5.彼女の言い分
そこからしばらく、マヤは残された彼女をどうすればいいのかわからず、気まずい沈黙の時間が過ぎた。
やがて、しんとした教室に低い金管楽器の音が聞こえてきた。それを皮切りに校舎のそこかしこから楽器の音が響く。
個々がばらばらに奏でた統一性のない音色はまるで今のマヤの心境を表しているようだ。
やりきれない気持ちのまま貼られた写真に手をかけた。
勢いに任せて結衣の首から下が写る紙をむしり取ったマヤが驚愕に目を見開く。
紙の下には、隠すようにさらに小さな四角い紙が貼り付けてあった。
紙に描かれていたのは、写真の結衣の格好をトレースし、服を取り払った女の裸体のイラストだ。結衣の首から上が実物の写真と自然に繋がるよう、微調整されて貼り付けられている。
それを見たマヤの頭が真っ白になった。
結衣はああ見えてうぶな一面があって、性的なことは苦手にしている。彼女がこれを見たとき、どう思うか。弱みを見せないために、また余裕の笑みを浮かべるのだろうか。
想像しただけでも胸が苦しくなった。
先のことはとても考えられず、マヤは無心ですべての用紙を黒板からはがし取る。
「……これも、あなたの先輩がやれと言ったの?」
写真をくしゃくしゃに手で握りつぶしながら問う。彼女はうつむきながらも小さく首肯した。
激昂しそうになるのを抑え、細く長く息を吐いて冷静でいるように自分に言い聞かせる。
「吉澤先生に相談するわ。理由があったとしても、さすがに度がすぎる」
彼女が勢いよく顔を上げてマヤに詰め寄った。
「お願い止めて! 新人戦も近いのに、こんなことが先生に知られたらチームのみんなになんて言われるかわからない!」
「あなた、いつも自分のことばかりね」
思わずこぼれた本音に彼女の肩が跳ねた。目から大粒の涙が流れて、マヤをさらに白けさせる。
「……部活、してない津月さんにはわからないよ。チームメイトに嫌われたら、休憩時間やお弁当食べる時も独りになって、二人一組でする練習メニューじゃいつも余って誰も組んでくれないの」
ずいぶんと具体的に語れるのね。
そんな仕打ちを受ける子が部の中にいるのかしら? ——とは、話がそれそうだから口にしないでおく。
「同じ部の人たちの関係を良好にするためなら、あなたはそれ以外の場所で誰に何をしてもいいというの?」
「そういうわけじゃないけど、……でも、先輩の命令は逆らえないし」
だから仕方がないと言いたいのか。
「それに、高瀬さんだって全然気にしてないみたいだし、津月さんが先生に言って、あえて大事にする必要はないと思うのだけど……?」
「結衣が平気だったら、あなたは結衣に危害を加えてもいいってことなの?」
語気が荒くなるのを止められない。
この女は結衣を何だと思っているのか。
あなたに、結衣を傷つけていい理由なんてどこにもないでしょう。
「そういうわけじゃないよ! でも……、高瀬さん、強いし。……こんなことになった原因も、もともとは高瀬さんにあるわけだし」
最初は焦って否定したが、続く言葉は完全に言い訳だった。最終的にはもごもごと口の中で自分を肯定する言葉を呟き出す。
話にならない。
この短時間だけでも、彼女になにを言っても無駄なのだと思い知らされた。
結衣にできれば犯人はスルーしてほしいと言われていた理由を、マヤは今さらながら痛感した。
成り行きで関わってしまったけど、わたしは彼女と深く話すべきじゃなかった。
「……早朝練習、あなたもあるのでしょう? 早く行ったらどうかしら?」
「えっ」
不安そうに顔色をうかがってくる彼女を前に、マヤは結衣に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
……本当に、ごめんなさい。
「おはよー……って、今日はどうしたの?」
田所が教室に入ってくる。続くように、数名のクラスメイトも登校してきた。
時間はマヤの思う以上に過ぎていたらしく、さっきまで聞こえていた吹奏楽部の楽器の音はいつの間にかなくなっていた。
「……部活、顔出してくるね。着替えも部室だから」
小声で言って、彼女は目線を下げたまま田所を避けて走り去った。
「何あれ?」
事情を知らないクラスメイト達が困惑している。マヤもどう答えるべきか迷い「なんでしょうね」とごまかすにとどめた。
握りつぶしたコピー用紙をゴミ箱の中へ叩きつけ、ひとりになりたくて教室を出た。
目の前で友人が傷つけられているというのに何もできない無力感が胸を押し潰す。
たどりついた空き教室でドアにもたれかかる。こんなことで泣いている自分が、何より許せなかった。
渦中にいても平然としている結衣に迷惑をかけるわけにはいかない。
マヤはただひたすらに、高ぶった感情が鎮まるのを待ち続けた。
*
マヤは問題の彼女が今朝していたことを、午前中のうちに結衣に伝えた。
同時に自分が彼女に口出ししてしまったことを謝ったら、結衣にはいつかのように、逆にマヤを巻き込んでしまったことを謝られてしまった。
昼休みは元気がないと翔吾にも心配をかけてまうし、今日のわたしは本当に情けない。
もやもやした気持ちが晴れないまま、放課後を迎えた。
「……津月さん」
帰りのホームルームを終えて吉澤がいなくなった直後、件の彼女に顔色をうかがうように話しかけられた。
「どうしよう」
自分は被害者だとでも言いたげな弱々しい困り顔が、マヤの神経を逆撫でする。
「部活の先輩が、いつも全然平気そうにしている高瀬さんに怒ってて、実はわたしが高瀬さんをかばっているんじゃないかって、冗談めかして疑ってきたの」
「……知らないわよそんなの」
マヤはそれを打ち明けてくる意図がわからない。
結衣を巻き込まない部活内の揉め事なら、そっちで勝手にすればいいじゃない。
わたしに解決の糸口があると思われているのが腹立たしい。
「ねえ、高瀬さんに、廊下を歩く時だけでもうつむき気味にして、嘘でもいいから落ち込んでるみたいにしてもらえるように、津月さんから頼んでもらえないかな? じゃないとわたし、どうしようもなくって」
先輩という人の圧力に彼女が困っているのはわかった。だからといって承諾できるおねがいではない。
結衣に嫌がらせをしておきながら、よくその口で厚かましく頼みごとができたわね。
おそらく先輩の命令というのは、彼女にとっての免罪符になっているのだろう。
結衣を加害する理由にそれがある限り、どんなことをしても心は罪悪感にさいなまれない。
「わたしからは言えないわ。せめて自分で直接結衣に相談したらどうかしら」
「駄目よ! そんなの……高瀬さんのことは無視しろって言われているのに、わたしから話しかけるのは……」
あれも駄目、これも駄目。
だから嫌な役はマヤに代わりにお願いします?
もうふざけるのもいい加減にしてほしい。
これ以上彼女と話していたら感情に任せて怒鳴りつけてしまいそうだ。
無視して強引に下校してしまったほうが互いのためかもしれない。
「——どこの誰? あんたの言う先輩とやらは」
苛立ちで周りに注意をはらえていなかった。
マヤが気づいたときにはもう、結衣が隣に立って、彼女に冷ややかな言葉をぶつけていた。
「なんなら今からわたしも部活に同行して、先輩と話をつけようか」
脅しじゃない。結衣は本気で行くつもりだ。
「やめてよ! そんなことされたら、あとでなんて言われるかわからない!」
マヤは思わず脱力しそうになった。
ねえ、数秒前にあなたの言ったあれは嘘だったのかしら。
結衣を無視しろという先輩の命令は、保身のためなら簡単に逆らえるのね。
「前に、わたしはマヤを巻き込むなと言った。忠告を破ったのはそっちだよ」
「だって……、どうしようもなかったんだもの。これは仕方のないことで……」
「そう。じゃあわたしが先輩とやらに直接文句を言いに行くのも、仕方のないことだよね」
「お願い止めて、部活にはついて来ないで!」
悲鳴に近い叫び声に一瞬教室が静まり返る。
我に返って口を抑えた彼女が居心地悪そうに首を垂れた。
「まあ、今日一緒に行かなくてもいいか。先輩とやらについても、別に教えてくれなくていいよ。部活はわかってるんだから」
あとはこっちで勝手に調べると結衣は最後まで言わなかったが、意図はしっかり彼女に伝わった。
「わ……わたしの部活、2年の先輩は8人もいるんだよ?」
「だからなに? それはわたしがあなたの先輩に会いに行くのをやめる理由にはならない」
話は終わったとばかりに結衣が目の前で慌てふためく女子生徒に興味をなくし、マヤに顔を向けこてんと首をかしげた。
「今日、三國先輩は?」
結衣が翔吾を「彼氏さん」ではなく「三國先輩」と言ってくれた。
場違いだと自覚していても嬉しさがこみ上げる。
「今週は皇龍のほうが忙しいみたいで、朝と帰りはひとりなの」
「そっか。ならさ、マヤさえよければバイト先に寄って行かない? 静さんが会いたがっていたから」
楽しそうな誘いに今日一日沈んでいたマヤの気分が浮上する。
「いいの? じゃあご一緒させていただこうかしら」
呆然とする彼女を置いて、マヤは帰り支度が済んだカバンを肩にかけた。
「ま、待ってよ! わかった。わたしから、先輩に話してみるから。高瀬さんが直接行くのはもう少し待って!」
下校しようと教室のドアをくぐった結衣に、彼女が必死にすがりつく。
「……今さらかもしれないけど」
うつむいてしゅんとうなだれる彼女に、ゆいが向ける表情は厳しい。
「ほんとに今さらだね。どうして今できることが、わたしの我慢が限界に達する前にできなかったの?」
「……ごめん」
「もうひとつ訊くけど、あなたが先輩とやらに話をつけた結果、あなたのいる部がわたしにちょっかいをかけてくるのがなくなる見込みはあるの? 命令に従うしかできないあなたが、本当に先輩を止められるの?」
「……わからない」
「それじゃあ話にならない」
言い捨てる結衣の鮮やかさはさすがとしか言いようがない。
どうしてわたしは上手くあしらえないのかと、ついマヤは自問してしまう。
「待って! 駄目かもしれないけど、もう一度だけ、わたしにチャンスを下さい! お願いします!」
追いすがって腕に絡みつかれ結衣がうっとうしそうに振り返る。
「ああもう。そこまで言うなら好きにすればいいんじゃないの」
投げやり気味に言い放たれた言葉に一縷の希望を見出し、彼女の顔がぱっと明るくなった。
「そうだね。もしあなたが先輩を止められなかったときは、あなたの口から先輩に、わたしの伝言を伝えてもらっていいかな」
彼女は結衣の腕を放してほっとした笑みを浮かべる。
「うん、いいよ。それぐらいなら」
あなた今、自分で先輩を説得すると言ったことを忘れたの?
結衣がいるならとマヤは傍観者に徹していたが、呆れて開いた口がふさがらない。
「あなたが先輩にどういう話をするのかに興味はないから、伝言の内容は先に伝えておくね。これを伝えなければならない結果になるかどうかは、自分次第だと思っておいて」
「うん。わかった」
了承を得て、結衣は何かを思い出すように虚空を見上げて口を開く。
「これ以上、わたしに関わってくるな。従わなければあんたの後輩を学校に来れなくする。——以上。じゃあよろしくね」
「……へ? なにそれ? ……待ってよ。なんで……、どうして?」
目を丸くしてうろたえる彼女を前にして結衣は面倒臭そうに息を吐いた。
すがるように見つめられても、一切変更の余地はないと結衣の揺るがない目が語っている。
「そんなの、おかしい。……なんでわたしが」
「なんで自分がそんな目に遭わなきゃいけない? ——って言いたいの?」
言葉尻を取られた彼女が悔しそうに歯を食いしばる。
そんな彼女を見て結衣は鼻で笑った。
「それ、わたしの言葉として同じことをあなたに言わせてもらおうか。なんでわたしが私物を盗られて机に落書きされて、盗撮された挙句に写真を裂かれて——。ねえ、どうしてわたしが、こんな目に遭わなきゃいけないの?」
口調を荒げて脅してるわけじゃない。
大声で相手の言葉をかき消し、押し黙らせているわけでもない。
だけど結衣の口から放たれた声には言いようのない威圧感があった。
「まあがんばって。一応、あなたが先輩に話をつけてくれるらしいから、期待はしてるよ」
……口先だけとは言ったものね。まったく頼りになどしてないでしょうに。
顔面蒼白になって悲壮感を漂わせる彼女を置いて、マヤと結衣は校舎をあとにした。
「もういいよ。なんか吹っ切れた」
カプリスへの道すがら結衣がこぼす。
「まったく。彼女も、現場を目撃されるようなへまをするんじゃないよ」
ぼそりと呟かれた文句には思うところが多々あったけど、今は笑って流しておくとする。
これで万事が元通りとはいかなくても、結衣の周りが静かになるならマヤはそれでよかった。
しかしながら。
そうして一時的にでも胸をなでおろしていたのは、マヤひとりだけだったようだ。
次の日には早くも次の問題が浮上した。
災難の火は鎮火しきれないまま、時間だけが過ぎていく。
心配事は、いつになっても無くならない。
結衣が放課後、彼女と話した次の日。
そして、さらにその翌日も。
件の彼女は学校を休んだ。
◇ ◇ ◇




