第四話 狐が現れる
朝になって、町は少しだけざわついていた。
昨夜消えた子供たちが、全員無事に戻ってきたからだ。
泣きもせず、怯えもせず、まるで何事もなかったかのように家の前に立っていたという。
「夢でも見とったんかのう」
「いや、あの子……鏡と話したって……」
不安と安堵が入り混じった噂が、町を巡る。
玄十郎は、宿の縁側で茶をすすっていた。
源蔵が、落ち着かない様子で隣に座る。
「……あんた、昨夜何をした」
「仕事をな」
それ以上は答えない。
説明しても、分からないことの方が多い。
「町の者は、感謝しとる」
源蔵は頭を下げた。
「陰陽寮の若い衆より、よほど……」
「比べるな」
玄十郎は遮った。
「向こうは向こうのやり方がある」
源蔵は黙り込んだ。
その時だった。
「相変わらず、可愛げのない男じゃの」
聞き覚えのある声が、背後から響いた。
玄十郎は、ため息をつく。
振り返る前から、正体は分かっていた。
「……勝手に人の結界を踏み越えるな」
「踏み越えてはおらん。通っただけじゃ」
そこに立っていたのは、一人の女だった。
艶のある黒髪。
人の姿をしているが、どこか“人ではない”気配がある。
細められた瞳の奥に、黄金色の光が宿っていた。
「久しいのう、玄十郎」
「久しくない。お前とは、五年前に会った」
「五年など、誤差じゃ誤差」
女はくすりと笑った。
「葛葉じゃ。覚えておろう?」
「忘れるほど、付き合いは浅くない」
源蔵は、完全に置いていかれていた。
「……お、お知り合いで?」
「妖怪だ」
「失礼な言い方じゃな。儂は“老狐”じゃ」
葛葉は、玄十郎の向かいに腰を下ろす。
遠慮という言葉を知らない動きだった。
「それで?」
玄十郎は言った。
「何の用だ」
「昨夜の噂が、こちらにも届いてな」
葛葉は茶を勝手に取り、一口飲む。
「百目を“壊さずに”収めた陰陽師がいる、と」
「お前の耳は、相変わらず早い」
「妖怪社会は、噂が命じゃ」
葛葉は、ちらりと玄十郎を見る。
その視線は、どこか楽しげだった。
「追放されたそうじゃな」
「……もう広まっているのか」
「人の世の失態は、こちらの酒の肴になる」
玄十郎は、顔をしかめた。
「笑いに来たなら、帰れ」
「違う」
葛葉は即座に否定した。
「迎えに来た」
源蔵が息を呑む。
「迎え、ですか」
「そうじゃ。人の世に見捨てられた陰陽師を、妖怪の側で使ってやろうと思ってな」
玄十郎は、鼻で笑った。
「雇われる気はない」
「知っておる」
葛葉は、肩をすくめる。
「だから“契約”ではない」
その言葉に、玄十郎の視線がわずかに動いた。
「……貸し、か」
「察しがいいのう」
葛葉は、少しだけ真面目な顔になる。
「玄十郎。今の妖怪社会は、不安定じゃ」
「人の世の術式のせいか」
「分かっておるなら話が早い」
結界、殲滅、強制封印。
それらは妖怪を消すのではなく、歪ませる。
「儂らはな、人と争いたいわけではない」
葛葉は静かに言った。
「だが、理不尽に消されるのは御免じゃ」
玄十郎は、しばらく黙っていた。
「……俺に、何をしろと言う」
「難しいことは言わん」
葛葉は、にやりと笑う。
「人と妖怪の間に立て」
「面倒だな」
「今さらじゃろ」
玄十郎は、深く息を吐いた。
「俺は、戻らないぞ」
「分かっておる」
葛葉は立ち上がり、背を向ける。
「戻れとも言わん。ただ――」
振り返り、黄金の瞳で見据えた。
「こちらでは、お前のやり方が“正しい”」
その言葉は、奇妙なほど重かった。
「考えておけ」
葛葉はそう言い残し、気配ごと消える。
縁側には、静けさが戻った。
「……とんでもない方と、お知り合いですな」
源蔵が、震える声で言う。
「ああ」
玄十郎は立ち上がる。
「昔、少し借りを作っただけだ」
その“少し”が、どれほど重いものか。
玄十郎自身が、一番よく知っていた。
人の世から追い出された陰陽師は、
妖怪の世から――必要とされ始めていた。




