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1000年後の君へ

『おはようございます、マスター』


 意識が浮上する。まぶたの裏に光を感じて、ゆっくりと目を開けた。


 視界いっぱいに広がる白。天井も壁も床も、すべてが均一な白に包まれている。継ぎ目も影も存在しない、まるで空間そのものが発光しているかのような部屋だった。


『貴方はこれからダンジョンマスターとして地上の文明を発展させなければなりません』


 声が聞こえる。いや、聞こえるというより、直接頭の中に響いてくる感覚だ。性別も年齢も判別できない、どこか機械的でありながら温かみのある声。


 だが、その言葉の意味を理解する前に、俺は別の問題に気づいた。


 記憶がない。


 自分の名前は? どこから来たのか? なぜここにいるのか? 何もかもが霧の中だ。必死に思い出そうとするが、まるで掴もうとした瞬間に消える夢のように、確かなものは何一つ残らない。


『1000年後に訪れる破滅の未来を回避するべく頑張りましょう、マスター』


 破滅? 1000年後? 情報が多すぎて頭がついていかない。


 俺は何度か瞬きをして、ゆっくりと起き上がった。体は不思議なほど軽く、疲労感も違和感もない。まるで生まれたての体のようだ。


「……状況が、全く理解できないんだが」


 声を出してみる。自分の声だ、たぶん。少なくとも違和感はない。


『申し訳ございません。少々説明が早すぎましたね』


 声の主は謝罪すると、少し間を置いてから続けた。


『改めて説明させていただきます。私はサポートAI「コア」。あなたをサポートするために存在しています』


 ダンジョンマスター。文明の発展。破滅の未来。侵略者。


 コアの説明は淡々と、しかし丁寧に続いた。どうやら俺はダンジョンを経営することになるらしい。1000年後に訪れる侵略者を撃退するために、地上の文明を発展させる。それがこれから俺に課せられた使命だという。


『ダンジョンの目標とルールをお教えします』


 コアは説明を続ける。侵略者の侵攻が始まればダンジョンの機能、アイテムはすべて消滅すること。地上の文明レベルと乖離するほど、ダンジョンで何かを実現するコストが跳ね上がること。エネルギーには限りがあり、モンスターの発生という問題も抱えていること。


 そして、最も重要な制限。


『ダンジョンには一つ、絶対的な制限があります。それは人々との意思疎通は不可能です。これはダンジョンの構造上、どうしても回避できない制約なのです』


「……つまり、俺は誰とも話せないってことか?」


『はい。観察することはできますが、直接語りかけることはできません』


 なんとも孤独な仕事だ。だが不思議と、絶望感はなかった。むしろ頭の片隅で、何かが疼くような感覚がある。これは、挑戦だ。巨大なパズルを解くような、そんな知的興奮が湧き上がってくる。


『説明は以上です。何か質問はありますか?』


 混乱はまだ残っている。だが、とりあえず目の前のことから理解していくしかない。


「え〜っと、そうだな。いきなりの事であまり飲み込めていないんだけど、まずここはどこなんだ?」


『ここはマスタールームです。ダンジョンや地上とは空間的な連続性を持たない、独立した次元に存在しています。マスター以外は誰も入ることができません』


 なるほど、完全な隔離空間というわけか。


「へぇ〜、じゃあひとまず安全は確保されてるわけか」


 少し安心して、次の現実的な問題を口にする。


「あと水と食料と寝床はどうしたらいい?」


『マスターに食事と睡眠は不要です』


「え?」


『この空間では、マスターの身体は特殊な状態に置かれています。栄養摂取も休息も必要ありません。もしどうしても食事を望まれるなら、瘴気を使って食べ物を出すことは可能です。その場合でも排泄は発生しません』


 人間としての基本的欲求すら不要だと言われて、一瞬戸惑う。だが、考えてみればこれは便利かもしれない。


「へぇ……じゃあ、寝たいときは?」


『時間経過を早めたい場合、年単位で眠ることも可能です。緊急時には私が起こしますので、気兼ねなくお休みください』


 つまり、衣食住の問題はすべて解決済みというわけだ。なんとも不思議な環境だが、悪い気はしない。


「なるほどな。じゃあ俺はこれから何をしたらいい?」


『そうですね、まずはダンジョンの構想を練るのがよろしいかと。何ができて何ができないのかを確認し、どのように文明を進めていくか、一緒に考えていきましょう』


 記憶はない。自分が誰なのかも分からない。だが、このシミュレーションゲームのような状況に、どこか懐かしさを覚える。


 きっと、こういうのが好きだったんだろう。昔の自分は。


「よしわかった」


 俺は拳を握りしめた。


「こういうシミュレーションは得意だった気がするし、いっちょやってやりますか!」


 白い部屋に、初めて笑い声が響いた。


 長い長い戦いの、始まりだった。

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