13.本腰入れて、後始末
よく晴れた土曜日。
柳さんの喫茶店にて、時刻は14時になろうとしていた。
「最近うちのクラスに登校してない生徒がひとりいますよね」
カウンターで、わたしのふたつ先の席には吉澤先生が座っていた。アルバイトの昼休みを利用して、柳さんに呼んでもらったのだ。
「彼女についてですが、学校に来なくなった原因の一端は、わたしにあります」
しかし話の途中で柳さんが出してくれたスープパスタに注意を持って行かれそうだった。
昼ご飯がまだなのでお腹が非常に空いている。熱々の湯気が消える前に、さっさと用事を終えて食事にありつきたい。
吉澤先生はビールを片手にこちらを睨んでくる。
わたしたちの様子を柳さんは厨房から面白そうに静観していた。
「それで、お前は何をやらかした」
「わたしが彼女に何かしたわけじゃありません。向こうがわたしにちょっかいをかけてきて、勝手に自滅しただけです。あちらさんからは、また違った見解が出てくるかもしれませんが」
彼女は今でも自分は被害者なのだと思っていることだろう。
加害者と被害者。
一連の出来事について責任の所在をはっきりさせる必要があるなら受けて立つ。——あくまでも、白黒つけないといけない事態に発展した場合に限るけど。
「具体的にお前は何をされて、そいつはどうなったんだ」
「現状では、わたしの口からそれを言うつもりはありません。知りたければ彼女に直接訊いてください」
彼女がわたしを加害者として糾弾しようものなら話は変わってくるけれど、早急な解決を目指すにあたって過去のあれこれはこの際どうでもいい。
わたしが最優先させるべきは、さっさと平穏な学校生活を取り戻すことにある。
だからわたしが先生に伝えるのは、これからのことだ。
「もしも、先生が学校に来ていない彼女に会う機会があるなら、わたしの思いを伝えてもらえませんか」
「……一応、聞いておいてやる」
そんなに警戒しなくても「死ぬまで恨んでやる」とか「夜道は後ろに気をつけて」みたいな脅しをかける内容じゃないって。
「——これ以上あなたが何もしないなら、わたしはあなたにされたことをこの先、蒸し返したりはしない。提案だけど、関係を友達以下のただのクラスメイトに戻して、お互い平和に過ごさないか、というのがひとつ」
そして、ここからが本題。
「わたしはもう忠告とか、回りくどいことはしない。あなたが誰にどんな命令を受けようが、これから先はわたしの自由にさせてもらう。以上です。気が向いたらよろしくお願いします」
ごちそうを前にして「待て」の状態にも我慢の限界が来たので「いただきます」と言ってフォークにパスタを絡ませ口に運んだ。
アサリの風味に唐辛子がぴりっときいたあっさりスープがたまらなく美味しい。
「その女子生徒はお前のその言葉で復活できそうなやつなのか?」
柳さんが落花生の入った小皿を吉澤先生の前に置く。
出されたつまみの殻をむきながら、先生は難しい顔で「どうだかな」とこぼした。
「高瀬、お前はそいつが学校に来ないと都合が悪いのか?」
柳さんに訊かれて考える前に否定する。
「まさか。彼女がどうなろうが、わたしの知ったことじゃありません。ただこの先、彼女に不登校の原因を押しつけられたら面倒なので、先手を打って逃げ道を塞ごうとしているだけです」
学校に来られない原因は高瀬結衣にある。
わたしがいるから学校に来にくいなどと言わせるつもりはない。そのための譲歩と、無害の主張だ。
「まあ彼女の場合、問題はわたしを含めたクラスのコミュニティだけじゃないようですし。そっちの人間関係までは知ったこっちゃありません」
「どこの集まりだ?」
「部活動です。なんでも怖い先輩に逆らえないとか」
隣から大きな舌打ちが聞こえた。
いろいろ察してくれて助かります。
告げ口はこれぐらいにして、本格的に昼食のパスタを胃袋に納めていく。
昼休憩の終了時間は正確に決まってないけれど、できるだけ早くカプリスに戻らないと。
学校に来ない彼女について、わたしがしてやれることはひとつもない。
わたしはやりたいようにやるのだから、あちらも好きにすればいいよ。
「さすがに、受け持ったクラスで生徒を1年間に2人も転校させるのは担任としてまずいのかと思って気を遣った次第です。あとは先生のお好きにどうぞ」
下心のある、わたしのための気遣いだけどね。
「がんばれヨッシー。腕の見せどころだな」
「……てめえら」
恨みのこもった先生の声は無視して、パスタに舌鼓を打つ。
もうすぐ完食するというところで、柳さんがカウンターの端に茶色い紙袋を置いた。
それなりの重量があるのか、中の塊がごろっと動く音は低くて鈍い。
「向こうに戻るとき、それも持って行ってくれ。静さんに渡してくれたらわかるようにしておく」
「了解です」
少し腰を上げて袋の中を見れば、渋い黄緑色の梨がいくつか見えた。秋の果物だ。
「あと、こっちはマヤちゃんのな。できるだけ早めに渡してやってくれ」
今度は先ほどよりも小さな紙袋を柳さんはカウンターに置いた。
「どうしてマヤが指名されるんですか?」
当然のように言ってきたが、これはちょっとおかしくないか。
「そりゃあお前、いつもうちの高瀬が世話になってるからだろ」
「うちのって、いつわたしが柳家の一員になったんですか」
「毎回苦労かけている分、保護者の俺があの子にご褒美を上げても問題ないはずだよなあ」
「ちょっと待って、誰が誰の保護者だって言ってるんですかあなたは」
これは聞き捨てならない。
「なーに。ただの功労賞だ。自分のぶんがないからってそんなにいじけんなよ。お前は店で梨タルトの味見ができるからな」
「静さんの作るタルトはすごく楽しみです。でも今はお願いですからわたしの話を聞いてください」
なぜだ。
さっきまでいじられていたのは吉澤先生だったのに、どうしてわたしまで柳さんにからかわれてるんだ。
「おい高瀬」
ビールを飲み干した先生が話に割り込む。なし崩しに柳さんのおもちゃになるのを免れて、少しだけほっとした。
「お前、今回の件でまだ俺に言ってないことがあるんじゃないか」
そりゃあありますよ。むしろ伝えた情報は全体からしたらほんの一部分にすぎない。
「先生に言っておくべきだと思ったところは、包み隠さず話しましたよ」
クラス内での出来事については、この先も先生に丸投げするつもりだ。担任が頼りがいのある人でよかった。
「……先週、見ず知らずの上級生に呼び出されて水浸しにされたそうだな。生徒指導から報告がきてんぞ」
「そういやそんなこともありましたね。ほんと、いったいどこの誰だったんでしょうねあの人たちは」
「…………うちのクラスの休んでいる奴とは、無関係でいいんだな?」
「それでいいです。そんなに警戒しなくても、先生に迷惑はかけませんよ」
クラスの外のことで吉澤先生は頼らない。
あとはわたしがケリをつける。
◇ ◇ ◇
週明けの気だるい月曜日。
野田は昼休みの終了5分前を知らせるチャイムを聞いて、緩慢な動きで次の授業の準備にとりかかった。
ぼんやりと壁に設置された時計を眺めながらあくびをかみ殺す。次の授業は、果たして最後まで起きていられるだろうか。
「——みいつけた」
睡魔と格闘中、その一言が野田の耳に届いた。
かん高くない、耳通りの良い音質の女の声。
感情のこもらない、無機質ともいえる単調な声音が記憶に引っかかり、押し寄せていた眠気が一瞬で吹っ飛ぶ。
野田は声がしたほうへと顔を向けた。
ちょっと待て、いつ教室に入ってきたんだ。
そもそも、なぜ君がここにいる?
気づいた時には、野田から見て通路を挟んだ隣の席にいるクラスメイトの机の前に、高瀬結衣が立っていた。
「探しましたよ。顔を頼りしてしらみつぶしに2年の教室を当たっていくのも、案外楽ではありませんね」
結衣の声ははっきりと野田まで届いた。
おそらく結衣はわざと声を張って、周囲に話を聞かせている。
椅子に座りぽかんと結衣を見上げていた隣の席の女子は、数秒置いて我に返りこれ見よがしに舌打ちした。
「……んだよ、1年が何の用だよ」
精一杯の悪態。
「邪魔なんだけど。さっさとどけよ! うぜーんだよお前!!」
クラスメイトの女子が口調を荒げるにつれ、教室中の視線が結衣に集中する。
わめき散らす女を見下ろす結衣の薄く笑んだ横顔を見て、野田は隣を直視するのをやめた。
結衣が何をしに来たのかは気になる。しかしこれは絶対に関わってはいけない事案だ。
いくら目の前の相手が激怒しようが、結衣はうろたえるそぶりを見せず、じっと獲物を観察する。
「は? きっしょ」
動かない結衣に言い捨てた女子が席を立とうとした瞬間——机が女子めがけて勢いよく動いた。
結衣が机の脚をコの字型に固定している、床と並行になった足元の鉄棒を蹴ったせいだ。
女子は椅子と机に挟まれて立ち上がれない。
「逃げるな」
鉄棒に足をかけたまま、結衣は真顔で言い放った。
教室が静まり返る。
野田はあらぬ方を向いて冷や汗を流した。
くっそ怖えよ。年上には敬語を使うと宣言している子の、臨戦体制のため口は破壊力が半端ない。
ここの主導権は、見事な手際で結衣が掌握した。
生意気な後輩だと彼女を排斥しようとする生徒はひとりもいない。結衣の作る空気が、それを許さなかった。
あれだ。道端で奇行に及ぶ人間を遠巻きに眺めているのに近い感覚だ。
彼女が何をするのか気になるけれど、関係者には絶対なりたくない。クラスメイトたちの心情は、そんなところだろう。
かくいう野田も皆と同じで、結衣のやらかすことを止めるつもりはない。
——もう君は、皇龍に関わらないなら好きにすればいいよ。
隣の女子が焦りながらちらちらと野田のほうに視線を送ってきたところで、気づかぬふりを貫く。
こっちだって我が身が可愛い。
どいつもこいつも俺に助けを求めてくるな。
結衣は注目を意に介さず、手に持っていた紙切れをそっと机に置いた。
「これ、先週あなたに水浸しにされたことによって、わたしが払わなきゃいけなくなった、制服のクリーニングの金額です」
教室いざわめきが起こる。
あー、うん。いろいろ掴めたわ。
先日の放課後に起こった騒動については、野田も大筋を大原から聞いていた。
それにしても命知らずの馬鹿はこいつだったのか。
「は? ……知らないよ、そんなの」
女子は動揺を隠し切れていない。
「これをあなたがわたしに支払うということで、今回の件は手打ちにしませんか? お互い、これまでのことは水に流して、顔見知り以下の他人に戻る。というのはどうでしょう」
「だから、知らないって!」
かん高い声が耳に刺さる。近くの席の者が顔をしかめるも、女子の一番近くにいる結衣は眉ひとつ動かさない。
そして獲物が口を閉じたタイミングを見計らい、ゆっくりと口の端を吊り上げた。
「では、戦争継続ということで」
否定されようがお構いなし。
話が噛み合っていないことなど、おそらく結衣は承知のうえだろう。
「今までは黙って見逃していましたけど、これからはわたしも反撃していきます。どうぞ、あなたもこれまでどおり、ご自慢の手駒でお好きに仕掛けてきてください。わたしも、自分の持てるすべを使って、あなたを排除しにかかります」
結衣は人差し指で女の額を指し示す。
「最後にどちらがこの学校に残っていられるか、今からとても楽しみです」
とびっきりの笑顔で、手を銃に見立てて獲物を撃った。
「バン」
いたずらっ子のように舌を出しておどけたしぐさは可愛げがある。しかし言っていることは笑えない。
「……ふざけんなよ」
「まったくふざけてはいませんよ。最初に喧嘩をしかけてきたのはあなたです。わたしはそれを買ったまで。返品はしません。買い戻しの方法はひとつだけで、他の手段は一切認めませんのであしからず」
机の上に置かれた紙を示された女子が、顔を上げて結衣を睨む。
「ふざけんなっつってんだろ! もとはといえばテメエがわたしの後輩をいじめたからこんなことになってんだろうが!」
その絶叫に、結衣は笑みの種類を嘲笑に変えた。
「あーあ、認めちゃいましたね。最後までわたしなんて知らないとしらを切りとおしておけば、おかしな女の勘違いってことで、クラスの同情票を集められたのに」
結衣は目の前の女と話しているが、彼女言葉は教室にいる生徒全員に向けられていた。
「あなたとわたしは、赤の他人じゃありませんよね?」
口に出して、言い聞かせることにより、その事実を周囲に認識させる。
これでもう、結衣の人違いだったという、女子にとって最も被害が少ない終わり方はできなくなった。
無理もないかと、野田は横で話を聞きながらひとり納得していた。
自身の武器を誰よりも理解している彼女に、口で立ち向かおうとする勇気は認める。しかし賢い選択ではない。
「わたしは今、あなたに対して、あなたとわたしの関わりについて話しているんです。わたしがいじめたとおっしゃる後輩とやらとわたしの問題は、すでに別件として処理されてますので、それはあなたに関係ない。どんな理由があろうとあなたが仲間を集めてわたしを取り囲んで、羽交い締めにして、ホース使ってわたしを水浸しにした事実は変わりません。散々な目に遭ったおかげで決心がつきました。もう面倒だからって放置はしません。あなたはわたしの敵です」
断言しちゃったよ。ああ、この子は本気なんだなと謎の感動を覚えながら、野田はその女子に感心する。
事なかれ主義で感情の沸点が呆れるほど高い子に、よくここまで言わせたものだ。
結衣と対峙している女子は、クラスの中でも目立つ立ち位置にいた。まとめ役と言えば聞こえはいいが、常に上から目線で、人は自分に従って当然と思い込んでいる節があった。
そんな気質の人間が1年の女子に会話の主導権を握られるのは、さぞかし屈辱だろう。
女子は怒りと虚勢を顔に貼り付けているが、それ以上に羞恥と怯えが上回るようで、表情が歪んでいた。
5限目の始まりを告げるチャイムが鳴った。結衣は教室を出ていこうとしない。
「なんで……わたしだけじゃない、でしょ。なんで、他にもいたのに……わたしのところに来るのよ」
結衣に気押された彼女がボソボソと呟く。
責任を分散させたかったらしいが、この期に及んでその言い分は自分の首を絞めかねない。
「そうですね。そっちはあなたを潰したあとで、ひとりずつ狩っていくとしましょう。ご提案いただきありがとうございます。今後の楽しみが増えました」
ひゅっと、女が息を飲む。
結衣の弾んだ口調は、加虐趣味を疑いかねないほど楽しそうに聞こえた。
実際に、高瀬結衣の異常な行動におののくクラスメイトが大半を占める状態だ。
そんな中でも、近くにいた野田は結衣の笑みを作る唇の端が、時間を追うごとに微妙に下がってきているのを見逃さなかった。
笑顔の維持をがんばっているようだが、実のところ、まったく楽しくなさそうだ。
無表情がデフォルトの結衣が長時間微笑み続けて、表情筋が疲れてきているらしい。
そうこうしているうちに、5限目の教科を受け持つ教師が来た。
教室の異常な静けさにたじろぎながらも、壮年の男性教師は黒板の前に立つ。
「時間切れのようですね。では、お互い悔いの残らないよう、陰湿にがんばりましょう。そういや部活の大会が近いようですが、出場できるといいですね」
結衣が女の机を離れる。そのまま出ていくのかと思いきや、彼女の足は教室の奥へと向けられた。
窓に近い席に座る女子生徒に結衣がそっと耳打ちをする。
女子生徒はうつむいたまま、結衣と目を合わせようともしなかった。
教室の空気をすがすがしいまでにかき乱してくれた後輩の女の子は、最後に「お邪魔しました」と全体に告げて颯爽と立ち去っていく。
直後に開始された5限の授業が締まらないものになったのは、言うまでもない。
*
「野田! あんた、なんでさっきアイツのこと追い出さなかったのよ!」
「いやいや、俺は無関係だろ」
5限が終了してすぐ、野田は隣の女子に詰め寄られた。
もうね、知らねえよとしか。
「無関係って、あんた皇龍でしょ!?」
「俺が皇龍だからどうした。むしろ、皇龍に籍を置いているから、高瀬結衣とは関わりたくないんだよ」
皇龍では高瀬結衣に手を出すな。へたに刺激するなと再三にわたって通達されてきた。夏休みの騒動もあり、結衣に対しては一般の生徒よりも皇龍メンバーのほうが敏感だ。
「なにそれ。ひとりの1年に大げさすぎじゃないの」
馬鹿にしたような乾いた笑いが癇に障る。
大げさなわけあるか。
「自分の目の前で、1年なんかに好き勝手されて、あんたはそれでいいの? 生意気な奴を調子に乗らせたままで、あんたは本当にいいのかよ!」
必死だな。
ここで結衣を悪者にして共感を得ておかなければ、今後のクラス内での立場が危うくなるのをこいつは自覚している。なりふり構っていられないのだろう。
だからといって同意を求められてもうなずけるわけがない。
「高瀬結衣が気に食わない、自分でどうにかしたらどうだ。お前の行動を止めはしないが、そこに俺を巻き込むな」
「つーか、単体でもアレだってのに、バックにモノトーンがいて、しかも柳虎晴さんの息がかかっているような人間によく喧嘩ふっかけたな。お前、ある意味すげーよ」
会話に割り込んできたのは、野田と同じく皇龍に所属している男子生徒だ。そいつが女子に向ける視線には、明らかな蔑みがみられた。
「な……何よ、モノトーンって」
「関わるとろくなことにならない集団の名前だ。皇龍としても、基本この街とは関係のないところにいる奴らだから、積極的に接触しようとは考えていない」
モノトーン……と、女の唇が動く。
興奮して赤くなっていた頬から血の気が引いていくあたり、どうやらモノトーンについて思い当たる節があるらしい。
「……なんでよ、あんな地味で大人しそうな奴に、どうしてそんなすごいのが味方してるのよ」
いやいやいやいや。お前さっき、あの子の異質さを間近で体験したばかりだろうが。
目立つ容姿をしていなくても、普段は存在感がからっきしだったとしても、それは彼女の異常性を否定する理由にはならない。
「馬鹿が。柳虎晴さんが目にかけている女が、なんのとりえもない普通な奴のはずがないだろう」
女子を挟んだ向こう側の席で、三國がぼんやりと呟く。
自分の分の悪さを自覚した女子は、今になって弱々しくうろたえだした。
遅せえよ。とは野田をはじめ、少しでも高瀬結衣と関わりを持ったことのある誰もが思ったことだろう。
しかしこのままでは泥沼にはまってまたクラスが巻き添えを食らいそうなので、助言をひとつ。
「幸い、高瀬結衣は諍いの終わり方を示してくれているだろ。俺の経験上、あの子は自分の言ったことはきっちり守り通すはずだ」
だからとっとと結衣の要求を呑んで収束させてしまえ。そしてもうニ度と俺とクラスを巻き込むなと暗に伝えてみる。
「……でも、相手1年だし、下の奴の言うとおりにしろっての?」
その無駄な1年推しはどうにかならないか。
「いがみ合いに学年は関係ないだろ。上下関係に固執した意味不明なプライドは早いうちに捨てておかないと、高瀬結衣相手だと悲惨な目にあうぞ」
忠告はしたからな。もう俺は知らん。
「……ねえ、お金で全部解決するなら、払っちゃおうよ。なんならわたしがお金出すからさあ」
女のところに別のクラスメイトがやってきて、情けない声音でそう告げた。
結衣が教室を出る直前に耳打ちをしていた女子だ。
彼女たちの共通点を考えて、野田はいろいろと理解する。こいつら、確か同じ運動部に所属していたな。
「あいつ、わたしのところに来て言ったんだよ。『あれの次はお前だ』——って。……なんなのこれ。なんでこんなことになってるのよ!」
そりゃあお前らが触れちゃいけないものに手を出してしまったからだろ。
植えつけられた恐怖がひとりでに成長し、周りを巻き込んでさらに増殖していく。まるで呪いだ。
ホラー映画の一場面が目の前で繰り広げられているみたいだ。
あれはスクリーンの中だからこそ臨場感が出るのであって、現実に起こっても滑稽でしかない。
顔面蒼白で絶望するふたりを横目に、野田は我関せずと6限目の授業の準備を始めた。
◇ ◇ ◇
水曜日。
連日学校を休んでいたクラスメイトが久しぶりに教室に顔を見せた。
きっと吉澤先生ががんばったおかげだろう。
朝のホームルームが終わるや否や、彼女は怯えながらわたしの元へとやってきた。
「高瀬さん、あの……その、先輩が、渡してほしいって」
また先輩か。
うんざりしつつ渡された茶色い封筒を開く。
中には千円札が2枚と、五百円玉が一枚。なんのお金かを示す紙は入っていなかったが、要件はすぐに見当がついた。
カバンから財布を取り出しお金をしまう。
代わりに釣銭の16円とクリーニング店の領収書を封筒の中に入れた。
「これ、わたしからって言ってその先輩に渡しておいてくれないかな」
「うんっ、わかった」
彼女はほっとして頬をゆるめる。
「その……ごめんなさい」
それだけ言って、彼女は封筒を手に自分の席へと戻っていった。
春樹の提示した刻限に間に合ったことを、密かに安堵する。
これでしばらくは、静かで平和な学校生活が送れるはずだ。
幕間 被り物を捨てる end.




