第三十二話 間に合わなかった
その夜は、嫌な予感が最初からあった。
呼び出しが二件、重なっている。
どちらも基準未満。
どちらも公式対応の対象外。
玄十郎は、迷わず先に住宅地へ向かった。
家族三人。
父親の苛立ちと、母親の沈黙。
子どもの寝不足。
妖怪ではない。
だが、流れが詰まっている。
「少し通す」
呪符を一枚、床に落とす。
澱んだ空気が、ゆるくほどける。
「……息がしやすい」
母親が、かすれた声で言った。
玄十郎は頷く。
これで今夜は持つ。
だが、もう一件がある。
「急げ」
葛葉が、先に飛ぶ。
---
向かったのは、駅前の雑居ビル。
小さな事務所。
深夜まで灯りが消えない場所。
階段を上がる途中で、空気が変わる。
「……遅い」
玄十郎は、歯を食いしばる。
扉の前に、数人が集まっていた。
「中で、誰かが……」
「返事がないんです」
玄十郎は、扉に触れる。
内側から、重たい澱が滲み出ている。
「下がれ」
呪符を弾き、鍵を外す。
扉が開く。
室内は、静まり返っていた。
机の前。
一人の男が、床に崩れている。
まだ息はある。
だが、意識は浅い。
「……遅かったか」
玄十郎は、膝をつく。
空気は、真っ黒ではない。
だが、絡み合いすぎて解けない。
怒り、焦り、疲労、後悔。
逃げ場を失った感情が、幾重にも巻きついている。
玄十郎は、短い詠唱を唱える。
澱を通す。
いつものように、流れを作る。
だが――
絡まりは、ほどけない。
「……無理だ」
葛葉が、低く言う。
「流す前に、折れておる」
玄十郎は、男の肩に手を置いた。
「聞こえるか」
返事はない。
流れは作れる。
空気は軽くできる。
だが、
決断を変えることはできない。
玄十郎は、ゆっくりと呪符を下ろした。
「救えないのか」
葛葉が問う。
「……救えない」
玄十郎は、はっきり言った。
「俺は、詰まりを通すだけだ」
「壊れた心は、直せない」
救急車の音が近づく。
玄十郎は、立ち上がった。
来るのが遅かったわけではない。
判断が間違っていたわけでもない。
ただ――
間に合わなかった。
---
外に出ると、夜風が冷たい。
遠くで、電車の音がする。
世界は、止まらない。
「……全部は拾えんのう」
葛葉が言う。
「分かっている」
玄十郎は、目を閉じた。
これまでも、限界は知っていた。
だが、それは理屈だった。
今夜は違う。
手を伸ばしても、届かない場所があると、
身体で理解した。
「俺が拾えば、間に合うと思っていた」
小さく、呟く。
「……思っておったのか」
「思っていなかった、つもりだ」
だが、どこかで信じていた。
自分が動けば、
壊れる前に止められると。
玄十郎は、空を見上げる。
星は、変わらず瞬いている。
「間に合わないものがある」
それを認めるのは、
思っていたより重い。
「どうする」
葛葉が問う。
「……拾う」
即答ではなかった。
「だが」
玄十郎は、続ける。
「全部は拾わない」
初めて、言葉にした。
後始末係であることと、
世界の穴埋めになることは違う。
拾えなかったものの重さが、
その違いを教えた。
夜は、まだ終わらない。
だが、
玄十郎の中で、
何かが確かに変わり始めていた。
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