11.マヤと菜月
◇ ◇ ◇
時間が少しさかのぼる。
マヤは不安定な心が自身の行動を鈍くさせているのを自覚していた。
悩み事の分析はできても、依然として解決の糸口は見つからないまま。
それは確かに決意の末の行動だった。
とはいえ結衣に対して秘密を抱えてしまったことに変わりはない。
後ろめたさで気分が沈み、放課後を迎えてもすぐに下校する気になれずのろのろと帰り支度をするのがここ数日の日課となっていた。
三國に悩みを聞いてほしいと思う反面、この問題を打ち明けるのに迷っているのも確かで、多忙を極める三國と一緒にいられない一週間は寂しくもあるけれど少しだけほっとできた。
その日もマヤは下校していくクラスメイトをぼんやりと見送ってから、ゆっくりとカバンにノートをしまった。
ホームルームの挨拶後、ほとんどの生徒たちはすぐに教室からいなくなる。
アルバイトがあるのか、結衣も足早に下校していった。
彼女がやって来たのは、喧騒が消えた室内で自分も帰ろうかとマヤが重い腰を上げた時だった。
「高瀬結衣か、津月マヤって子、まだいるかしら?」
教室に入るなり後ろ手でドアを閉めた彼女は室内に向かってそう問いかけた。
明らかに他校生だとわかる制服を身につけた女性に最初こそ戸惑ったが、マヤが警戒しながら名乗り出るとすぐに彼女は自身を咲田菜月と名乗り、結衣の幼馴染だと説明を加えた。
その名前にマヤは聞き覚えがあった。
「来るのが遅かったわね。結衣はもう帰ってしまったかしら」
「はい。ホームルームが終わってすぐに」
マヤの言葉に軽くうなずいた菜月はスマホを取り出してどこかへ電話をかける。
「わたし。今、結衣の教室まで来たのだけど、本人には会えなかったわ。——ええ、そっちはどう?」
相手の話す声は聞こえないが、会話を進めていくうちに菜月の表情が険しくなっていく。
「あんた、もしかして結衣に見つかって逃げられたんじゃないでしょうね」
……それは、どういう意味なのかしら……?
「まあいいわ。もし見つけたら捕獲しておいて」
逃げるとか捕獲って……おおよそ友人関係にある人を相手に日常で使用しない気がする単語が耳に入ってマヤがおののく。
そんなマヤに気づいた菜月は、電話を切って場の空気を苦笑いで誤魔化す。
「あの子、自分が怒られると知ったらすぐに逃げようとするのよ。どうせ捕まるってわかってるくせに、毎回往生際が悪くて手を焼くわ」
面倒だと言いたげな口調なのに菜月はどこか楽しそうだった。
これは笑っていいところなのか。
表情に困っていると菜月は改めてマヤと向き直った。
長身のボーイッシュな彼女に見つめられ一瞬不覚にもマヤのドクンと胸が高鳴る。
「結衣のこと、春樹に伝えてくれてありがとう。ごめんなさいね。あいつ、無愛想な俺様で怖かったでしょう」
「え……、いえ!」
武藤春樹。名前を聞いた途端、マヤの脳裏に彼と電話で話した時の緊張がよみがえった。
菜月が偽物とかではなく、本当に結衣の友人なのだと確信できた安心感と、結衣に秘密で春樹に連絡を取ってしまった罪悪感が心の中で同時に押し寄せ上手く口が回らない。
「それはそうと、わたし今、正面の門からまっすぐ昇降口に行って、校舎に入ってすぐのそこにあった階段を上ってここまで来たのだけど……、道中で結衣を見かけなかったのよ。最短ルートで教室まで来た思ったのだけど、もしかしてあの子、いつも別のところ通って帰ってるのかしら?」
「それはないと思います。中央の階段を使うのが一番早いですし」
結衣を発見できなかったとなると昇降口で見逃したのではと思い至る。
3学年全クラスの靴箱が設置されて死角も多い場所だから、入れ違いになってしまったのかもしれない。
菜月がスマホの画面をチェックして難しい顔をする。
「あの……、咲田さんはその服装で、ここまで来たのですか?」
とても気になったので勇気を出して聞いてみた。
下校時間に最も人通りが多くなる校舎中央の階段を、菜月は人の波に逆らってこの教室まで歩いて来たというのか。
マヤの問いに菜月は当然だと大きくうなずく。
「こういうのは堂々としていたら案外怪しまれないものよ」
マヤの心配や、まだ教室に残っている生徒の怪訝そうな視線にも菜月は気にする様子がなかった。
——ひょっとして、こういうことに慣れているの?
「そんなことより、あの子本当にどこへ行ったのかしら。わたしのツレが校門のところで待機してるから、まだ学校の敷地から出てないはずなのだけど……」
考え込む菜月を前にしてマヤの不安が膨らむ。
先生からの急な呼び出しを受けた。
そんな理由ならいいけれど……。
でも、結衣にもしものことが起こっていたら……。
「あ……、あのさ」
教室に残っていたクラスメイトが恐る恐る話しかけてきた。
「その……さっき、当番のゴミ捨てに行った時なんだけど。高瀬さん、誰かとグラウンドのほうに歩いてくの、わたし見たよ」
菜月とマヤは目を見合わせる。
お互いがあまりいい予想をしていないことが、視線だけでなんとなく伝わった。
「教えてくれてありがとう」
情報をくれたクラスメイトに菜月が笑いかける。
途端に彼女は頬を赤くして、タジタジになりながら友人たちがいるほうへと戻っていった。
マヤにはクラスメイトの気持ちが理解できた。同性であってもときめいてしまうぐらい、菜月はとてもかっこいい。
「ねえ、マヤ。あなたこのあと時間ある?」
「はい」
思い過ごしならそれで構わない。
とにかく今は結衣の安全をこの目で確認したくて、グラウンドまで探しに行こうと思っていた。
菜月だって心配だろう。もし結衣が見つかったら連絡しよう。——そうマヤが提案する前に、自信に満ちた笑みを浮かべた菜月が先に口を開く。
「だったら少しのあいだ、そのスカートを借りてもいいかしら。さすがに校内を駆け回るのにこの格好だと目立つから」
「……はい?」
突拍子もないお願いだった。ぽかんとしてしまったマヤを置いて、菜月は言葉を続ける。
「ここの生徒に結衣のことを聞くのにも、他校の制服だと警戒されかねないのよ。ついでに、今日は部活見学もしたいと思っていたから、できれば協力してほしいの」
部活見学。
そう言った菜月の瞳が怪しく光る。
たくらみを隠そうとしない楽しげな口ぶりに、ああこの人は結衣の友達だとマヤは心の底から納得した。
*
——入れ違いになりたくないし、マヤはここで待っていてちょうだい。
あんたはここの生徒でしょう。結衣がおかしなことに巻き込まれていたとしても、マヤまで余計なところでいらない恨みを買う必要はないの。
こういうのは、他校生のわたしに任せて大人しくしてなさい。
菜月が教室を出てからずいぶん待った気がする。
しかしマヤが時計を確認したら、まだほんの数分しか経過していなかった。
あれから教室に残っていたクラスメイトたちに菜月についていろいろ質問を受けた。しかしマヤ自身、菜月については結衣の友達としか答えようがなかった。
クラスメイトは早々に興味を失くして教室からいなくなった。
校舎の上階から金管楽器の音が層になって響く。吹奏楽部の身体の芯を揺さぶる音に耳を澄ませてマヤは不安を紛らわせた。
何もできない自分がもどかしい。
最善の方法を考えてきたつもりなのに、いつも振り返っては後悔ばかりしてしまう。
迷うことなく即断で行動に移せる菜月が、マヤにはとても眩しかった。
しばらくの時間が過ぎて、菜月が教室に戻ってきた。
暑そうに襟元を指でつまんでぱたぱたと服の中に空気を送りながら歩いていた菜月は、マヤを見とめて表情を和ませた。
「ありがとう。おかげで助かったわ」
お礼を言われるようなことをわたしはしていない。
感謝の言葉を素直に受け止められず、作った笑みはぎこちないものになってしまった。
教室の中で菜月は腰のファスナーを下げて、履いていたスカートを脱ぐ。
室内には自分たちしかいないし廊下からも物音は聞こえないけど、こんなところを万が一他人に見られたらまずいのではないか。
インナースパッツを履いているとはいえ、彼女の細くてスラリと長い脚を前にマヤは目のやり場に困った。
幸いにも目撃者を出さずに本来の制服姿に戻った菜月にほっと息をつく。
着替えを見届けて、マヤもスカートを履いたあとで足から体操着のパンツを取り去って制服に戻った。
「あの、結衣は?」
ひととおりの身だしなみを整えたところで気になっていたことを尋ねる。
菜月はスカートのポケットから取り出したハンドタオルで額の汗を拭いながら口を開いた。
「ひと悶着あったけど、まあ問題ないわ」
何事もなかったわけじゃない。その事実にマヤの背筋がざわつく。
「……結衣は」
菜月は暑そうに前髪をかき上げ、じっとマヤを見下ろしてくる。
まるでどこまで話していいか品定めされているような、そんな視線に落ち着かない。
「集団に囲まれて、逃げられないように羽交い締めされたところにホースで水をふっかけられてたわ」
抑揚なく言われた内容が具体的にどんなものを表しているのか。現実味がなさすぎて、理解が追いつかない。
だけどひとつひとつ言われた事象をイメージして頭の中でつなげていくうちに、頭から血の気が引いて行くのをマヤは自覚した。
「改めて言葉にしたら、結構しゃれにならないことが起こってたのよね。まあ、それについてはもう大丈夫よ。結衣は今別件でそれどころじゃなくなってしまったでしょうし。あの子は相変わらず、自分のされたことには関心がないみたいだから」
呆れと達観が混ざった菜月の声に耳を傾けつつ、高ぶっていく感情をなんとか抑えつけた。
結衣の身に降りかかったことに対する憤りや悔しさ、やるせない気持ちを悟られたくなかった。
当事者でもない、助けにも行けないわたしが人よりも感情を荒げていいはずがない。
喉の奥につかえた何かをぐっとこらえ歯を食いしばっていると、菜月が腰を曲げてマヤの顔を覗きこんだ。
「我慢しなくて怒っていいのよ。結衣が平気そうにしているからって、あなたまで平気でいる必要はないわ。こういう時は、見ているこっちが鬱陶しくて気になって仕方がないから、早くなんとかしろって結衣の背中を蹴りあげてやればいいの」
「え……、でも、それは」
「変なところで鈍感だから、結衣はそれぐらいしないと気がつかないのよ。我慢して、マヤが苦しむほうが、あの子にとってつらいでしょうし。嫌なことは、遠慮なんてしないで正直に言ってやりなさい」
姿勢を正した菜月がニコリと笑う。
「今度、一緒に遊びに行かない? わたしたちの友達に綾音っていう、マヤと仲良くしたがってるのがいるの。結衣も引っ張ってきて、女だけで楽しみましょうよ」
急な誘いだった。
どう返事をしていいのか困るマヤに菜月は破顔する。
「返事は落ち着いてからでいいわ。だけどこのことは結衣に内緒よ。今回、散々心配をかけさせられた分、驚かしてやらないと気が済まないの」
菜月は唇の前に人差し指を立てて、いたずらっ子のように肩をすくめた。
マヤが戸惑いながらもうなずく。
「楽しみにしているわ」
軽く言って、菜月はマヤに背を向け教室のドアへと歩き出す。
「じゃあ、わたしは行くけど、マヤはできれば時間をおいて教室を出たほうがいいわ。ここに戻ってくる途中、下の階がうるさかったから。わたしと一緒にいるのを他人に見られるのは、後々のことを考えても得策じゃないでしょう。じゃあ、また会いましょうね」
それだけ言うと呆然とたたずむマヤを置いて、菜月は颯爽と去っていってしまった。
わたしもあんな人になりたいと、強い憧れを抱く。芯の通った、とても格好いい人だった。
誰もいなくなった教室で、外の景色を見ながら時間をかけて、高ぶった自分の感情をひとつひとつ整理していく。
——我慢しないで、正直に……。
頭の中で、菜月に言われた言葉が繰り返された。
◇ ◇ ◇




