通じ合うものがあったのか、芙美子さんは肩をすくめた。


「……そうね。花織さんも疲れてるみたいだし」


 その時、芙美子さんのスマホが震えた。画面を見た彼女の表情が、一瞬だけ変わる。


「ごめんなさい、ちょっと失礼するわね」


 席を立ち、個室を出ていく芙美子さん。


 残された裕也と二人きり。沈黙が、重い。


「……花織」


 裕也が、不意に真剣な顔で私を見た。


「一つ聞くけど、お前の祖母の家、もう売却の話は進んでるのか?」


「え?」


 また土地の話。


「あの辺、再開発でかなり値上がりしてるだろ。相続税のこともあるし、早めに動いた方がいいぞ」


「それは……まだ何も」


「ふーん」


 裕也は意味ありげに頷いた。


「まあ、結婚したら俺が手続き手伝ってやるよ。税理士も紹介する。任せておけ」


 優しい言葉。なのに、どこか引っかかる。


(どうして裕也は、あの土地のことばかり……)


 考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。裕也は私の将来を心配してくれているだけ。そうに決まってる。


「さて」


 裕也が立ち上がった。


「母さんの電話、長くなりそうだな。先に出るか」


「あ、はい……」


 会計を済ませ、レストランを出る。外は冬の夕暮れ。吐く息が白い。


「じゃあな。来週また連絡する」


「……うん」


 裕也はタクシーを拾い、振り返ることもなく去っていった。


 一人取り残された私は、しばらく街灯の下に立ち尽くしていた。




         *




 帰宅して、真っ先にエプロンを取り出す。


 祖母の刺繍を、指でなぞる。野花と小鳥。色褪せた糸。でも確かに残る、祖母の温もり。


『これは私の一番大切な物語なの』


 物語。


 祖母は昔から、このエプロンをとても大切にしていた。どんなに古くなっても、繕い直しては使い続けた。


「何が、そんなに大切だったの……」


 ふと思い出して、エプロンを裏返す。


 先日見つけた、裏地の刺繍。目を凝らして見ると、確かに文字のようなものが縫い込まれている。


 でも、糸の色が生地とほぼ同じで、よく見ないと分からない。わざと目立たないようにしているみたいだ。


「……何か、隠してるの?」


 心臓が、少しだけ速くなる。


 祖母は何か秘密を持っていた。このエプロンには、単なる形見以上の意味がある。


(おばあちゃん、私、間違ってないよね?)


 このエプロンを守ることは、きっと正しい。そう信じたい。


 でも——


 裕也と芙美子さんの顔が浮かぶ。来週また圧力がかかる。今度はもっと強く。もっと直接的に。


「私なんかが、抵抗しても……」


 無力感が、じわじわと広がっていく。


 スマホが震えた。美羽からのメッセージ。


『今日の食事会どうだった? 大丈夫?』


 高校からの親友。私のことを誰より分かってくれる、唯一の味方。


『……大丈夫じゃないかも』


 正直に返した。すぐに既読がつく。


『電話していい?』


『うん』


 数秒後、コール音。


「もしもし、花織? 大丈夫? 何があった?」


 美羽の声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが緩んだ。


「……エプロン、捨てろって」


「はあ?」


 美羽の声のトーンが、一気に上がる。


「あのおばあちゃんの形見のやつ? マジで言ってんの、あの男」


「裕也だけじゃなくて、お義母さんも……」


「あー……あの慇懃無礼ババア」


「美羽……」


「ごめんごめん、つい。で、花織は何て答えたの?」


「時間が欲しいって……」


「よく言った!」


「でも、来週また……」


「断りなよ」


 美羽は即答した。


「え……」


「断りなって。何で花織が大切なもの捨てなきゃいけないわけ? おかしいでしょ、そんなの」


「で、でも、結婚が……」


「エプロン一個でダメになる結婚なんか、こっちから願い下げだっつーの」


 美羽の言葉は、いつも真っ直ぐだ。


「花織、聞いて。あたしね、最初からあの男、好きじゃなかった」


「……え?」


「なんか胡散臭いなーって思ってた。でも花織が幸せそうだったから、言わなかっただけ」


「そう、だったの……」


「うん。でもさ、最近の花織、全然幸せそうじゃないじゃん。いつも顔色悪いし、自分のこと卑下するし。前はもっと笑ってたよ」


 前はもっと——


 言われて、気づく。確かに最近、心から笑った記憶がない。


「花織は悪くないよ。あんたは何も間違ってない」


 美羽の声が、静かに、でも力強く響く。


「おばあちゃんの形見を大切にしたいって思うのは、当たり前のことでしょ。それを『みっともない』とか言う方がどうかしてる」


「……ありがとう、美羽」


 涙が、じわりと滲んだ。


「何かあったらすぐ連絡しなよ。すっ飛んでくから」


「うん……」


 電話を切った後も、美羽の言葉が心に残っていた。


 花織は悪くない。


 何も間違ってない。


(そうだよね、おばあちゃん)


 エプロンを抱きしめる。裏地の秘密の刺繍が、微かに指先に触れる。


 このエプロンには、何かがある。祖母が命がけで守ろうとした、何かが。


 私はまだ、それを知らない。でも、だからこそ手放してはいけない気がする。


 祖母が遺してくれた、最後の約束。


 それを守ることが、今の私にできる、唯一のことだから。


 スマホが、また震えた。今度は裕也から。


『来週の食事、母さんが楽しみにしてるってさ。ちゃんと答え用意しておけよ』


 冷たい文面。命令口調。


 以前の私なら、すぐに『はい』と返していたかもしれない。


 でも今日は、返信せずにスマホを伏せた。


 外では、冬の風が窓を揺らしている。


 嵐の予感がした。




         *




 その夜、私は裕也の部屋にいた。


 話し合いがしたいと呼び出されたのだ。一週間の猶予の末に出す、私の答えを聞くために。


「で?」


 裕也はソファに深く腰掛け、脚を組んでいた。リビングの照明が、彼の表情に影を作っている。


「答えは決まったんだろうな」


「……あの」


 私は立ったまま、エプロンを胸に抱きしめていた。今日は実物を持ってきていた。最後にもう一度、きちんと説明したかったから。


「このエプロンは、おばあちゃんが最期に私に託してくれたものなんです。私にとって、世界で一番大切な——」


「そんなことは聞いてない」


 裕也が遮る。


「捨てるのか、捨てないのか。イエスかノーか。単純な二択だろ」


「……捨てられません」


 言った瞬間、空気が変わった。


 裕也がゆっくりと立ち上がる。その目が、今まで見たことのないほど冷たく光っている。


「なるほどね」


「裕也さん、聞いてください。私は——」


「俺は十分聞いたよ」


 彼が近づいてくる。一歩、また一歩。私は思わず後ずさる。


「お前は俺より、そのボロ布を選んだんだ。そういうことだよな?」


「そういうことじゃ——」


「じゃあどういうことだよ!」


 怒鳴り声が、部屋に響いた。


 裕也が手を伸ばす。私が抱きしめていたエプロンを、乱暴に掴んだ。


「やめてっ!」


「何がそんなに大事なんだ、こんなもんの!」


 びりっ、と音がした。


 エプロンの端が、少しだけ裂ける。


「あ……」


 頭が真っ白になった。


「返して」


 自分でも驚くほど、低い声が出た。


「返してください」


「……何だよ、その目」


 裕也が怯んだのは一瞬だけ。すぐに嘲笑を取り戻す。


「いい加減にしろよ。お前みたいな何の取り柄もない女を、俺が嫁にしてやろうとしてるんだぞ? 感謝しろよ」


「嫁にしてやる……」


「そうだ。お前の家の土地だって、俺が処理してやるつもりだった。相続税、馬鹿にならないだろ? 知り合いの業者紹介して、それなりの値段で売れるようにしてやるつもりだったのに」


 土地。


 また、土地の話。


「……それが、目的だったんですか」


 口をついて出た言葉に、裕也の動きが止まる。


「何?」


「最初から——私じゃなくて、おばあちゃんの土地が目的だったんですか」


「はあ? 何言ってんの?」


 裕也は笑った。でも、その笑いには余裕がない。


「お前、被害妄想激しくない? 俺はお前のためを思って——」


「もういいです」


 不思議と、声は震えなかった。


「エプロンを返してください。それだけで結構です」


「……はっ」


 裕也が、私を見下ろす。その目に浮かぶのは、純粋な軽蔑。


「分かった。もう分かったよ」


 彼はエプロンを、乱暴に黒いゴミ袋に突っ込んだ。


「そこまでボロ布がいいなら、勝手にしろ。俺はもうお前と関わりたくない」


「……え?」


「婚約破棄だ」


 その言葉が、私の心を打ち抜く。


「お前は俺の家に相応しくない。最初から無理だったんだよ、こんな格差婚」


 格差婚。


 私と裕也の間にあったのは、対等なパートナーシップじゃなくて、最初から『格差』だったのか。


「出ていけ」


 裕也がドアを指さす。


「そのゴミ袋は置いていけ。明日の朝、ちゃんと捨てておいてやるよ」


「……何言って」


「聞こえなかったか? ゴミはゴミ箱に、だろ?」


 裕也が笑う。心底楽しそうに。


「あんな古臭いもん大事大事って抱えてる女なんか、金目当ての詐欺師と変わんねーよ。何が祖母の形見だ。どうせ売り払うつもりだったんだろ? アンティークとかってさ」


「私は、そんな——」


「もういい。話は終わりだ。二度と顔見せるなよ」


 突き飛ばされるように、玄関から追い出された。


 バタン、とドアが閉まる。


 私は、薄暗い廊下に立ち尽くしていた。




         *




 雨が、降り始めていた。


 傘を忘れたことに気づいたのは、マンションを出てからだった。冷たい雫が、肩に、頬に落ちてくる。


 でも、引き返す気にはなれなかった。


(ゴミ袋……明日の朝、捨てる……)


 裕也の言葉が、頭の中で繰り返される。


(おばあちゃんのエプロンが、ゴミとして捨てられる——)


 冗談じゃない。


 私は走り出していた。雨の中を、裕也のマンションのゴミ捨て場へ。


「どこ……どこ……」


 集積所には、いくつものゴミ袋が積まれていた。街灯の薄明かりの下、私は手当たり次第に袋を探る。


「お願い、どこなの……」


 手が汚れる。膝が濡れる。髪が顔に張りつく。


 でも構わなかった。こんな場所で、おばあちゃんの形見が捨てられるなんて、絶対に嫌だ。


「あった……!」


 ようやく見つけた黒いゴミ袋。裕也が使っていたのと同じメーカーのもの。中を確認すると、確かにエプロンが入っている。


「よかった……」


 膝から力が抜けて、その場に座り込んでしまう。雨はどんどん強くなり、私の全身を濡らしていく。


 でも、エプロンは無事だ。祖母の刺繍は、まだここにある。


「おばあちゃん……私……」


 涙が溢れた。雨と混じって、頬を伝っていく。


 婚約破棄された。


 金目当てだと罵られた。


 何の取り柄もない女だと言われた。


 全部、全部、きっと本当のことなんだろう。


 でも——このエプロンだけは、守れた。


 それだけが、唯一の救い。


「……大丈夫、大丈夫だから……」


 自分に言い聞かせながら、エプロンを抱きしめる。冷たい雨の中、それだけが温かいような気がした。


 その時。


 ふいに、雨が止んだ。


 いや、違う。頭上に傘が差し出されている。


「……大丈夫ですか」


 低く、落ち着いた声。


 顔を上げると、そこには見知らぬ男性が立っていた。


 高級そうなコート。端正だけれど、どこか冷たい印象の顔立ち。切れ長の黒い瞳が、真っ直ぐに私を見下ろしている。


「あの、私は——」


 言いかけて、彼の視線がエプロンに固定されていることに気づく。


 彼は、ゆっくりとしゃがんで私と目線を合わせた。その瞳に、かすかな動揺が走る。


「その刺繍……」


「え……」


「野花と、小鳥……」


 彼が息を呑む。


「どこで、手に入れたのですか」


 真剣な眼差し。初対面なのに、まるで長年探し続けてきた何かを見つけたかのような——


「これは……祖母の形見、です」


「お祖母様……お名前を伺っても?」


「……藤崎、糸子……」


 言った瞬間。


 彼の目が見開かれた。


「藤崎、糸子さん……」


 彼は何度か、その名前を噛みしめるように繰り返す。


「まさか……本当に、見つかるなんて……」


「あの、どういう——」


「申し遅れました」


 彼が立ち上がり、私に手を差し伸べる。


「氷室蓮と申します。祖父から……この刺繍を持つ女性を探すように、遺言されておりました」


 氷室。


 その名前に、私の心臓が跳ねる。


 氷室——世界的な服飾ブランド。テレビや雑誌で何度も見たことがある、あの——


「祖父の名は、氷室一馬。生涯をかけて、ある女性を探し続けていました」


 雨音の中、彼の声が響く。


「『野花と小鳥の刺繍を持つ、たった一人の女性を見つけてくれ』と」


 蓮さんの視線が、再びエプロンに向けられる。その目には、確信と、かすかな悲しみが入り混じっていた。


「その刺繍こそが……祖父が六十年間、探し続けてきたものです」


 六十年。


 雨の中、私は呆然と立ち尽くしていた。


 祖母のエプロン。野花と小鳥の刺繍。そして、見知らぬ御曹司の遺言。


 何が何だか分からない。でも、一つだけ確かなことがある。


 このエプロンには、私の知らない秘密が眠っている。


 祖母が最期まで守り続けた、六十年越しの物語が。




         *




「立てますか」


 蓮さんの手が、私の前に差し出されている。長い指、手入れの行き届いた爪。でも意外にも、手のひらには薄い繭があった。


「あ……はい、すみません」


 私は彼の手を取って立ち上がった。膝が泥だらけになっている。服も、髪も、ぐっしょりと濡れている。きっと今、とんでもない姿をしているのだろう。


「車を呼んであります。よろしければ、着替えと温かいものを」


「いえ、そんな……見知らぬ方の車に乗るわけには」


「もっともです」


 蓮さんは淡々と頷いた。


「では、せめてこれを」


 彼は着ていたコートを脱いで、私の肩にかけた。高級な生地の手触りが、濡れた肌に触れる。


「あ、でも、濡れちゃいます……」


「構いません」


 素っ気ない口調。でも、その行動に迷いがない。


「先ほどの件、説明させてください」


 蓮さんは傘を私の方に傾けながら——自分の肩が濡れるのも構わず——話し始めた。


「私の祖父は、氷室一馬と申します。世界的な服飾ブランド『氷室』の創業者でした」


「……存じています」


 テレビでも、雑誌でも、何度も見た名前だ。日本を代表するファッションブランド。創業者の氷室一馬は、数年前に亡くなったはず。


「祖父は生涯独身でした」


「……はい」


「その理由を、私は子供の頃から知りませんでした。ただ、祖父には忘れられない女性がいるのだと、漠然と感じていました」


 蓮さんの声が、少し低くなる。


「祖父が亡くなる直前……私に遺言を託しました。『野花と小鳥の刺繍を持つ女性を探してほしい。彼女か、その子孫に、必ず会ってほしい』と」


 野花と小鳥。


 私は、濡れたエプロンを見下ろす。確かに、祖母の刺繍は野花と小鳥の図案だ。


「その刺繍が……」


「ええ。まさに、祖父が探していたものです」


 蓮さんの黒い瞳が、真っ直ぐに私を見る。


「藤崎糸子さんは……あなたのお祖母様、で間違いないですか」


「……はい。三年前に亡くなりましたが」


「そう、ですか」


 蓮さんの声に、わずかな翳りが差した。


「祖父は、糸子さんに会えることを願っていました。最期の最期まで……」


 会えること。


 つまり、祖父と祖母は——


「お二人は、お知り合いだったんですか」


「ええ。若い頃に……恋人同士だったと」


 恋人。


 祖母に、恋人がいた。氷室財閥の創業者と、恋人だった。


「祖母は、何も言っていませんでした……」


「……そうでしょうね」


 蓮さんが、遠くを見るような目をする。


「身分違いの恋で、引き裂かれたと聞いています。二人とも、互いの名前を口にすることすら辛かったのでしょう」


 雨音が、少し弱くなってきた。


「詳しい話は、場所を変えてお伝えしたい。お嫌でなければ……私の家へいらしていただけませんか」


「……いきなり、そう言われても」


「もちろん、強制ではありません」


 蓮さんが、少しだけ眉を下げた。


「ただ……あなたには知る権利がある。祖父と、糸子さんの間に何があったのか。そして、その刺繍が何を意味するのか」


 刺繍の意味。


 祖母が最期まで守り続けた、このエプロン。裏地に隠された、謎の刺繍文字。そして、六十年間一人の女性を想い続けた男性の遺言。


「……分かりました」


 気づけば、私は頷いていた。


「お話を、聞かせてください」


 蓮さんが、かすかに息をついた。安堵、だろうか。


「……ありがとうございます」




         *




 蓮さんの車は、驚くほど静かだった。外の雨音すら、ほとんど聞こえない。


 後部座席に座った私は、借りたタオルで髪を拭きながら、窓の外を眺めていた。街灯がオレンジ色に滲んで見える。


「……失礼ですが」


 蓮さんの声。私と同じ後部座席に座っているが、少し距離を取っている。礼儀正しいというか、慎重というか。


「先ほどの場所で……何があったのですか」


「え」


「ゴミ捨て場で、ずぶ濡れになって。何か、事情がおありのようでしたが」


 事情。


 婚約破棄されて、エプロンを捨てられて、ゴミの中から拾い上げたところを見られた。


「……恥ずかしい話です」


「聞かせていただけますか」


 真剣な口調。でも、追い詰めるような圧はない。


「……婚約者に、このエプロンを捨てられたんです」


「捨てられた」


「『みっともない』『貧乏くさい』って言われて……処分しろって。でも私、どうしても捨てられなくて。それで、婚約破棄されました」


 言葉にすると、また涙が滲んでくる。私は慌てて目を拭った。


「……その男は、愚かだ」


 蓮さんの声が、予想外に厳しかった。


「え?」


「この刺繍の価値を、全く理解していない。いや、価値の問題ではない。大切な人の形見を『みっともない』と言うなど……人として終わっている」


 真顔で、淡々と。でも、声には怒りが滲んでいる。


「……そう、思ってくださるんですか」


「当然です」


 蓮さんが、私を見た。


「あなたは、雨の中、ゴミ袋を漁ってでもこれを守ろうとした。その姿を見た時……私は確信しました。あなたは、本物だと」


 本物。


 何の取り柄もない、と裕也に言われた私が。


「祖父も……糸子さんを、同じように想っていたはずです。六十年、一日も忘れることなく」


 蓮さんの声が、少し柔らかくなった。


「詳しいことは、家で。祖父が遺した手紙があります」


 手紙。


 祖母宛の手紙が、残っているということだろうか。


「もうすぐ着きます」


 窓の外を見ると、都心の夜景が広がっていた。高層ビルが立ち並ぶ、一等地。


「私は……場違いな気がします」


「そんなことは、ありません」


 蓮さんが、静かに言った。


「あなたは、祖父が六十年探し続けた人の、お孫さんなのですから」


 車が、一軒の邸宅の前で止まる。門に「氷室」の表札。


「ようこそ、氷室家へ」


 蓮さんが先に降りて、私のためにドアを開けてくれる。


「糸子さんの想いを、ここで——お伝えできればと思います」


 私は、エプロンを胸に抱きしめたまま、車を降りた。


 祖母は、どんな想いでこの刺繍を続けてきたのだろう。どんな痛みを、喜びを、この一針一針に込めたのだろう。


 今夜、その答えの一端が、明かされようとしている。


 私は深呼吸をして、氷室家の門をくぐった。




         *




 氷室邸の応接室は、想像していたより温かみがあった。


 壁には、繊細な刺繍が施された額縁がいくつも飾られている。野花、小鳥、蝶々——見覚えのある図案。祖母のエプロンと、同じモチーフ。


「お祖母様の作品を、参考にしたものです」


 私の視線に気づいた蓮さんが、静かに説明する。


「『氷室』の原点となった図案は、全て糸子さんのデザインでした」


「……そんな」


 あの世界的ブランドの原点が、祖母の刺繍だった?


「お茶をどうぞ。体が冷えているでしょう」


 蓮さんが、温かいカップを手渡してくれる。着替えも貸してもらった。さすがに高級ブランドではなく、シンプルな部屋着だったけれど、それでも私には十分すぎるほど上質なものだった。


「祖父の日記を、お見せしても?」


「……はい」


 蓮さんが、古びた革の手帳を取り出す。


「祖父は、生涯この日記をつけていました。ほとんどの内容は事務的なものでしたが……ところどころに、糸子さんへの想いが綴られています」


 手帳を開くと、几帳面な字が並んでいた。そして——


『今日も糸子のことを思い出した。彼女は今、どこで何をしているのだろう。幸せであってほしい。せめて、それだけを願う』


『野花と小鳥の刺繍を見ると、あの日の糸子の笑顔を思い出す。「一馬さん、この図案、気に入ってくださる?」と、はにかみながら見せてくれた彼女の姿を』


『六十年が経った。私の人生は、糸子に出会った日から始まり、糸子と引き裂かれた日に終わった。残りの時間は、ただ彼女への想いを形にするためだけに使った』


 涙が、頬を伝う。


「祖父は……糸子さんを、生涯愛し続けました」


 蓮さんの声が、静かに響く。


「身分違いで引き裂かれた後も、彼女の刺繍を原点にブランドを興し、世界的な成功を収めました。でも本人は……幸せだったとは思えません」


「……どうして、引き裂かれたんですか」


「祖父の家が、許さなかったのです」


 蓮さんが、窓の外を見る。


「当時の氷室家は、地方の名家でした。糸子さんは、町の仕立屋の娘。家柄が釣り合わないと、祖父の両親が猛反対した」


「……」


「祖父は駆け落ちしようとしました。でも糸子さんが、自分から身を引いた」


「おばあちゃんが……?」


「『あなたの未来を、私のせいで台無しにしたくない』と言って。祖父がどんなに引き止めても、彼女は去っていった」


 祖母らしい、と思った。


 誰よりも優しくて、誰よりも強くて、誰よりも自分を後回しにする人だった。


「祖父は、生涯独身を貫きました。『糸子以外の女性を、妻にすることはできない』と」


「……」


「そして、死の間際に私を呼んで言いました。『野花と小鳥の刺繍を持つ女性を探してくれ。彼女か、その子孫に会いたい。そして……伝えてくれ。私は最期まで、糸子を愛していたと』」


 蓮さんの声が、かすかに震える。


「祖父は最期まで……糸子さんの名前を、呼んでいました」


 涙が止まらない。


 祖母。おばあちゃん。


 あなたは知っていたの? こんなに、深く愛されていたことを。


「この刺繍には、もう一つ秘密があります」


 蓮さんが、私のエプロンを見る。


「裏地に、何か縫い込まれているはずです。祖父と糸子さんだけが知る、『約束の言葉』が」


 約束の言葉。


 私は慌ててエプロンを裏返す。先日見つけた、あの微かな刺繍。生地とほぼ同じ色の糸で、わざと目立たないように縫われている。


「読めますか」


 目を凝らす。一文字、一文字、慎重に辿る。


「『……いつか、必ず』」


 私の声が、震える。


「『いつか、必ず——また、あなたのそばへ』」


 沈黙が、部屋を満たした。


「祖父も、同じ言葉を遺していました」


 蓮さんが、別の紙を取り出す。祖父の字で、同じ言葉が書かれている。


「二人は、離れていても——同じ言葉を、胸に刻んでいたのでしょう」


 いつか、必ず。また、あなたのそばへ。


 六十年の時を超えて、二人の想いが交差している。


「祖父の遺言には、続きがあります」


 蓮さんが、真剣な目で私を見た。


「『この刺繍の正当な継承者に、私の全てを託す』と」


「……全て?」


「遺産です。祖父は、莫大な資産の相続先として……糸子さんの子孫を指名していました」


 頭が、真っ白になる。


 遺産。莫大な。私が、相続人。


「そ、そんな……私には、関係のない——」


「関係があるのです」


 蓮さんが、静かに言った。


「祖父にとって、糸子さんとの約束は——何よりも大切なものでした。彼女の想いを受け継ぐ人に、全てを託したかったのでしょう」


 私は、エプロンを見下ろす。


 色褪せた木綿。野花と小鳥の刺繍。裏地に隠された、約束の言葉。


 祖母は、このエプロンに全てを託していたのだ。愛も、痛みも、叶わなかった夢も。


「おばあちゃん……」


 涙声が、漏れる。


「私、何も知らなかった……ごめんね、何も……」


「あなたのせいではありません」


 蓮さんが、静かに言った。


「糸子さんは、語らないことで——あなたを守ろうとしたのかもしれない」


「守る……?」


「この秘密を知れば、あなたは巻き込まれます。遺産の問題、家同士の確執……そういったものに。糸子さんは、それを望まなかったのでは」


 でも、祖母は最期にこう言った。


『このエプロンだけは、絶対に手放さないでね』


 手放すな、と。守れ、と。


 いつか——私が真実を知る日が来ることを、祖母は信じていたのかもしれない。


「……私に、できることはありますか」


 顔を上げて、蓮さんを見る。


「祖父と、おばあちゃんのために。私にできることが、何かあれば」


 蓮さんが、少しだけ目を見開いた。それから——


 初めて、かすかに微笑んだ。


「あなたは……不思議な人ですね」


「え?」


「突然こんな話をされて、莫大な遺産の相続人だと言われて。普通なら混乱するか、舞い上がるか、どちらかでしょう。なのに——」


「お金のことは、正直まだ実感がなくて……」


 私は、エプロンを胸に抱いた。


「ただ……おばあちゃんが、こんなに深く誰かを愛していたこと。その想いが、やっと報われようとしていること。それが、嬉しいんです」


 蓮さんは、しばらく黙って私を見つめていた。


 その黒い瞳に、何かが揺れる。


「……祖父が探していた人は、やはりあなたでした」


 静かな確信を込めた声。


「これから、様々なことが起こるでしょう。遺産の手続き、そして……予期せぬ問題も」


「問題?」


「あなたが相続人だと知れば、それを利用しようとする者も現れるはずです」


 裕也の顔が、脳裏をよぎる。まさか——もう関係ないはず。私たちは、もう終わったのだから。


「私が、守ります」


 蓮さんの言葉に、私は顔を上げた。


「え……」


「祖父の遺志を継ぐ者として。そして——」


 蓮さんが、言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだようだった。


「……とにかく、今夜はお休みください。客室を用意させます」


「あ、いえ、そんな——」


「この雨の中、一人で帰すわけにはいきません」


 有無を言わせぬ口調。でも、そこに冷たさはなかった。


「明日、改めて詳しいお話を。今夜は、ゆっくり休んでください」


 私は、頷くしかなかった。


 氷室邸の客室で、一人になって。私は祖母のエプロンを抱きしめた。


「おばあちゃん……」


 六十年の時を超えて、祖母と祖父——いや、糸子さんと一馬さんの想いが、ようやく交差しようとしている。


 二人は生きている間、再会することができなかった。


 でも今、私を通じて——その想いは、確かに繋がった。


「いつか、必ず——また、あなたのそばへ」


 祖母が刺繍に込めた言葉を、私は静かに口にした。


 窓の外では、雨がやんで、星が見え始めていた。




         *




 翌朝、私はスマホの通知音で目を覚ました。


 見慣れない天井。そうだ、ここは氷室邸の客室——


 スマホを確認すると、裕也からのメッセージが大量に届いていた。


『花織、話がある。連絡しろ』

『おい、無視すんな』

『お前、氷室財閥と何か関係あるのか?』


 最後のメッセージを見て、背筋が凍った。


 どうして裕也が、氷室財閥のことを——


『母さんが調べた。お前、昨日氷室家に出入りしてただろ。どういうことだ、説明しろ』


 コンコン、とノックの音。


「おはようございます。お目覚めですか?」


 蓮さんの声だ。私は慌ててスマホを伏せて、返事をした。


「はい、今起きました」


「朝食の用意ができています。よろしければ、ご一緒に」




         *




 朝食の席で、私は昨夜のことを整理しようとしていた。


 祖母と一馬さんの悲恋。六十年間守り続けられた刺繍。そして、莫大な遺産の相続——


「昨夜のことは、まだ信じられないかもしれません」


 蓮さんが、コーヒーカップを置いて言った。


「正式な手続きには時間がかかります。弁護士を交えて、段階的に進めていきましょう」


「……お金のことは、本当にいいんです」


 私は首を振った。


「おばあちゃんと一馬さんの想いを知れただけで、十分すぎるくらいです」


「そう言っていただけると……祖父も喜ぶでしょう」


 蓮さんが、かすかに微笑む。昨日より、少しだけ表情が柔らかい。


「ですが、現実問題として——」


 その時、執事らしき人が入ってきた。


「蓮様、お客様です。高城裕也と名乗る方が……」


 私の心臓が、跳ね上がった。


「……高城」


 蓮さんが、私を見る。


「昨日の……婚約者、ですか」


「元、です。もう関係は——」


「どこですか! 花織!」


 廊下から、裕也の声が響いた。




         *




 応接室に通された裕也は、私を見るなり駆け寄ってきた。


「花織、心配したんだぞ。昨日から連絡がなくて」


「心配……?」


 昨日、『二度と顔を見せるな』と言ったのは、誰だったっけ。


「あのさ、昨日は俺も言いすぎた。ごめん。な? 許してくれるだろ?」


 裕也の声は、驚くほど甘かった。こんな声、付き合い始めの頃以来聞いていない。


「俺たちの仲だろ? ちょっとした喧嘩じゃないか。婚約破棄なんて、本気で言ったわけじゃないよ」


「……」


「なあ花織、家に帰ろう? 俺の家でも、お前の家でも、どこでもいい。ゆっくり話そう」


 そして裕也は、私の手を取ろうとした。


「離れてください」


 蓮さんの声が、鋭く響いた。


「え?」


 裕也が、初めて蓮さんの存在に気づいたように振り返る。


「何だ、あんた」


「氷室蓮です。この家の当主を務めています」


「氷室……」


 裕也の目が、ぎらりと光る。


「ああ、なるほどね。財閥の御曹司様か」


「花織さんは、私の客人です。不躾な振る舞いは、控えていただきたい」


「客人? へえ」


 裕也が、嫌らしい笑みを浮かべた。


「たった一晩で、ずいぶん親しくなったもんだな。俺の婚約者だった女を、もう口説いてるわけ?」


「裕也さん」


 私は、裕也をまっすぐ見た。


「昨日、婚約破棄したのはあなたの方です。私たちは、もう何の関係もありません」


「だから、それは——」


「エプロンをゴミ袋に捨てたのも、あなたです。『二度と顔を見せるな』と言ったのも」


「それは言いすぎたって言ってるだろ!」


 裕也の声が荒くなる。でも、すぐに取り繕うような笑顔を浮かべた。


「なあ花織、あのエプロン——大切にするから、返してくれないか? 俺が間違ってた。お前の大事なものを、ちゃんと尊重する。な?」


 嘘だ。


 昨日まで『ボロ布』『みっともない』と罵っていたものを、急に『大切にする』なんて。


 裕也が態度を変えた理由は、一つしかない。


 氷室財閥との関係。このエプロンに、何か価値があると気づいたのだ。


「お断りします」


 私は、静かに言った。


「お断り……?」


「このエプロンは、私の祖母が私に託したものです。他の誰かに渡すつもりはありません」


 裕也の顔から、笑みが消える。


「……お前、調子に乗ってんじゃねえぞ」


 本性が、顔を出した。


「財閥に取り入って、金でも貰おうってのか? さすが、あの貧乏くさい祖母に育てられただけはあるな」


「おばあちゃんを侮辱しないでください」


 私の声が、思いがけず鋭くなる。


「お前——」


「お帰りいただけますか」


 蓮さんが、裕也と私の間に立った。


「これ以上、花織さんを不快にさせるようなら、こちらにも考えがあります」


「何だと?」


「不法侵入、ハラスメント……弁護士を呼ぶことも厭いません」


 裕也が、歯ぎしりをする音が聞こえた。


「……覚えてろよ」


 捨て台詞を吐いて、裕也は出ていった。




         *




 裕也が去った後、私は椅子に座り込んだ。


「……すみません、ご迷惑を」


「あなたが謝ることではありません」


 蓮さんが、私の前に座った。


「あの男は、遺産のことを嗅ぎつけたのでしょう。今後も、何か仕掛けてくる可能性があります」


「……そう、ですよね」


 裕也は諦めない。金になると思えば、どんな手段でも使ってくる。


「花織さん」


 蓮さんが、真剣な目で私を見た。


「しばらく、この家にいてください」


「え……」


「守りたいと——思ってしまったので」


 蓮さんの声が、少し低くなる。


「すみません、不躾な申し出でした。忘れてください」


「いえ——」


 私は、蓮さんを見つめた。


 出会ってまだ一日。でも、この人は——裕也と出会ってからの二年間より、ずっと誠実に私と向き合ってくれている。


「……お言葉に甘えても、いいですか」


「もちろんです」


 蓮さんが、かすかに表情を緩めた。


 でも——私は知っていた。これで終わりではないことを。


 裕也は、必ず戻ってくる。もっと卑劣な手段を使って。


 嵐は、まだ始まったばかりだった。




         *




 それから数日後。


 私は氷室邸で、穏やかな日々を過ごしていた。


 蓮さんは仕事で忙しいはずなのに、毎朝と毎晩、必ず私と食事を共にしてくれた。祖父と祖母の思い出話、刺繍の歴史、ブランドの原点——話は尽きなかった。


「あなたと話していると……不思議な気持ちになります」


 ある夜、蓮さんがそう言った。


「不思議、ですか」


「ええ。祖父が糸子さんのことを語る時の——あの、温かい表情。それが、分かる気がするのです」


 蓮さんの黒い瞳が、私を見つめる。その視線には、もう冷たさはなかった。


「……私なんかが」


「その言い方は、やめてください」


 蓮さんが、わずかに眉をひそめた。


「あなたは『なんか』ではない。祖父が生涯をかけて探した人の、血を引く方なのですから」


「でも——」


「それに」


 蓮さんが、少し言いよどむ。珍しいことだった。


「血筋がなくても……あなたは、あなた自身として、価値のある人です」


 心臓が、大きく跳ねた。


「蓮さん……」


「すみません、変なことを言いました」


 蓮さんが目を逸らす。その頬が、かすかに赤い——気がする。


 その時。


 玄関の方から、騒がしい声が聞こえてきた。


「どいてください! 花織に用があるんだ!」


 裕也の声。


 私と蓮さんは、顔を見合わせた。




         *




 玄関に向かうと、裕也が執事ともめていた。


「高城さん、お引き取りを——」


「うるせえ! 花織を出せ!」


「裕也さん」


 私が声をかけると、裕也が振り返った。その目が、血走っている。


「花織……! やっと出てきたか」


「何の用ですか」


「何の用だと? お前、自分が何をしてるか分かってるのか」


 裕也が、一歩近づく。


「氷室財閥に取り入って、遺産を横取りしようとしてるんだろ? そのエプロン、最初から狙ってたんだな?」


「何を——」


「とぼけるな!」


 裕也の声が、玄関に響き渡る。


「お前の祖母が氷室一馬の元カノだったなんて、ずっと隠してやがった! 最初から俺を騙してたんだ!」


「私は何も知らなかった——」


「嘘つけ!」


 裕也が、私の腕を掴む。強い力で、痛い。


「エプロンを渡せ。そうすれば許してやる」


「離してください——」


「手を離しなさい」


 蓮さんの声が、鋭く響いた。


「何だ、御曹司様か」


 裕也が、蓮さんを睨む。


「邪魔しないでくれよ。これは俺と花織の問題だ」


「あなたは既に、花織さんとの婚約を破棄しています。彼女に触れる権利はない」


「権利? へえ、お前にはあるってのか?」


 裕也が、下品な笑みを浮かべた。


「たった数日で、もうヤったのか? さすが金持ちは——」


 蓮さんの拳が、裕也の顔面に突き刺さった。


「ぐっ……!」


 裕也がよろめく。鼻血が、床に滴り落ちた。


「……二度と、彼女を侮辱するな」


 蓮さんの声は、氷のように冷たい。


「お前……覚えてろよ……!」


 裕也が、よろよろと立ち上がる。


「こうなったら実力行使だ。お前らがどうなっても知らねえからな!」


 裕也が去った後、私は震えが止まらなかった。


「……すみません」


 蓮さんが、自分の拳を見つめながら言った。


「つい、手が出てしまいました」


「いいえ……ありがとうございます」


 私は、蓮さんを見上げた。


「守ってくれて」


 蓮さんが、私を見つめ返す。その瞳に、様々な感情が渦巻いている。


「……花織さん」


「はい」


「あの男は、危険です。何か仕掛けてくるかもしれません」


「分かっています」


「だから——」


 蓮さんが、私の手を取った。傷ついた拳で、そっと。


「何があっても、あなたを守ります」




         *




 数日後。


 裕也の「実力行使」の意味が、明らかになった。


 美羽から、慌てたメッセージが届いたのだ。


『花織!!大変!!今すぐ確認して!!』


 リンクが貼られている。開くと——


 週刊誌の電子版だった。


 見出しには、こう書かれている。


『氷室財閥の御曹司、遺産狙いの女に騙される?元婚約者が激白「彼女は最初から計画していた」』


 血の気が引いた。


 記事を読むと、裕也が「被害者」として語っているインタビューが載っていた。


『彼女は純粋な女性だと思っていました。でも、祖母の形見のエプロンにそこまで執着するのはおかしいと思った。調べてみたら、氷室財閥との関係が……。僕は騙されていたんです』


『彼女は最初から、このエプロンの価値を知っていたはず。僕を利用して、いずれ氷室家に接触するつもりだったのでしょう』


 嘘だ。全部、嘘だ。


 私は何も知らなかった。祖母との関係も、遺産のことも——


「花織さん」


 蓮さんが、静かに私の隣に立った。


「……見ました」


「嘘ばかりです、こんなの——」


「分かっています」


 蓮さんが、私の肩に手を置いた。


「だから、対策を講じます」


「対策……?」


「実は——先日の騒ぎの際、録音をしていました」


「え?」


「あの男が何を言ったか、全て記録してあります。『金になるなら何でも利用する』——そう言ったはずです」


 思い出す。確かに裕也は、そんなことを口走っていた。


「それだけではありません」


 蓮さんが、タブレットを操作する。


「調べたところ、高城裕也は——あなたのお祖母様の土地を、以前から狙っていたようです」


「土地……」


「再開発で価値が上がることを知り、あなたに近づいた。婚約したのも、相続後に土地を自分のものにするためだったのでしょう」


 全ての点が、線で繋がった。


 裕也がやたらと土地のことを気にしていた理由。私に近づいた本当の目的。そして、婚約破棄した途端に戻ってきた理由——


「最初から……私じゃなくて、土地が目的だった」


「そのようです」


 私は、静かに拳を握った。


 悲しいというより、怒りが込み上げてくる。


 私を利用しようとしただけじゃない。祖母の形見を『ゴミ』と呼び、祖母の愛を『貧乏くさい』と嘲笑った。


「許せない」


 声が、震える。


「おばあちゃんを、馬鹿にしたことだけは——絶対に、許せない」


「許す必要はありません」


 蓮さんが、真剣な目で私を見た。


「これから、全てを明らかにします。彼の本性を、世間に示しましょう」


「……いいんですか」


「いいも何も——」


 蓮さんが、かすかに微笑んだ。怒りを秘めた、でも優しい笑み。


「祖父と糸子さんの想いを守ることは、私の使命です。そして——」


 彼は、私の手を取った。


「あなたを守ることも」


 嵐は、クライマックスを迎えようとしていた。




         *




 記者会見の会場は、報道陣で溢れていた。


 氷室財閥が緊急会見を開くという知らせは、あっという間に広まった。裕也の「暴露記事」から三日後のことだった。


 私は控室で、祖母のエプロンを握りしめていた。


「緊張していますか」


 蓮さんが、隣に立っている。


「……少しだけ」


「大丈夫です。真実は、あなたの味方です」


 蓮さんが、私の手を軽く握った。その温もりが、震える心を落ち着かせてくれる。


「行きましょう」




         *




 壇上に立つと、無数のフラッシュが焚かれた。


 蓮さんがマイクの前に立つ。


「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。氷室財閥当主、氷室蓮です」


 会場が静まり返る。


「先日、一部報道で取り上げられた件について、事実をお伝えいたします」


 蓮さんが、淡々と話し始めた。


 祖父・氷室一馬と、藤崎糸子の関係。六十年前の悲恋。引き裂かれた二人が、それぞれに想いを胸に秘めて生きたこと。


「祖父は、生涯をかけて糸子さんを探し続けました。そして遺言として、彼女の子孫に全てを託すと——」


 会場がざわめく。


「藤崎花織さんは、その糸子さんのお孫様です。彼女は祖父の遺言に従い、正当な相続人として認められました」


 蓮さんが、一枚の書類を掲げた。


「これは、祖父が生前に作成した遺言書です。公証人の認証も受けています。『野花と小鳥の刺繍を持つ女性、またはその子孫に、私の全財産を相続させる』——明確に記されています」


 報道陣がどよめく中、蓮さんは続けた。


「そして——先日の報道で、花織さんを『遺産狙い』と中傷した人物がいます」


 会場に、録音が流された。


『エプロンを渡せ。そうすれば許してやる』

『金になるなら何でも利用してやる。お前の祖母の土地だってそうだ。最初からそれが目当てだったんだよ!』

『氷室財閥に取り入って、遺産を横取りしようとしてるんだろ?』


 裕也の声が、スピーカーから流れる。


 会場が凍りついた。


「高城裕也氏は、花織さんのお祖母様の土地を狙って近づき、婚約しました。そして遺産の存在を知った途端、それを奪おうとした。『遺産狙い』だったのは、彼の方です」


 蓮さんが、報道陣を見渡す。


「氷室財閥は、花織さんを全面的に支持します。そして、悪質な中傷に対しては、法的措置も辞さない構えです」




         *




 会見が終わると、状況は一変した。


 ネット上では、裕也への批判が殺到。彼の勤務先にも抗議が殺到し、彼は「自主退職」に追い込まれた。


 高城家は世間体を気にして、裕也との縁を切ったらしい。芙美子さんは『最初から怪しいと思っていた』と、息子を切り捨てる発言をしたという。


「……終わったんですね」


 私は、氷室邸の窓から空を見上げた。


「ええ。少なくとも、彼があなたを脅かすことは、もうないでしょう」


 蓮さんが、隣に立った。


「でも、本当の意味で『終わり』ではありません」


「……どういうことですか」


「エプロンの秘密です。裏地の刺繍——まだ全ては解読できていません」


 私は、エプロンを広げた。


 裏地には、『いつか、必ず——また、あなたのそばへ』という言葉の他にも、細かな刺繍が施されている。よく見ると、何かの図案のようだった。


「祖父の遺品の中に、古い暗号表がありました。糸子さんとの間で使っていたものらしい」


 蓮さんが、黄ばんだ紙を取り出す。


「これを使えば、残りの刺繍も解読できるはずです」


 二人で、慎重に刺繍を解読していく。


 一文字、一文字。糸で綴られた、祖母の想い。


『一馬さん、私は幸せでした。あなたに出会えたこと。あなたに愛されたこと。それだけで、私の人生は十分に報われました』


 涙が、頬を伝う。


『もしいつか、私の子孫があなたの子孫に出会うことがあれば——どうか、二人には幸せになってほしい。私たちが叶えられなかった夢を、彼らに託します』


 最後の行を読んだ時、私は声を上げて泣いた。


『私の全てを、あなたに。一馬さん、愛しています。永遠に』


 蓮さんが、静かに私の背中をさすってくれた。


「祖父も、同じことを言っていました」


「え……」


「『糸子への想いを、孫に託す。いつか彼女の子孫に出会ったら——幸せにしてやってくれ』と」


 蓮さんが、私の手を取った。


「祖父と糸子さんは、生きている間に再会できなかった。でも——」


「でも……?」


「私たちは、違う」


 蓮さんの瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。


「花織さん。あなたを——大切にしたいと、思っています」


「蓮さん……」


「まだ出会って間もないのに、こんなことを言うのは不躾かもしれません。でも——祖父と糸子さんの想いを知った今、私には分かる」


 蓮さんが、私の手を強く握った。


「人を愛するのに、時間は関係ない。大切なのは——その人のために、全てを捧げたいと思えるかどうかだ」


 私の目から、また涙が溢れた。


 今度は、悲しみではなく——


「私も……」


 声が震える。


「私も、蓮さんのことを——」


 言葉にならなかった。でも、蓮さんは分かってくれた。


「ありがとう」


 蓮さんが、そっと私を抱きしめた。


「祖父と糸子さんの分まで——幸せになりましょう」


 エプロンを握りしめながら、私は頷いた。


 六十年の時を超えて、二人の想いがようやく報われた。


 そしてこれから——私たちの物語が、始まる。




         *




 一年後——


 私は、小さな刺繍工房の前に立っていた。


 看板には、『糸紡ぎ工房 糸子と一馬』と書かれている。


「いい名前ですね」


 隣に立つ蓮さん——いや、今は「蓮」と呼んでいる——が、穏やかに微笑んだ。


「おばあちゃんと一馬さんの想いを、ずっと繋いでいきたくて」


 私は、工房のドアを開けた。


 中には、数人の若い刺繍職人たちがいる。祖母の技術を学びたいと集まってくれた人たちだ。


「花織さん、これ見てください!」


 一人の女の子が、刺繍枠を差し出した。野花と小鳥の図案。祖母のデザインを、忠実に再現している。


「すごい……とても綺麗」


「本当ですか? 糸子先生の技術には、まだまだ及びませんけど」


 祖母は亡くなっているのに、彼女たちは「先生」と呼ぶ。その温かさが、胸に沁みた。




         *




 莫大な遺産の大部分は、この工房の設立と、刺繍文化の保存活動に使った。


 残りは、身寄りのない子供たちのための奨学金に。祖母に育てられた私だから、分かることがある。血の繋がりがなくても、愛情があれば人は強くなれる。


「金目当てじゃないって、本当だったんだな」


 美羽が、開店祝いに来てくれた時にそう言った。


「当たり前でしょ」


「いや、あたしが花織の立場だったら、正直迷うと思うよ。何十億だよ?」


「お金じゃないの」


 私は、エプロンを見つめた。今も、大切に保管してある。


「おばあちゃんの想いが、やっと報われたこと。それが、一番嬉しいの」


 美羽が、大げさに溜息をついた。


「花織って、本当にいい子だよね。あたしが男だったら惚れてるわ」


「もう、やめてよ」


「でも残念、先約がいるもんね」


 美羽が、意味ありげに蓮の方を見た。


 蓮は、工房の隅で職人たちと話をしている。冷たい印象だった彼も、今ではすっかり馴染んでいる。


「で、いつ籍入れるの?」


「え、えっと……」


「何、まだ正式にプロポーズされてないの?」


「そういうわけじゃ——」


「花織」


 蓮の声に、私は振り返った。


「少し、いいですか」


 美羽がにやにやしながら、親指を立てて去っていく。




         *




 蓮に連れられて、工房の屋上に出た。


 夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。祖母とたくさん見た、あの夕焼けと同じ色。


「実は——渡したいものがあるんです」


 蓮が、小さな箱を差し出した。


 開けると、指輪が入っていた。シンプルなプラチナのリングに、小さなダイヤモンド。


「これは……」


「祖父が、糸子さんのために用意していたものです」


 私は息を呑んだ。


「渡す機会がないまま、祖父は亡くなりました。でも——『いつか、彼女の子孫に渡してほしい』と」


 蓮が、私の手を取った。


「花織」


「……はい」


「祖父と糸子さんは、結ばれることができなかった。でも、僕たちは違う」


 蓮の瞳が、真剣に私を見つめる。


「僕と——一緒に、新しい物語を紡いでくれませんか」


 涙が、頬を伝った。


「……はい」


 声が震える。でも、答えは決まっていた。


「はい。喜んで」


 蓮が、私の指に指輪をはめた。小さなダイヤモンドが、夕日を反射してきらめく。


「愛しています、花織」


「私も——愛しています」


 蓮が、そっと私を抱きしめた。


 風が吹いて、工房の窓が開く。中から、職人たちの笑い声が聞こえてきた。




         *




 ——あの日、裕也に「捨てなさい」と言われたエプロン。


 今は、私の宝物になっている。


 色褪せた木綿。野花と小鳥の刺繍。裏地に隠された、愛の言葉。


 六十年の時を超えて、祖母と一馬さんの想いは、私と蓮に受け継がれた。


『いつか、必ず——また、あなたのそばへ』


 祖母が刺繍に込めた願いは、形を変えて叶った。


 二人は再会できなかった。でも、私たちが出会った。私たちが、繋がった。


 そしてこれから——私たちが、二人の分まで幸せになる。


「おばあちゃん」


 私は心の中で呟いた。


「やっと分かったよ。このエプロンが、どうしてあなたの『一番大切な物語』だったのか」


 夕暮れの空を見上げる。オレンジ色の雲が、ゆっくりと流れていく。


「私も——私の『一番大切な物語』を、これから紡いでいくね」


 蓮の手が、私の手を握った。温かくて、優しい手。


「行きましょう」


「うん」


 二人で歩き出す。


 祖母のエプロンを胸に抱いて。


 糸が繋いだ、六十年越しの恋文を、心に刻んで。




 ——これは、捨てられた形見が紡いだ、愛と再生の物語。


「お前の手作りなんか要らない」と言った男は、全てを失った。


「守りたい」と言ってくれた人と、私は新しい未来を歩み始めた。


 祖母が遺してくれた、色褪せたエプロン。


 そこには、人生を変える秘密が隠されていた。


 でも本当に大切だったのは、遺産でも、秘密でもない。


 誰かを愛し、愛されること。


 その温もりを、次の世代に繋いでいくこと。


「おばあちゃん、ありがとう」


 私は、エプロンを抱きしめた。


 新しい物語が、今日から始まる。




【完】

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