第十三話 宿題を残す
朝霧が、古戦場を包んでいた。
夜明けと共に冷えた空気が流れ込み、土の匂いが立ち上る。
怨嗟は消えていない。だが、暴れる気配もない。
「……静かですね」
神代恒一は、霧の向こうを見渡しながら言った。
昨夜の重苦しさが、嘘のようだった。
「嵐の後だからな」
玄十郎は答える。
「何も起きない時間が、一番怖い」
二人の前に、鬼の名代が現れた。
昨夜よりも、表情が硬い。
「……酒呑様がお呼びだ」
短い言葉だった。
霧が、ゆっくりと割れる。
その奥に、酒呑童子が立っていた。
昨日と同じ姿。
だが、空気の重みは明らかに違う。
“見ている”――その圧だった。
「一夜で終わらせなかったか」
酒呑童子の声が、低く響く。
「終わらせられなかった」
玄十郎は即答した。
「終わらせるべきではなかった」
鬼の名代が、息を呑む。
人間が、鬼の長に対してここまで言い切るのは異例だった。
酒呑童子は、しばらく玄十郎を見つめていた。
やがて、低く笑う。
「よい」
その一言で、場の空気が変わる。
「力で抑え、忘れさせることもできた」
「だが、お前はそれをしなかった」
「……はい」
「鬼の流儀では、逃げなかった者を責めぬ」
酒呑童子は、戦場に視線を向ける。
「ここに残った怒りは、我らのものだ」
「鬼の里で、向き合う」
「……それでいい」
玄十郎は、静かに頷いた。
「人の怒りは、人の世へ返した」
「土地の歪みは、ここに残した」
「全てを抱え込まなかったな」
酒呑童子の声に、わずかな感心が混じる。
「人の身で、そこまで割り切れるとは思わなかった」
「割り切ったわけじゃない」
「ほう?」
「背負える分だけ、背負った」
玄十郎は言った。
「それ以上は、壊れる」
酒呑童子は、はっきりと笑った。
「よく言った」
その笑みは、豪胆な鬼のものだった。
「人間よ」
「はい」
「我は、お前を信用する」
神代は、思わず息を呑んだ。
鬼の長が、人間に向けて使う言葉ではない。
「だが、勘違いするな」
酒呑童子は続ける。
「これは“解決”ではない」
「分かっています」
「宿題だ」
酒呑童子は、そう言い切った。
「鬼の里が、これからどう向き合うか」
「それを、人に任せはしない」
玄十郎は、深く一礼した。
頭を下げたのは、この場で初めてだった。
「……任せます」
酒呑童子は、満足そうに頷いた。
「今後、鬼の里はお前を敵と見なさぬ」
「困った時は、名を出せ」
「それだけで、話は通る」
それは、妖怪社会において破格の評価だった。
次の瞬間、霧が濃くなる。
酒呑童子の姿が、溶けるように消えていった。
静寂が戻る。
「……終わったんですね」
神代が、静かに言った。
「一区切りだ」
玄十郎は答える。
「終わったと思った瞬間に、歪みは生まれる」
神代は、その言葉を噛み締める。
「俺は……」
言いかけて、言葉を止めた。
「今は、考えなくていい」
玄十郎は言った。
「答えは、急ぐものじゃない」
二人は、古戦場を後にする。
振り返れば、霧の向こうに、
まだ黒い土が残っている。
だが、それでいい。
全てを消さなかったからこそ、
ここは“生きている”。
そして玄十郎は、
鬼の長に認められながらも、
何も終わっていないことを、よく分かっていた。
宿題は、残されたままだった。




