第三十三話 線を引いたのは誰だ
朝霧澪は、画面を閉じられなかった。
報告書は簡潔だった。
『男性一名、過労による意識障害』
『妖怪反応値:正常』
『関連性:不明』
そして、内部メモ。
『同地区、過去に複数の軽微相談あり』
『すべて基準未満のため管理対象外』
その分類を作ったのは、自分だった。
線を引いた。
混乱を防ぐために。
制度を守るために。
現場を回すために。
正しい判断だった。
――そのはずだった。
「……間に合わなかった」
小さく、口に出す。
誰の言葉でもない。
自分のものだ。
端末を操作し、
【非公式対応案件】の一覧を開く。
整然と並ぶ項目。
優先順位。
影響度。
再発率。
その中に、
駅前雑居ビルの小さな記録があった。
『職場ストレス相談』
『睡眠障害訴え』
『反応値正常』
『経過観察』
経過観察。
朝霧の指が止まる。
あの夜。
玄十郎が向かった二件目。
彼は言わなかった。
だが、分かる。
あれは――
自分が後回しにした場所だ。
「私は……」
画面を見つめたまま、呟く。
「切った」
線の内側と、外側。
管理できるものと、できないもの。
合理的で、正しい区分。
だが、
線を引いた瞬間に、
線の外は“誰の責任でもない場所”になる。
それを、
鷹宮玄十郎が拾っていた。
自分たちは、
拾っていることを知りながら、
前提にしていた。
「……違う」
否定しかけて、止まる。
違わない。
彼が拾うから、
自分たちは安心して線を引けた。
それが事実だ。
---
廊下で、神代恒一に会った。
彼は、朝霧の顔を見て、
何も言わずに察した。
「……知ったんですね」
「ええ」
声が、少しだけ震えている。
「間に合わなかった」
「……はい」
神代は、短く答えた。
「制度の判断は、間違っていません」
「分かっています」
朝霧は、即座に返す。
「でも」
「でも、救えなかった」
神代は、視線を落とす。
「鷹宮さんでも、無理だった」
「それは、分かっています」
朝霧は、顔を上げる。
「でも私は」
「私は、あの場所を“軽い”と判断した」
神代は、何も言わない。
「私が線を引いた」
「線の外は、誰も責任を持たない」
廊下の窓から、朝日が差し込む。
世界は、いつも通り動いている。
「正しさは」
朝霧は、ゆっくり言う。
「間違っていない」
「はい」
「でも、足りない」
神代は、ようやく顔を上げた。
「どうしますか」
「……作ります」
「何を」
「線の外の、入口を」
朝霧の声は、もう震えていなかった。
「制度の中に全部入れるのは無理です」
「でも」
「“落ちていい場所”を作ることはできる」
神代は、静かに息を吐く。
「責任が発生します」
「はい」
「批判も出ます」
「分かっています」
朝霧は、はっきりと言った。
「それでも」
「誰かが引き受けないと」
「また、間に合わない」
神代は、小さく頷いた。
「手伝います」
「……ありがとうございます」
朝霧は、端末を閉じる。
線を引いたのは自分だ。
ならば、
線の外に落ちたものの行き先を、
作るのも自分だ。
正しさを、否定しない。
だが、
正しさの余白を、
放置しない。
朝霧澪は、
初めて自分の責任を、
“制度の中”に置く決意をした。
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