第九話 噂
朝の町は、妙に落ち着かなかった。
騒ぎは終わった。
付喪神の気配は消え、昨夜のような不安はもうない。
それでも人々は、どこかそわそわしている。
理由は単純だった。
「……本当に、収まったんだな」
「陰陽師様が……いや、あの人がな」
名を出さずとも、話題は一つ。
玄十郎は、いつも通り宿の裏で道具を点検していた。
呪符の数を確かめ、擦り切れた術具を拭く。
特別なことは、何もしていない。
だが――
「陰陽師様!」
声をかけてきたのは、町の若い男だった。
手には、包みがある。
「これは……?」
「礼です。皆で少しずつ出し合って」
中身は、保存の利く干し肉と酒だった。
質素だが、精一杯のものだと分かる。
「受け取れない」
「……え?」
「仕事だ」
玄十郎は静かに言った。
「報酬は、もうもらっている」
男は困った顔をする。
「ですが……」
「その分、町を大事にしろ」
「……はい」
男は深く頭を下げ、去っていった。
そのやり取りを、少し離れた場所から神代恒一が見ていた。
彼はまだ町に残っている。
報告書をまとめるため――という建前だったが、理由はそれだけではなかった。
「……礼も取らないんですね」
「取ると、面倒が増える」
玄十郎は、顔も上げずに答えた。
「陰陽寮なら、功績として記録されます」
「記録は、数字にされる」
「それが、悪いとは……」
神代は言い切れなかった。
「悪くはない」
玄十郎は続ける。
「だが、数字は“広がらない”」
神代が首を傾げる。
「噂は、広がる」
玄十郎は言った。
「良くも悪くもな」
その言葉通りだった。
町の外れ。
古い道を抜けた先、森の奥。
小さな祠の前で、二つの影が向かい合っていた。
「聞いたか」
「聞いた」
どちらも、人ではない。
「百目を壊さなかったそうだ」
「本名も呼ばずに、収めたとか」
「……変わった陰陽師だな」
狐の影が、尻尾を揺らす。
「壊さない人間は、信用できる」
「だが、人間だ」
「だからこそ、だ」
噂は、酒の席よりも早く回る。
別の場所では、付喪神がひそひそと語り合っていた。
「あの陰陽師、話を聞いた」
「怒鳴らなかった」
「……名前を、奪われなかった」
それは、妖怪にとって致命的に重要な評価だった。
一方、人の世でも。
神代は陰陽寮宛の報告書を書きながら、筆を止めていた。
「……どう書くべきだ」
制圧ではない。
殲滅でもない。
だが、確実に“解決”している。
数値化できない成果。
理論に落とし込めない手法。
だが――嘘は書けない。
「……鷹宮玄十郎の判断により、事態は沈静化した」
その一文を書き、神代はしばらく動かなかった。
夜。
玄十郎は町外れの道を歩いていた。
そこへ、気配が現れる。
「……早いな」
「噂は、風より早い」
葛葉が、木陰から姿を現した。
「町は、もうお前のものじゃな」
「勘弁してくれ」
「謙遜でもないのが、腹立たしいのう」
葛葉は笑う。
「百目も、随分と落ち着いた」
「そうか」
「付喪神たちがな、言っておったぞ」
葛葉は、面白そうに告げる。
「『あの陰陽師は、名前を奪わない』とな」
「……余計なことを広めるな」
「無理じゃ。もう広まっておる」
葛葉は、真面目な顔になる。
「玄十郎」
「何だ」
「妖怪社会ではな、その評価は“致命的に強い”」
玄十郎は、歩みを止めた。
「酒呑童子の眷属が、動き始めておる」
「……そうか」
玄十郎は、深く息を吐く。
「面倒になってきたな」
「今さらじゃ」
月明かりの下、葛葉は楽しそうに笑った。
「お前はもう、“ただの追放者”ではない」
「なら何だ」
「――噂の中心じゃ」
玄十郎は、夜空を見上げた。
静かに仕事をしたつもりでも、
壊さずに残したものは、
必ず、波紋を生む。
それが良い噂である限り、
避ける理由は、なかった。
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