第七話 崩れる理論
夜明け前。
町は、奇妙な静けさに包まれていた。
音がないわけではない。だが、どこか張りつめている。
玄十郎は、宿の屋根に立ち、町全体を見下ろしていた。
「……動き出したな」
妖怪の気配が、昨夜より明らかに濃い。
抑え込まれていたものが、逆に刺激された――そんな増え方だった。
背後で、息を呑む気配。
「……こんなはずじゃ……」
神代恒一だった。
一晩中、結界の数値を再計算していたらしい。目の下には、濃い隈が浮かんでいる。
「理論上は、安定するはずなんです」
「理論は、嘘をつかない」
玄十郎は言った。
「だが、現実は理論に従わないことがある」
神代は唇を噛んだ。
「昨夜、結界を補強しました」
「見れば分かる」
「問題はありません。むしろ安全係数は――」
その言葉を遮るように、遠くで悲鳴が上がった。
「――ッ!」
二人は同時に駆け出した。
路地裏。
古い倉庫の前で、付喪神が暴れていた。
壊れた農具、欠けた桶、使われなくなった器具――それらが、怒りを帯びて宙を舞う。
「止まれ!」
神代が呪符を放つ。
光が走る。
一瞬、付喪神の動きが鈍る――が、次の瞬間、弾かれた。
「な……効かない?」
玄十郎は、付喪神の中心を見た。
「……原因は、あれだ」
倉庫の壁。
そこに、昨夜の結界補強の痕跡があった。
歪んだ流れが、付喪神の核に直接触れている。
「結界が、感情を煽っている」
「そんな馬鹿な……」
神代の声が震える。
「防御のつもりが、挑発になっている」
玄十郎は静かに言った。
「分からないのも無理はない。教科書には載らん」
付喪神が、金属音を響かせて突進してくる。
「下がれ」
「まだ、やれます!」
神代は前に出ようとする。
だが――
「下がれと言った」
玄十郎の声が、低くなった。
神代は、足を止めた。
判断が、遅れれば死ぬ場面だった。
玄十郎は、ゆっくりと歩み出る。
呪符を三枚。
地に置き、指で軽く弾く。
派手な術式は組まない。
ただ、流れを“ほどく”。
付喪神の動きが、徐々に鈍る。
怒りが、戸惑いに変わる。
「……なぜ……?」
神代は、呆然と呟いた。
「抑えるな」
玄十郎は言った。
「聞け。何が不満か、何が痛いか」
付喪神が、きし、と音を立てた。
そして、動きを止める。
町のあちこちで、同じような事態が起きていた。
結界の“補強点”が、次々に暴走を誘発している。
「……俺が、やった……」
神代の顔から、血の気が引く。
「全部、理論通りに――」
「理論通りだからだ」
玄十郎は、振り返らずに言った。
「安全策を重ねすぎた。結果、逃げ道を塞いだ」
「そんな……」
「人も、妖怪も同じだ」
遠くで、別の悲鳴が上がる。
玄十郎は、空を見上げた。
「……今夜は、長くなる」
そして、静かに告げた。
「神代。これはもう“制圧”じゃない」
「……では」
「後始末だ」
若手エリート陰陽師は、その背中を見つめることしかできなかった。
理論が崩れ、
正しさが裏目に出て、
現実だけが、そこに残った夜だった。




